NHKで放送中の大河ドラマ『真田丸』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)で、主人公・真田信繁(堺雅人)の父・昌幸を演じる草刈正雄。25日放送の第35回「昌幸」ではすでに「さらば、昌幸」と予告しているとおり、昌幸(草刈正雄)の最晩年が描かれる。昌幸のロス症候群がファンの間で起こりそうだ。
草刈自身は1年に及んだ撮影をすでに終え、「やりきらせてもらいました。いい作品に恵まれました。今年はありがたかったですね」と語っている。振り返ってみると、『真田丸』以前と現在で、大きく変わったところと、変わらなかったことがあるという。
最大の変化は「ブログを始めたこと」。これまでSNSに触れることがなかった草刈が、3月20日にブログを開設。本編の撮影だけでなく、関連イベントに出演するため全国各地を訪れた様子などを伝え、注目を集めている。
「ブログをはじめたら、皆さんからいただくコメントがうれしくて。励みになりました。放送を観て感想を書いてくださって、皆さんが細かいところまで観てくださっているのもよくわかりました。印象に残っているコメントは、『昌幸を観ているのか、草刈さんを観ているのか、よくわからなくなった』というものですね」。
変わらなかったことは、1985年に同局で放送された時代劇『真田太平記』で故・丹波哲郎さんが演じた昌幸のイメージだった。同作では草刈が息子の幸村役で出演していた。『真田丸』の撮影が始まってまだ間もない頃、「丹波さんが演じた昌幸の印象が頭から離れない」「スタジオのどこかから丹波さんが見ているような気さえした」と話していた草刈。
『真田丸』の昌幸を演じきった後でも思うのは「丹波さんがどんどん出てきました。僕のせりふ回しも、ボケ〜とした感じも丹波さんあってのものですよ(笑)。丹波さん自身もお茶目な人で、本当にはまり役でしたからね。無意識のうちに丹波さんになっちゃっている時がありました。そういうときは演じていても楽しくて。本当に助けていただきました」。
丹波さんのイメージを重ねたのは草刈だけでなく、作者の三谷幸喜氏もそうだったのかもしれない。草刈としては三谷氏が書く「台本のままに楽しく暴れているだけ」という感覚もあったからだ。「僕自身は戦国時代に特別詳しいわけでもないので、台本の通りやっているだけ。もともと緻密に考えずに、ざっくり演じるタイプなので(笑)。芝居をしているという感じも実際、なかったんです。本当にすてきなキャラクターを三谷さんが書いてくださいました」。
演じていく中で三谷氏が描く「昌幸」について気づいたことがあるという。それは、「武田信玄公への思いですね。熊の毛で作った羽織を着た田舎のイケイケ親父にとって、信玄公ほどまぶしい存在はなかった。信玄公に比べたら、秀吉なんて本当にたいしたことない、と思っていたんでしょうね。最後、『お館様、お館様』と呼びかけるシーンがあるんですけど、昌幸は信玄公の影をずっと追いかけていたんだと感じました。コロコロ方針を変えて、恥も外聞もなく息子にすがって、義もクソもない男に見えなくもないけれど、すべては武田領を取り戻したいという一念から。昌幸が一番、義を貫いた男なんじゃないかと、勝手にそう思っています」。
三谷氏は『真田丸』の信繁を書くために、父・昌幸のこともしっかり描きたいといった趣旨のことを草刈に伝えていたという。そのバトンタッチが行われるのが、次の第38回だ。信繁(堺雅人)とともに紀州九度山村に幽閉となった昌幸は、信之(大泉洋)を通じ何度も赦免を願い出る。徳川家康(内野聖陽)はそれを無視して着々と天下取りを進め、月日ばかりが過ぎていった。やがて死期を悟った昌幸は、ある夜信繁に、徳川と豊臣が将来激突した場合の策を授けるのだった。
「昌幸はね、最後まであきらめないんですよ。死ぬまであきらめません。僕も通りすがりの人でも百姓でも何でもいいからまた出演させて、とお願いしようかな(笑)。おばけになって出るのもいいですね」と、『真田丸』の現場を離れがたい気持ちを語っていた。
草刈自身は1年に及んだ撮影をすでに終え、「やりきらせてもらいました。いい作品に恵まれました。今年はありがたかったですね」と語っている。振り返ってみると、『真田丸』以前と現在で、大きく変わったところと、変わらなかったことがあるという。
最大の変化は「ブログを始めたこと」。これまでSNSに触れることがなかった草刈が、3月20日にブログを開設。本編の撮影だけでなく、関連イベントに出演するため全国各地を訪れた様子などを伝え、注目を集めている。
「ブログをはじめたら、皆さんからいただくコメントがうれしくて。励みになりました。放送を観て感想を書いてくださって、皆さんが細かいところまで観てくださっているのもよくわかりました。印象に残っているコメントは、『昌幸を観ているのか、草刈さんを観ているのか、よくわからなくなった』というものですね」。
変わらなかったことは、1985年に同局で放送された時代劇『真田太平記』で故・丹波哲郎さんが演じた昌幸のイメージだった。同作では草刈が息子の幸村役で出演していた。『真田丸』の撮影が始まってまだ間もない頃、「丹波さんが演じた昌幸の印象が頭から離れない」「スタジオのどこかから丹波さんが見ているような気さえした」と話していた草刈。
『真田丸』の昌幸を演じきった後でも思うのは「丹波さんがどんどん出てきました。僕のせりふ回しも、ボケ〜とした感じも丹波さんあってのものですよ(笑)。丹波さん自身もお茶目な人で、本当にはまり役でしたからね。無意識のうちに丹波さんになっちゃっている時がありました。そういうときは演じていても楽しくて。本当に助けていただきました」。
丹波さんのイメージを重ねたのは草刈だけでなく、作者の三谷幸喜氏もそうだったのかもしれない。草刈としては三谷氏が書く「台本のままに楽しく暴れているだけ」という感覚もあったからだ。「僕自身は戦国時代に特別詳しいわけでもないので、台本の通りやっているだけ。もともと緻密に考えずに、ざっくり演じるタイプなので(笑)。芝居をしているという感じも実際、なかったんです。本当にすてきなキャラクターを三谷さんが書いてくださいました」。
演じていく中で三谷氏が描く「昌幸」について気づいたことがあるという。それは、「武田信玄公への思いですね。熊の毛で作った羽織を着た田舎のイケイケ親父にとって、信玄公ほどまぶしい存在はなかった。信玄公に比べたら、秀吉なんて本当にたいしたことない、と思っていたんでしょうね。最後、『お館様、お館様』と呼びかけるシーンがあるんですけど、昌幸は信玄公の影をずっと追いかけていたんだと感じました。コロコロ方針を変えて、恥も外聞もなく息子にすがって、義もクソもない男に見えなくもないけれど、すべては武田領を取り戻したいという一念から。昌幸が一番、義を貫いた男なんじゃないかと、勝手にそう思っています」。
三谷氏は『真田丸』の信繁を書くために、父・昌幸のこともしっかり描きたいといった趣旨のことを草刈に伝えていたという。そのバトンタッチが行われるのが、次の第38回だ。信繁(堺雅人)とともに紀州九度山村に幽閉となった昌幸は、信之(大泉洋)を通じ何度も赦免を願い出る。徳川家康(内野聖陽)はそれを無視して着々と天下取りを進め、月日ばかりが過ぎていった。やがて死期を悟った昌幸は、ある夜信繁に、徳川と豊臣が将来激突した場合の策を授けるのだった。
「昌幸はね、最後まであきらめないんですよ。死ぬまであきらめません。僕も通りすがりの人でも百姓でも何でもいいからまた出演させて、とお願いしようかな(笑)。おばけになって出るのもいいですね」と、『真田丸』の現場を離れがたい気持ちを語っていた。
コメントする・見る
2016/09/25