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今や“おもしろオジサン”前園真聖、中田英寿と交差した数奇なサッカー人生とは?
次代のエース候補・前園 A代表監督と五輪監督による“争奪戦”も
時代が求める――。彼はすぐさまその責務を背負うエース候補として白羽の矢を立てられた。94年、21歳にしてA代表デビューを飾る。この時すでに五輪代表としてもキャプテンを任され、A代表の加茂周監督と五輪代表の西野朗監督(当時)との間で、“取り合い”に近い状況であったことも、その凄みとタフさを示す伝説的なエピソードと言えるだろう。
95年、96年のアトランタ五輪チームでの大車輪の活躍は、その時代に生きた者に鮮烈な印象を残す。当時、アトランタ五輪代表担当として取材にあたった週刊サッカーダイジェスト元編集長の山内雄司氏は語る。
「最終予選のサウジアラビア戦の直前、前園は怖いぐらいの眼で『サウジに勝つ。ただ勝つのみ』と決意を語っていました。ほとんどの選手がプレッシャーと戦っていましたが、前園はなかでも一身に責任を感じていた。狼のような眼とでも言うのでしょうか。瞳の中に突き刺すような光があった」
そのサウジ戦でエース前園は2得点を決め、見事アトランタ五輪への出場を決めた。そして、その勢いのまま同地に乗り込んだ五輪代表は本大会で2勝を飾るが、惜しくもグループリーグ敗退。それでも前園は優れたスキルとキャプテンシーで、ブラジルを撃破する“マイアミの奇跡”を演出し、3試合で2ゴール。大会後は誰もが初のワールド杯出場のキーマンになると予想した。
だが、時代が求めたファンタジスタは、ここから運命に翻弄される。まるで時代から取り残されるように……。
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アトランタでの活躍を見たスペインのセビージャから、前園に獲得オファーが届く。しかし、「当時は現在のように海外移籍も代理人交渉も一般的ではなく、所属する横浜フリューゲルスは容易に首を縦に振らなかった」と山内氏が振り返るように、この移籍交渉は頓挫する。「スペインでサッカーをすることしか考えていなかった」という前園はこの後、激しく落ち込んだ。クラブへの不信感を募らせ、試合へのモチベーションも失われた。
プレーからは急速にキレが失われ、前園も後に「暗黒時代だった」と認めるほどの惨憺たる状態となった。心の傷は彼を日本代表からも遠ざけた。弟分だった中田は、前園に代わってA代表へ招集され、やがて不動の存在になっていく。アトランタからわずか1年後、ふたりの立場は完全に入れ代わっていた。
仮定の話は意味を成さない。だが、「もしあの時セビージャに移籍していたら、前園はどれほどの選手になっていたのか」と山内氏は悔しさを滲ませる。実際、狼の眼差しで疾走する姿を想像すればするほど、「その後の凋落は浮き彫りだった」と続ける。そして、その瞳はついに強い光を宿すことはなく年月を重ねていく。その後、国内や海外移籍を繰り返すが、目立った戦績を残せず05年にスパイクを脱ぐ。日本が生んだ希代のファンタジスタは、まるでフラッシュのように一瞬の輝きだけを残してピッチから消えたのだった。
中田と交差した数奇なサッカー人生。前園に代わってA代表で輝いた中田は、セリエAでの鮮烈デビューに始まり、ローマ在籍時はスクデットも獲得。W杯にも3度出場した。一方の前園は、13年に泥酔した状態でタクシー運転手に暴行を加え現行犯逮捕。中田との明暗はさらにクッキリとしたものになった。
飾らない自分で勝機を見出す 「僕の経歴は“マイアミの奇跡”で終わっている」
かつて“スター”だったプライドを捨て、素の自分を出すことで見出した勝機。実際、本人は言う。「僕っていつも“マイアミの奇跡”を演じたチームのキャプテンと紹介されるんですよ。ということは、一般的な僕の経歴は、そこで終わっているんです」。そう笑顔で語る前園にかつての気負いやプライドはない。
また、視聴者の前園への目線も変化している。17日に放送された『ワイドナショー』でも、いつものようにサッカー絡みで猛烈にイジられた前園だったが、ネットでは、「前園さんイジリがしつこい」、「サッカー語るときの前園さんには、解説者として接してほしい」とお笑い芸人たちに要望する声が散見されたのだ。この数年間、前園が真摯に歩んできたからこそ、視聴者も元サッカー選手としての前園に対しリスペクトを示し始めたのだ。
前園が自身の人生で見せてきたように、サッカーでは1つのプレー、1つのゴール、1つの試合が人生の岐路となる。本日(19日:21時)キックオフを迎える日本代表対コロンビア戦でも、西野監督の元で“マイアミの奇跡”の再現が期待されている。果たして、目下批判の只中にある本田圭佑選手や香川真司選手が雑音を黙らせる活躍を見せるのか? 各々のサッカー人生の岐路となる“運命の1戦”が迫っている。