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いつでも振り返れ『エール』
第8週「紺碧の空」(第36回〜第40回:2020年5月18日〜5月22日)
古山家に早稲田大学応援部が押し寄せてきたところで終わった第7週のつづき。当時、早慶戦といえば、国民的関心を集めた一大イベント。早慶戦のはじまりは、1903(明治36)年11月、早稲田大学野球部から慶應義塾大学野球部に挑戦状が送られ、第1回が開催された。以来、熱き戦いが繰り広げられ、両校の応援が盛り上がりすぎて、一時中止になったことも。1925(大正14)年の東京六大学野球の創設をきっかけに復活し、ラジオの普及もあって空前の人気となっていた。
実は、応援部の中に佐藤久志(山崎育三郎)のいとこ、佐藤幸太郎(斎藤嘉樹)がいて、久志が裕一を紹介した。小山田耕三(志村けん)が早稲田の第一応援歌を作曲していたこともあり、裕一は引き受けることにしたのだが、次の早慶戦まで2週間。なかなか曲は書けなかった。
レコード会社で、同期の木枯正人(野田洋次郎)が作曲した「丘を越えて」を歌っていた歌手の山藤太郎(柿澤勇人)を紹介される。山藤は慶応義塾大学卒業後、東京音楽学校の声楽科で学んでいたが、家庭の事情で金を稼ぐため、流行歌を歌っていると聞き、裕一は思わず「なんでこんなことをしているんですか?」と見下すようなことを言ってしまう。それを聞いていた技師の小田和夫(桜木健一)には、「君みたいな人、いっぱい見てきたよ。己にこだわって、才能を生かせない人」と、バッサリ言われてしまう。
保の言葉に腹を立てる裕一。見かねた音は、以前、廿日市(古田新太)に言われたことを伝える。「西洋音楽にこだわって、作ってくる曲が鼻につく。こざかしい知識をひけらかして、曲を台無しにしている」と。「何か変えないとまずい」と話す音に対して、裕一は「イギリスで音楽の勉強をしていたはずなのに、東京の隅っこで応援団と大衆の曲を作っているんだ。十分、変わっている」と言い返す。「それでも自分の音楽を表現しようと頑張っている。自分の音楽は捨てないよ。捨てたら意味ないよ」と、息巻いた。
翌朝、音は置き手紙を残して豊橋に帰り、母・光子(薬師丸ひろ子)や姉・吟(松井玲奈)、妹・梅(森七菜)、そしてはじめて会う吟の婚約者・鏑木智彦(奥野瑛太)に裕一のことを相談する。鏑木の「軍人が命をかけて戦えるのは誰かのためだから」という話からヒントを得た音は、団長のもとへ。団長の気持ちを伝えて、裕一の心を動かしてと頼む。
裕一は「目が覚めた」と音と仲直り。今や売れっ子になった木枯にも「自分の力を示すことに固執していた」「そんな独りよがりの音楽伝わるわけない」「もう一度頑張ってみる」と話す。木枯のアドバイスを受け、目を閉じて誰かを思い浮かべて、あることをひらめく。
第37回で、裕一のことで悩む音に、喫茶・バンブーの梶取恵(仲里依紗)は、「彼を変えられるのは自分だけだと思う」と言って、渡したのが「徳川家康公御家訓」。家康の理念や理想の精髄を今日に伝えるもの。「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し 急ぐべからず」「不自由を常と思へば 不足なし」「心に望(のぞみ)おこらば 困窮したる時を思ひ出いだすべし」「堪忍(かんにん)は無事長久(ちょうきゅう)の基(もとい) 怒りは敵と思へ」…。その内容はごく簡単な言葉でありながら、実行はなかなか難しいものであり、音も「何もしないってつらいわ」とこぼしていた。