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ORICON NEWS
人生を楽しむためのヒント 俳優・三浦友和
陶芸は、子供の頃に好きだったものが全部詰まっている
そこまで困難なことを、40年間無趣味だった男が没頭するまでに至った「陶芸」の魅力とは何だろうか。
「陶芸は、子どもの頃好きだった事が全部入っているんです。水引は“水あそび”、ろくろは“泥遊び”、焼成は“火遊び”。その中でも、一番惹かれたのは“火”です。1000度以上の火はすごいの一言。見ていると頭の中がカラッポになる。3日間続けて焼きますが、寝不足で作業をしていても、その瞬間は何かが覚醒する感覚があるくらいすごいものです」
本能に訴えかける遊びであり原体験、それが三浦にとっての陶芸だ。なかでも、一番の魅力は「無になれる瞬間」だという。
「全部をとっぱらって、それしか考えられない。火だけしか見てないってのはやった人にしかわからないヘンな時間だと思います。俳優もどこかで役に入って無になる瞬間がある。そこにスッとはいっていけたらベスト。なかなかそこまでは行くのは難しいんですがね」
日々いろいろ考えていることから解放されて、無になる瞬間。そこには、どこまでも純粋に三浦友和個人が存在するのみだ。自分と向き合う行為を大切にしていた。
非日常を「日常」と感じさせるリアリティの追及
妻は精神を病み、長男はリストラされ孤立、引きこもりがちな次男は大量殺人を犯し死刑囚となる“壮絶”な映画『葛城事件』。そんな非日常的な一家の主・葛城清を演じる。不遜で、頑固。家族愛は人一倍あるが、愛し方が不器用。ほんの歯車のずれから家庭崩壊が訪れる。非日常の設定にありながら、家族の様子はまるで、一家の日常をのぞき見しているかのようにリアル。日常に潜む非日常の世界、どんな家庭にも起こりうるという恐怖があった。
「記者さんから『ウチの父親みたいだった』『まるで自分の親を見ているみたいだ』っていう意見が結構あるんですよ。葛城清という人物は、特殊な存在ではないんでしょうね」
飲食店で「自分の面子をつぶされた、店長を呼べ」と店員に圧力をかける姿。家族に高圧的に振る舞う様子、妻を通じて息子と会話をする不器用さ。そこを切り取ってみると、日本ではよくある頑固な父親なのかもしれない。そのリアリティをどう生み出したのか。
「映画の中には描かれるけれど、実際にこんな人いないよと思われちゃったら映画として成り立たない。一番注意したのは、“ウチにはいないけれど”こういう人みたことあるよ、そういう人になるように心がけました。
まずは、脚本にリアリティがあるかないか。役者としてはまずそこに惚れるわけです。台本を読んだ時に、全体の面白さと、一人一人のキャラクター、自分がやる役を含めて『こういう人いるよね』って思える作品であったのが一番の要因です。それが出発なので、あとは奇をてらわずに台本のイメージを膨らませて、思ったまま演じました」
とはいえ、非日常的すぎるともいえる役柄の設定。尋常ならざる想像力や役作りが必要なのではないか。どんな家庭にも起こり得る、歯車のずれを表出するプロセスを自然な形で作りだしていくのは、ベテラン俳優の経験がなせる業なのだろうか。
三浦本人も、自分の中にあるいやらしさやずるさ、醜くさを認めて、受け入れているという。そういう姿勢が芝居にリアリティを生む。三浦が一番印象に残っているシーンと語るのが、葛城清が土下座をする場面だ。息子が起こした殺人による社会的影響を蔑まれ、スナックで酔いつぶれながらも別の客に対して謝罪をする。本人にはどうしようもない事態で「いったい俺が何をした」という声が聞こえそうだ。
「謝っているんだけど、こいつ腹の中では謝ってないなっていう。その裏腹な感じ、ふてぶてしさを表現するのは難しかったな。非常にエネルギーを使いましたね」
これも、自分の中のずるさ・醜さを基に演じたのかもしれない。