ニッポン放送では、東日本大震災から10年を迎える3月11日に特別番組『オールナイトニッポンGOLD〜東日本大震災から10年を迎えて〜』(後10:00〜)を放送。震災当日に、東京・有楽町の同局スタジオで生放送を担当し、今回の特番のパーソナリティーを務めるていた上柳昌彦アナ(63)に、震災当時の心境、その後の取り組みなどを聞いた。
上柳アナは2011年3月11日、『上柳昌彦・山瀬まみ ごごばんフライデースペシャル』の生放送中に東日本大震災が起き、首都圏のリスナーに向けて、ライフラインの情報を届けた。「地震発生時の研修は何度も受けていました。また阪神淡路大震災の取材経験もあるので、地震の恐ろしさと対応の仕方もある程度理解しているつもりでした。有楽町のスタジオの揺れが徐々に激しくなるにつれ、首都圏直下型地震か南海トラフ地震がついに来たと思いました。山瀬まみさんが揺れの中で悲鳴を上げないように唇をかみしめている姿を見て、自分もここが踏ん張りどころだと腹を決めました」。
パーソナリティーとして、意識していたことがある。「自宅や番組で訪れたリスナーの皆さんの家の中を思いながら、家具の転倒でケガをしないよう、とにかく身の安全を守ることを伝えました。また、ドライバーには驚いて急ブレーキを踏まないように、状況をよく見てハザードランプを付けてスピードを落としてくださいとアナウンスしました」。懸命に情報を伝えていく中、自身の体調にも変化が訪れていた。
「揺れの中でまったく想定していなかった東北が震源であることや、大津波警報が出ていることが判明します。津波に備えて海から離れてと伝えたものの、40分から50分後にここまで大きな津波が襲ってくることも想像ができていませんでした。揺れが収まるにつれ胃に刺しこむような痛みを感じました。強度のストレスで胃液が大量に出たのではないかと思います。その後、翌朝の11時までスタジオを出たり入ったりしましたが、何を話したのか正確に覚えていません。しかしこの強烈な胃の痛みだけはよく覚えています」
震災直後、リスナーから、さまざまな声が寄せられた。「今でも『あなたの声で我に返ることができた』というメッセージが届きます。阪神淡路大震災を体験した知人から、倒れ込んできた家具に体を挟まれた際に『もうどうでもいいや』と一瞬思ったが、家人の『大丈夫!? しっかりして!』の声で『あ! オレは生きなきゃ!』と思ったという話を思い出しました。ラジオも声がけのひとつになるのだと思いました」。日常生活ではもちろん、非常時にラジオから届けられる声や情報で、救われることがある。
「SNSなどを通じ、さまざまな方法で情報を入手することができる今ですが、テレビは停電で観ることはできないし、スマホのバッテリーは連絡用に温存しなければなりません。もしラジオに力があるとすれば、携帯ラジオなら単4電池で100時間聴くこともできるという事でしょうか。しかしいざラジオをとなった場合に備えて、やはり日頃から、なじみの放送局やなじみの声をひとつでも作っておいていただければと切に思います」
今回の生放送では、東日本大震災から10年を迎えての率直な心境を、上柳アナがこれまで話を聞いてきた人々や、番組リスナーと電話をつなげていく。「10年を区切りにすることは、単にメディアの都合でしかないことは重々承知しています。それでも10年目の一日に何をお感じになったのか、そして10年前のあの日にどのような体験をされたのかを改めて伺いたいです。私のこの10年を思い返しても、番組が変わり定年になりそして手術をするなど、さまざまありました。ましてや…であります」。パーソナリティーとして、伝えたい思いがある。
「たまたまあの日、震度5強の中でマイクの前にいた私ですが、では震度6強や7の激震の中で何ができるのかと考えると、ぼう然となります。それでもお聴きになっていただく方が少しでもいる限り、私はやはり明日もマイクの前に座ることでしょう。豊かな自然と四季の移ろいがあり温泉やおいしい水のおかげで、繊細な味の料理や日本酒を楽しむことができるのが日本です。一方で地震、台風、豪雨、火山の噴火がこの10年で立て続けに発生しているのも日本です。日本列島とはそのような場所にあることを再確認したうえで、それでもどのようなことが起こっても力を合わせ、お互いなんとか生き続けていこうと思い合える時間にできればと思います」
【上柳昌彦】1957年8月1日生まれ、大阪府出身。立教大学法学部卒業後に1981年ニッポン放送アナウンサーとして入社。2017年の退社まで様々なワイド番組を担当。現在はラジオパーソナリティーほか、テレビ・映画・CMナレーション、イベントMCなどで活動している。
上柳アナは2011年3月11日、『上柳昌彦・山瀬まみ ごごばんフライデースペシャル』の生放送中に東日本大震災が起き、首都圏のリスナーに向けて、ライフラインの情報を届けた。「地震発生時の研修は何度も受けていました。また阪神淡路大震災の取材経験もあるので、地震の恐ろしさと対応の仕方もある程度理解しているつもりでした。有楽町のスタジオの揺れが徐々に激しくなるにつれ、首都圏直下型地震か南海トラフ地震がついに来たと思いました。山瀬まみさんが揺れの中で悲鳴を上げないように唇をかみしめている姿を見て、自分もここが踏ん張りどころだと腹を決めました」。
「揺れの中でまったく想定していなかった東北が震源であることや、大津波警報が出ていることが判明します。津波に備えて海から離れてと伝えたものの、40分から50分後にここまで大きな津波が襲ってくることも想像ができていませんでした。揺れが収まるにつれ胃に刺しこむような痛みを感じました。強度のストレスで胃液が大量に出たのではないかと思います。その後、翌朝の11時までスタジオを出たり入ったりしましたが、何を話したのか正確に覚えていません。しかしこの強烈な胃の痛みだけはよく覚えています」
震災直後、リスナーから、さまざまな声が寄せられた。「今でも『あなたの声で我に返ることができた』というメッセージが届きます。阪神淡路大震災を体験した知人から、倒れ込んできた家具に体を挟まれた際に『もうどうでもいいや』と一瞬思ったが、家人の『大丈夫!? しっかりして!』の声で『あ! オレは生きなきゃ!』と思ったという話を思い出しました。ラジオも声がけのひとつになるのだと思いました」。日常生活ではもちろん、非常時にラジオから届けられる声や情報で、救われることがある。
「SNSなどを通じ、さまざまな方法で情報を入手することができる今ですが、テレビは停電で観ることはできないし、スマホのバッテリーは連絡用に温存しなければなりません。もしラジオに力があるとすれば、携帯ラジオなら単4電池で100時間聴くこともできるという事でしょうか。しかしいざラジオをとなった場合に備えて、やはり日頃から、なじみの放送局やなじみの声をひとつでも作っておいていただければと切に思います」
今回の生放送では、東日本大震災から10年を迎えての率直な心境を、上柳アナがこれまで話を聞いてきた人々や、番組リスナーと電話をつなげていく。「10年を区切りにすることは、単にメディアの都合でしかないことは重々承知しています。それでも10年目の一日に何をお感じになったのか、そして10年前のあの日にどのような体験をされたのかを改めて伺いたいです。私のこの10年を思い返しても、番組が変わり定年になりそして手術をするなど、さまざまありました。ましてや…であります」。パーソナリティーとして、伝えたい思いがある。
「たまたまあの日、震度5強の中でマイクの前にいた私ですが、では震度6強や7の激震の中で何ができるのかと考えると、ぼう然となります。それでもお聴きになっていただく方が少しでもいる限り、私はやはり明日もマイクの前に座ることでしょう。豊かな自然と四季の移ろいがあり温泉やおいしい水のおかげで、繊細な味の料理や日本酒を楽しむことができるのが日本です。一方で地震、台風、豪雨、火山の噴火がこの10年で立て続けに発生しているのも日本です。日本列島とはそのような場所にあることを再確認したうえで、それでもどのようなことが起こっても力を合わせ、お互いなんとか生き続けていこうと思い合える時間にできればと思います」
【上柳昌彦】1957年8月1日生まれ、大阪府出身。立教大学法学部卒業後に1981年ニッポン放送アナウンサーとして入社。2017年の退社まで様々なワイド番組を担当。現在はラジオパーソナリティーほか、テレビ・映画・CMナレーション、イベントMCなどで活動している。
2021/03/10