ORICON NEWS
窪塚洋介が語る“不遇の時期”からの再起「怒りがエネルギーになっていた」
不遇の時期から這い上がってやっと報われた
窪塚洋介アメリカのNYやLAの銀幕に僕が登場するなんて。なんかいい時代だなと思います(笑)。まあ自業自得ではあるんですけど、事故のあとの不遇の時期から這い上がっていくような期間があったので、賛辞とともに海外からお迎えが来てくれて、やっと報われるというか。でも、そのころ突き放されていた芸能界に対して「見返してやる」と思っていたわりには、キチジロー役が決まったときには「ざまあみろ」とかそういう感情はなくて。それは音楽活動を続けてきていたことが大きいと思います。
――卍LINEとしての活動ですね。
窪塚洋介インターネットがない時代のフラストレーションとか、世の中やメディアに対しての負の想いというのは、卍LINEとして音楽活動をしていたことによって、かなり昇華されていたんです。恨み辛みのようなヨコシマなものや怒りがエネルギーにもなっていましたけど、それってあまり持ちたくはないものでもありましたから。純粋に喜びの気持ちだけを持って、『沈黙-サイレンス-』の公開を迎えられて良かったと思っています。
窪塚洋介いやいや。マーティン・スコセッシ監督の映画のオーディションがありますとなったら「行かないわけはない」というだけの話ですよ。DVDのメイキング映像や特典映像まで観まくっていた尊敬する監督の作品に出演できるわけですから。ただそれだけです。よくハリウッド進出と言ってもらうんですが、それよりもスコセッシ作品に出演した、という方が自分の感覚により近いですね。
――2016年にアメリカで公開されるということは、今年の米アカデミー賞を狙うということもあると思います。
窪塚洋介そうでしょうね。ひょっとしてという思いはあります。今後、何作ハリウッドに呼んでもらえるか分からないですが、そのなかでもきっと賞レースに一番近い作品になるんじゃないかと思います。でも、今作で助演賞に一番近いのはイッセー(尾形)さんじゃないかな。
毎日が白昼夢のなかで仕事をしているような気分
窪塚洋介マーティンは日々、笑顔で喜んでくれていました。それと、日本のみんなに対して敬意を持って現場にいてくれましたね。撮影中以外にも、マーティンや周りの人たちにすごく良くしてもらいました。なんだか狐につままれているような、毎日が白昼夢のなかで仕事をしているような気分でした。
――撮影は台湾で行ったそうですね。
窪塚洋介五島の話なのに、そこはみんな残念だと言っていました。日本のフィルムコミッションが受け入れきれなかったみたいですけどね。ただ、京都から時代劇のスペシャリストたちが集まっています。“京都映画チーム meets マーティン・スコセッシ”という面もあったんですよ。それがまたすごく良くて。
窪塚洋介職人さんなので、みなさん京都にいるときとあまり変わらないんですよ。「俺のエンドロール、断ったんだけどさ。どうしても出すというから、“マーティンのおもり”と書いといてくれ」とか、現場では「ニワトリが違うんだよ、こんなニワトリいないんだよ、日本には」って、そんな感じの人たちなんで。セットのドアが引き戸ではなく、開き戸になっていたときは、さすがにぶち切れて直させていました。そういうことを僕にグチってくるのがすごくおもしろくて(笑)。日本でやってきたことに誇りを持って妥協なくぶつかるというのは、彼らを通して教えられるところでもありました。
――現場の感覚としては、日本映画と変わらなかった?
窪塚洋介僕にとっては初めてのハリウッド映画でしたが、ハリウッドチームにとっても、日本、台湾、アメリカの混合ロケチームというのは、みんなが初めての体験だったんです。だから、みんなが手探りで初めてのことを共有したからこそ一体になれたのかもしれません。僕らからしたら、ハリウッド映画に対する憧れという部分は大きかったかもしれないけど、そのときにマーティンが、本当に敬意を持って日本のみんなと接してくれた。かつての日本の歴史、時代考証も含めて敬意を表してくれていました。日本語のセリフにしても通訳のダブルチェックがあったり、日本の文化としておかしくないかということを、毎カット毎カット気にされていて。そういう気持ちはうれしかったし、それがあったから、寒いとか待ち時間が長いとか、そういう類いのことはなんでもなくて。そういう時間すら楽しかったですね。