■東京の吉本
大正時代の資料によると当時の吉本は、営業部・人事部・企画部・技芸部・巡業部・宣伝部・庶務部で組織されていたようです。その総称が吉本興行部で、現在の会社組織における「部」の意味とは少し違う使われ方をしています。
昭和7年(1932年)3月、従来の組織に、文芸、映画の部門を加えるとともに、合名会社に改組。吉本せいが主宰者、林正之助を総支配人、林弘高を東京支社長として、強力な経営体制をとりました。ちなみに、出資金は6万円で、せいが3分の2、残りを正之助が出資しています。
東京支社長の林弘高は、せい、正之助の弟。大正時代に吉本は、神田花月を手始めに東京へも進出をし、当時は浅草にも遊楽館、昭和座、万成座などの劇場を持っていました。昭和10年に万成座の隣に東京花月劇場をオープンさせます。「映画とレヴュウと漫才のショウ劇場」を看板に掲げ、東宝系の映画、エンタツ・アチャコ、金語楼、三亀松といったお笑いに加え、永田キングや大竹タモツらの軽演劇も上演。さらに力を入れたのが弘高肝いりの「吉本ショウ」です。
吉本ショウは当時流行していたレヴューやボードビルを参考に、タップダンスやジャズを取り入れたものでした。文芸部が中心になって構成をまとめ、メンバーもチラシを使って公募するなど、現代のエンタメビジネスの先駆けともいえる手法で人気を集めました。
しかし、戦時色が濃厚になるにつれ、西洋風のものは敵視されるようになり、時の流れには抗えず、次第に衰退していったのです。
「吉本百年物語」6月公演〜舶来上等、どうでっか?〜より
(次回掲載は8月26日)文・前田憲司
「吉本百年物語」(1)吉本発祥のナゾ
「吉本百年物語」(2)漫才と落語
大正時代の資料によると当時の吉本は、営業部・人事部・企画部・技芸部・巡業部・宣伝部・庶務部で組織されていたようです。その総称が吉本興行部で、現在の会社組織における「部」の意味とは少し違う使われ方をしています。
昭和7年(1932年)3月、従来の組織に、文芸、映画の部門を加えるとともに、合名会社に改組。吉本せいが主宰者、林正之助を総支配人、林弘高を東京支社長として、強力な経営体制をとりました。ちなみに、出資金は6万円で、せいが3分の2、残りを正之助が出資しています。
吉本ショウは当時流行していたレヴューやボードビルを参考に、タップダンスやジャズを取り入れたものでした。文芸部が中心になって構成をまとめ、メンバーもチラシを使って公募するなど、現代のエンタメビジネスの先駆けともいえる手法で人気を集めました。
しかし、戦時色が濃厚になるにつれ、西洋風のものは敵視されるようになり、時の流れには抗えず、次第に衰退していったのです。
「吉本百年物語」6月公演〜舶来上等、どうでっか?〜より
(次回掲載は8月26日)文・前田憲司
「吉本百年物語」(1)吉本発祥のナゾ
「吉本百年物語」(2)漫才と落語
2012/08/25