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「真のメディアの姿」いまだネット称賛続く地方局アナ、震災報道でキー局に怒鳴った理由語る
改めて当時の様子から震災報道への想い、さらに様々な物議を醸している新型コロナウイルスの報道に対する意見などを山田さんに伺った。
放送中の記憶がなく、特番を見て怒鳴っている自分を見て「言葉を失った」
――アナウンサーを目指したきっかけを教えてください。
山田理元々はテレビ制作がしたくて総合職を目指していて、当時はアナウンス試験を受ける人は凄いなーなんて思っていました。青森の大学に通っていたので、最初は青森ケーブルテレビで制作をしていました。そこでディレクターの先輩に「山田は話すの上手いからリポーターやってくれないか」と声を掛けられ、アイスホッケーやママさんバレーの実況をやるようになったんです。そこから話す仕事に興味を持ち、地元のテレビ局のアナウンサーを受けることにしました。
山田理そうですね。盛岡で生まれて18年間住んでいたので、いつかは何らかの形で地元に貢献したいという気持ちが大きかったです。あと、弊社のアナウンサーは地元出身者が少なかったので、盛岡出身の自分だからこそできることがあるのではないかと思い、入社しました。
山田理正直驚きました。実は、放送中の記憶があまりないんです。とにかく必死で。特番のVTRを見て、言葉を失いました。小さい地方局がキー局のテレビ朝日に何を文句言っているんだっていう話ですよね。「本当にすみませんでした」という思いでした。
――それでも9年経った今でも、あの時の山田さんの対応が語り継がれています。特番放送当時の反響はいかがでしたか。
山田理実は、放送直後はそんなに反響はなかったんです。当時は、「あれでよかったのか?」「あの放送をしたからといって命を救えたのか?」と悶々と考えたりしていました。後輩からネットでの反響を聞いても見ないようにしていて、あの部分だけ切り取られても決して褒められることではないという思いはすごくありましたね。
「誰もちゃんと想定ができていなかった」決してテレ朝の対応が悪かったわけではない
山田理あの時、地震によって東北各地の情報カメラが停電で動かなくなったんです。唯一動いていたのが、岩手県宮古市のカメラだった。でも、あのような大地震が起きると、緊急特番になってローカル放送はできなくなる。岩手県内の皆さんに伝えたい情報があっても、こちらで放送内容をコントロールすることはできないんです。
――そんな中、津波が宮古市沿岸に今まさに押し寄せている映像に覆いかぶさるように、津波到達予想時刻を知らせるテロップが乗っていたんですよね。
山田理映像を見ていて、さきほど6メートルを観測した津波に次ぐ第2波だと気づきました。しかし、当然のことなのですが、その時テレビ朝日は情報収集のために各所と連絡をとっていて、電話もインカムも混線しており、それに気づいていなかった。思い返してみると、そんな中で、僕のマイクなら誰か聞いてくれているのでは!?と思って叫んだような気がします。
山田理いえ、正確には私の映像をチェックしていたテレビ朝日のデスクが怒鳴ってくれたことで、中継がつながったそうです。これまで、津波の生中継って世界でどこでもやっていなかったと思うんです。2004年のスマトラ島沖地震でも、津波の様子は、襲来後に視聴者映像がニュースに流れただけだと思います。もちろん訓練は何度も重ねていましたが、生中継で大津波が放送されるなんて、誰もちゃんと想定できていなかったのではないでしょうか。
――あの時のテレビ朝日の対応が必ずしも悪かったわけではない?
山田理私はテレビ朝日を批判しているわけでもなければ、当時スタジオにいたアナウンサーを批判しているわけでもありません。あのような状況の下、どうしたらいいか考える上で、必死に訴えたというだけです。キー局では30ほどのモニターを同時にチェックしていて、岩手だけでなく宮城からも福島からも、その他、全国各地から一気に情報が寄せられていたと思います。そんな中、私の叫びに気づいた方がいて、私を映してほしいと訴えたつもりはなかったですが、すぐに岩手に中継を繋いでいただいたのはありがたかったです。