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ヒットメーカー・織田哲郎が振り返る“90年代の特殊な環境” 「担当アーティストとはほとんど会っていなかった」

 1990年代前〜中盤にかけて、日本の音楽市場では100万以上のCD販売を記録する「ミリオンセラー」が続々と登場していた。その時代を代表する作曲家の一人が織田哲郎だ。ZARDの『負けないで』や、WANDSの『世界が終るまでは』、FIELD OF VIEW『突然』など、国内のみならず、海外でも愛される多数のヒットソングを手がけた。現在は、YouTubeで自身のコンテンツ『オダテツ3分トーキング』で曲にまつわるエピソードトークを披露など、活動に広がりを見せている織田に「90年代の音楽シーン」を振り返ってもらった。

ZARDとは2回しか会ったことがない

 僕がヒット曲を世に出していた90年代は「ビーイング」という会社に所属していたんですけど、その会社はアーティストとコンポーザーを極力会わせないという方針だったんです。でも、自分自身あまり会いたくなかったので助かっていました。何故なら自分が面倒臭く感じることって、大体が「対人的なもの」が原因だったんです。基本的にスタジオにいれば幸せな人間なんで、そういう意味じゃとてもありがたい環境でした。ビーイングの創業者・長戸(大幸)さんとだけ打ち合わせをすればよくて、とにかく音楽を制作することだけに専念できた。

 だから、ZARD(坂井泉水)とは実は2回しか会ったことがないんですよ。沢山の曲を彼女と作ってきたけど、「思い出を振り返って」と言われると難しい。完成曲は、店頭に並んだタイミングで初めて聴いていたぐらい。WANDSも同じで、最初に挨拶をしたぐらいしか会ってなかったかな。

 ほぼ時を同じくして、小室(哲哉)くんがヒット曲を量産していたけど、よくあれだけのプロデュース業をこなしていたなあって思います。それも曲だけじゃなく歌詞も書いてね。自分の場合は、納得いかない所がとにかく目についちゃう性格で、アレンジ込みでプロデュースを請け負うと、普通のプロデューサーより時間がかかってしまうタイプなんです。なので小室君はまったく違うタイプの音楽家だと認識していました。世間から見ると、“ライバル関係”に思われていたのかもしれないけど、僕自身特にその意識はなかったですね。

ヒット率の高さは歴代でも上位の自負はある

 楽曲を提供するアーティストとの相性は確実にありました。そういう意味では理屈じゃなく、ZARDとはいい運気の中で仕事が出来ていたんでしょうね。曲を提供しやすい人と、何故だかイメージが膨らまない人がいる。タイミングっていう問題もあるけど、彼女に対して提供してきた曲は、自分でも「いいモノができたな」と思うことが多かった。

 それと、彼女は「コピーライター」としての能力がものすごく優れていた人でしたね。『負けないで』もそうだけど、印象に残るフレーズをサビの頭にポンと乗せてくれる。それってポップスにおいてものすごく重要なこと。その能力が頭抜けて素晴らしかったですね。

 お陰様で90年代に僕が手がけた曲は、世の中の多くの人が認知してくれていたけど、実はその時期、ヒットした曲以外はあまり作曲は行っていないんですよ。20代の頃に、とにかく曲を量産していたんだけど、その時に作品を“売れるもの・売れないもの”という基準で線引きし始めちゃっていて、そのことにどこか嫌気が差してしまった。

 なので、30歳を過ぎてからは仕事する数を絞って、もし相手が気に入らないのであれば曲を返してもらっていた。そんなスタンスでしたね。そういう意味じゃ、作曲数に対してヒットした「打率の高さ」は歴代でもトップだという自負はありますよ。

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