ORICON NEWS
毒母に言われた衝撃の一言「脱いででも稼いできて」 それでも愛されたかった…家族支えた長女の想い
母の負担を増やさないように…常に顔色をうかがっていた幼少期
ーー漫画『毒親だけど、愛されたかった』(KADOKAWA)には妹たちのために、母に甘えるのを我慢していた幼い頃の鈴村さんの描写が。幼い頃の鈴村さんは、母に対してどのような感情を抱いていましたか?
「いつも“大変そうだな”と思っていたような気がします。母が忙しく大変そうなのが当たり前の日常でした。それと同じように私が甘えたかったり、母と遊びたいとゆう気持ちを我慢するのも当たり前の事として受け入れていました。子どもの頃から注意散漫で抜けてるタイプだったのですが、自分のミスで母に怒られる事が“怖い”と言うよりは“母の負担を増やさないように”常に顔色を伺っていた気がします」
ーー子どものためを思って行動してくれていた母が「もうママをやめる」と発言するまで180度変化していきました。その変化について、いつどのように感じ取っていましたか?
「母が独立して自分のお店を持ってから、母の交友関係がどんどん広がって、週1〜2回の飲み会が週3〜5回と増えていき、母が家にいないのが普通の状況でした。まだ小学生の子どもがいる家でこの状況はおかしいなとはずっと思ってました。身嗜みや服装もカジュアルな路線から、10代20代の女の子が好んで着るようなギャルっぽい露出度の高い服装に変わって行った事から、“楽しい事”への歯止めが効かなくなっているのはずっと感じてました」
ーー家を出て自分の人生を歩み始めた鈴村さんが、ご家族と連絡をとらなかった期間を「4年半の解毒期間」と表現されていました。自分のことだけを考えてよい時間ができたことは、鈴村さんにとってどのような意味を持ちましたか?
「家族と離れるまでずっと母親の意に反することは絶対にいけない事で、何か重要な事を決める時は必ず家族が軸にあったので、良く言えば“聞き分けの良い子”だけど悪く言えば“自我が薄い都合の良い子”でした。
"自分の事だけ考える”=“自分の事は全て自分で決めなければならない”と気づいてからは、徹底的に自分と向き合いました。自分が何が嫌いで、何に怒って、何が好きで、何が楽しいのかを探すうちに少しずつ自信がついて我儘も言えるようになりました。【4年半の解毒期間】は、家族や周りの人達と対等な人間関係を作っていくために自分の軸を取り戻す期間だったと思っています」
「もう俯くことしかできない誰かが、ほんの少しでも自信を取り戻して前を向けるような漫画を描いていきたい」
「家族に会いに行くと言った時、主人には猛反対されました。『どうせまた嫌な思いをするのだから行かなくていい』という静止を振り切ったのもある意味私の我儘だったと思います。葛藤はほとんどありませんでした、会いに行くと言った時には母が死ぬと思っていたので迷っている暇が無かったのもあります。
会わないで後悔するより会って後悔した方がいいと、4年半とゆう長い時間で心の傷も多少癒えていたのもあって決断は早かったと思います」
ーー今回のご家族・お母さまとのエピソードを、漫画として表現する際に、もっとも難しかった、苦労したのはどのような部分ですか?
「ただ私自身が可哀想な物語にはしたくないと常々思って描いていました。私だけでなく母や妹達にも共感してもらえるように、140Pとゆう少ないページ数で彼女達が抱えていた感情や心の変化を少しでも組み込むにはどうしたらいいか常に頭を抱えていた気がします。あと単純に“漫画を描く”事そのものがとても難しかったです」
ーーSNSも含めて漫画を発信されています。今回の書籍や今後鈴村さんが描かれる漫画について、人々にどのように伝わっていってほしいですか?
「今私が描ける漫画は自分に降りかかった不幸の話で、誰かを笑顔にできるような内容ではありません。でも誰にでも“自分以外の誰かの不幸”に救われてしまう瞬間があると思っています。つらくて苦しくて、もう俯くことしかできない誰かが、ほんの少しでも自信を取り戻して前を向けるような漫画を描いていきたいと思っています」
『毒親だけど、愛されたかった』(KADOKAWA)
夫に逃げられ、4人の娘を一人で育てることになった母。長女の五月は、そんな母を助けようと、幼いながら小さな妹達の世話をする。
ところが、最初は優しかった母が、生活の苦しさや母親というプレッシャーからか、だんだん毒母の片鱗を見せ始める。家族の生活を顧みず、男と遊び回り、五月を風俗で働かせようとするなど、やりたい放題。
母親のために、家族のために、健気に働き続ける五月だったが、ついに家を出る決心をする。
購入はこちら(外部サイト)