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【ガンダムの生みの親】富野由悠季監督インタビュー特集
【NEW!!】作詞家・富野由悠季が語る“アニソン”の価値基準の変化
ガンプラと歩んだ40年、ガンダムの生みの親・富野由悠季が語る「“おもちゃ屋スポンサーは敵”という被害妄想」
【インタビュー前編】累計発行部数1,100万部超の小説家・富野由悠季が“ペンを折った”理由 「僕は踏み込めない弱虫だった」
小説家としての自負と挫折感 「作家としてのモチベーションが足りなかった」
――インタビューに先立って角川書店の担当者に問い合わせたところ、富野監督が執筆された小説の累計発行部数は1,100万部超(紙書籍のみ)とのことでした。
富野由悠季うそ、知らなかったよ(笑)。数字の上ではそうかもしれませんが、2010年に『リーンの翼』(新装版・角川書店)を上梓した時点でペンを折ったんです。それはなぜかといえば、その時点で小説家としての評価が一切聞こえてこなかったからです。
富野由悠季『王の心』に関しては、僕は統治論の話をよくしていますが、果たしてガバナンスというものを個人でできるのだろうか? と思った時に、結局、組織は個人から離れていくものだと考え、それを組織から排除されていた時の王の立場から書いたのが、『王の心』です。
――家族や国民の行く末を、亡霊となっても見守り続ける主役のグラン王の姿が当時の富野監督を想起させ、とても興味深い内容でした。
富野由悠季個人で組織の問題を描きたいと思いながら、それを書ききれかった意味では、『王の心』は一つの到達点であると同時に、“人間を洞察できない富野”を自覚した作品でもあります。結局、自分には作家としてのモチベーションが足りなかったのでしょう。
――富野監督の人間描写は一般的に高い評価を受けていると思いますが?
富野由悠季本当に作家性がある人は、僕以上に“対象に対する観察眼”を持っているか、徹底的に調べている人です。つまり、モデルに対してすごく踏み込んだ形で書くことができます。しかし、大学時代のカメラを扱った経験と、虫プロの後に1年だけやったCMの仕事で分かったのは、僕はそこまで踏み込めない弱虫であると同時に、無精者であるということ。だから自分の手の内、つまりデスクワークで出来る範囲で済ませちゃう。僕がアニメをやったのは、まさにその手癖を自覚したからです。
庵野秀明も絶賛! 富野演出では“生々しい女性”を描く「僕が演出する女性は欲望を全肯定している」
富野由悠季僕が描く作品には大人っぽいお姉さんがいっぱい出てきますが、実はその辺を歩く女性とほぼ違わないんです。それは特別な観察眼がなくても描けます。
富野由悠季最近のアニメや漫画のなかの女性がこうまでステレオタイプになった理由を考えた時に、「あ、アナタたちの『好き』ってこのレベルなのね。だったら、僕は同業者と同レベルじゃないものをやるよ」って、それだけのことです。女性を描くというのは、対象に対してもうちょっと踏み込まなくちゃいけません。十人のキャラがいたら、十人を全部自分の好みに染めることは出来ないわけです。だから、描く対象に対しては、“作り手の好きな女性像”としてではなくて、女性キャラがその世界にいる、というふうに描くしかありません。
――そうした意味でいうと、魅力的な女性を表現することはとても難しいですね。
富野由悠季そうなんだけれども、単純にセクシャリティの在り方でしかないです。僕の描く女性は自分のセクシャリティ、つまり自分のセックスに対する欲望というものを全肯定しているんです。男の慰み物になる暇なんてないよね、ということです。
“異世界転生”ものの先駆者・富野由悠季 「ファンタジー小説とは過去の歴史の集積」
富野由悠季物語を書く、ファンタジーを書く、というのはどういうことかと知ったのは、ゲーテの『ファウスト』を読んだ時です。一人の作家がこんなにもファンタジックに書けるんだろうと驚きもありました。一方で、その後に『ファウスト』の題材はドイツ近辺の昔話を集大成しているものだと分かり、「なんだ、大作家でも全部がオリジナルじゃないんだ」ということを知りました。
――読み継がれてきた名作でさえ、過去の集積の上に成り立っているのですね?
富野由悠季つまり、作品を醸出するのは昔から“語り継がれてきた”話なんです。そうすると、結局個人のクリエーターだけの能力で作れるものはほとんどなくて、まさにその風土が作ったもの。イソップ物語やアンデルセン物語などもそうですし、『神曲』などを見ても、騎士物語をどう再構築するか、書き手としての技量が駆使されるわけです。
――ファンタジーものは、昔から存在している要素を当代小説というスタイルに再構築する技量が必要なわけですね。
富野由悠季バルザックの『人間喜劇』を読んで腰を抜かしたのは、人々の暮らしといった機微を事細やかに見ていることです。翻訳本で読んでも、舞台の景色や距離感、人々の仕草も匂いも分かります。服一つをとっても、服の縫い目まで徹底的に踏み込んでいます。そういう作品を知ると、気分で書けるものは何ひとつないと分かるわけです。
――先ほどおっしゃっていた、“対象に対する観察眼”を持っているか、徹底的に調べている作家というのは、まさにバルザックのような作家であるという事ですね。
富野由悠季そうした差が露わになるという意味で、作家というのは怖いですね。機会があれば、皆さんもぜひバルザックの小説を読んでみてください。