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ヒットメーカー・織田哲郎が振り返る“90年代の特殊な環境” 「担当アーティストとはほとんど会っていなかった」
ZARDとは2回しか会ったことがない
だから、ZARD(坂井泉水)とは実は2回しか会ったことがないんですよ。沢山の曲を彼女と作ってきたけど、「思い出を振り返って」と言われると難しい。完成曲は、店頭に並んだタイミングで初めて聴いていたぐらい。WANDSも同じで、最初に挨拶をしたぐらいしか会ってなかったかな。
ほぼ時を同じくして、小室(哲哉)くんがヒット曲を量産していたけど、よくあれだけのプロデュース業をこなしていたなあって思います。それも曲だけじゃなく歌詞も書いてね。自分の場合は、納得いかない所がとにかく目についちゃう性格で、アレンジ込みでプロデュースを請け負うと、普通のプロデューサーより時間がかかってしまうタイプなんです。なので小室君はまったく違うタイプの音楽家だと認識していました。世間から見ると、“ライバル関係”に思われていたのかもしれないけど、僕自身特にその意識はなかったですね。
ヒット率の高さは歴代でも上位の自負はある
それと、彼女は「コピーライター」としての能力がものすごく優れていた人でしたね。『負けないで』もそうだけど、印象に残るフレーズをサビの頭にポンと乗せてくれる。それってポップスにおいてものすごく重要なこと。その能力が頭抜けて素晴らしかったですね。
お陰様で90年代に僕が手がけた曲は、世の中の多くの人が認知してくれていたけど、実はその時期、ヒットした曲以外はあまり作曲は行っていないんですよ。20代の頃に、とにかく曲を量産していたんだけど、その時に作品を“売れるもの・売れないもの”という基準で線引きし始めちゃっていて、そのことにどこか嫌気が差してしまった。
なので、30歳を過ぎてからは仕事する数を絞って、もし相手が気に入らないのであれば曲を返してもらっていた。そんなスタンスでしたね。そういう意味じゃ、作曲数に対してヒットした「打率の高さ」は歴代でもトップだという自負はありますよ。