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菅田将暉に松本まりか…相次ぐ俳優の“休業宣言” 俳優に依存し過ぎないことが令和の正しい在り方に?

  • (左)菅田将暉(C)oricon ME inc.(右)松本まりか(C)ORICON NewS inc.

    (左)菅田将暉(C)oricon ME inc.(右)松本まりか(C)ORICON NewS inc.

 2月放送のトーク特番『まつもtoなかい〜マッチングな夜〜』(フジテレビ系)にて、菅田将暉が現在俳優業を休業中であることを明かし、話題となった。他にも、松本まりかが自身のInstagramにて長期休暇を宣言。2018年には小泉今日子が自ら俳優業を休業することを発表している。栄枯盛衰の激しい業界ゆえに、常に第一線を走り続けていくことが責務とされてきた人気俳優たちだが、ここにきて“働き方”に新たな潮流が生まれているようだ。

「仕事を休むってとても勇気がいる…」“水商売”だからこその選択の勇気と斬新さ

  • SNSで休業宣言した松本まりか(C)ORICON NewS inc.

    SNSで休業宣言した松本まりか(C)ORICON NewS inc.

  • 俳優を休止し、舞台の制作などプロデュサー業に注力する小泉今日子(C)ORICON NewS inc.

    俳優を休止し、舞台の制作などプロデュサー業に注力する小泉今日子(C)ORICON NewS inc.

 先月放送のトーク特番『まつもtoなかい〜マッチングな夜〜』にて、菅田将暉が現在俳優業を休業中であることを明かし、SNSでは「突っ走り続けて来たもんねぇ。新婚生活楽しんでほしい」「しっかり休んで無理のないように続けてほしい」「休業はいい判断」などポジティブなコメントが飛び交った。

 松本まりかも自身のInstagramで「何年か振りに、まとまって休もうと思ってます。休みなんていらないと言い続け、頂ける仕事はありがたくて、全て出来ると思って、やりたいと思って、この数年無我夢中で走り続けて来ました(中略)そんな自分が休みを必要とするとは思ってもいませんでした。この、環境が変わった4年が自分にとってどんなだったのか。一回立ち止まって感じてみたい」と投稿。「ゆっくり休んでほしい」「無理は一番よくない」「仕事を休むってとても勇気がいる」などのコメントが多く見られた。

 思えば昭和の時代、芸能界で“休業”を選択することは、ともすれば命取りとなった。例えば、バラエティ番組の王・萩本欽一は人気絶頂の最中(さなか)、1985年に休養。今でもカリスマとして君臨しているが、テレビ復帰直後は低視聴率、番組の打ち切りなどの憂い目に遭った。だからこそユーザーの「仕事を休むのは勇気がいる」のコメントは的を射ている。

 だが昨今は休業を選ぶタレントの数は増加。西野カナは2019年1月に無期限活動休止をする旨を自身の公式サイトで発表。その2ヵ月後、一般男性との結婚も公表した。また中森明菜も2010年に無期限休止を発表するも2014年に一度復帰。体調不良などの理由もあり、現在の時点ではメディア出演はセーブされたままだ。小泉今日子も2018年に俳優・歌手業を休止。同時に、舞台の制作などプロデュサー業に力を入れることを公言していた。

“役“こそが自分自身 作られた虚像に乗っかることで“自己防衛”できた昭和時代

 かつての俳優といえば「夢を売る商売」だからこそ、与えられる作品を全うすることをよしとされてきた。映画黄金期だった昭和時代、大映のような「一に企画、二に監督、三に俳優」というモットーで作品を制作する映画会社もあり、俳優は作品ありきで動かざるをえなかった。この頃の俳優はあくまでも“商品”であり、“変わりはいくらでもいる”という恐怖心との戦いでもあったろう。したがって俳優としての価値はあくまで作品ありき。作品のキャラクターが俳優を象徴するものでもあった。

 「同時に俳優として長く活躍するためには、俳優としてのイメージを守ることが大事でした」と話すのはメディア研究家の衣輪晋一氏。「千葉真一さんや勝新太郎さんなど、私生活までもイメージを裏切らない破天荒さを見せたケースはもちろん、岡田真澄に至っては、実際は家計が火の車であったにも関わらず、自身の俳優としてのイメージを守るため、マスコミの前ではセレブ家族を演出。本当は食事も質素、パーティー会場などに入る際は現場の近くまで軽自動車で。そこで運転手付きのハイヤーを呼ぶなどしていたそうです」(同氏)

 さらには仕事量も驚くべきものだった。37歳で亡くなるまで159本の映画に出た市川雷蔵は「月一本半(の映画撮影)というペースは、とても人間の才能として昇華しきれるものではない」と異議を唱えていたことが当時の後援会の機関紙のエッセイに残っている。「また、怪我や病気などについても、それで仕事を休むというのはあり得ない話であり、中でも松田優作さんは伝説。ハリウッド映画『ブラック・レイン』では、撮影当時から癌に侵されていたが、延命治療より撮影を選択。結果、公開直後に逝去されました」(衣輪氏)

 俳優の中には、スターであり続けなければならないという無意識の強迫観念もあったかもしれない。その恐れを自ら創造した俳優像に敢えて乗り、自己防衛してきた者も大勢いただろう。それが昭和のスターの宿命であり、だからこそ鬼気迫ったエピソードも作品、芝居も多かった。当然、それも人気につながった。

 だが映画産業が傾き始めると、そうも言っていられなくなり、先述の岡田真澄のような虚像を作るケースも生まれた。一方で、松田優作も黄金期の銀幕に相当憧れたタイプの一人。「『松田優作物語』(ヤングチャンピオンコミックス)には、狂気の役でさんざん女優を蹴る芝居をした結果、優作さんは、自身が癌でも撮影に臨んだように“役者とはそういうもの”という信念のもと、女優が動けなくなるほどになった蹴る芝居を続けたにも関わらず、駆け寄ることなく平然とその場を去ったという壮絶なエピソードが描かれています」と衣輪氏は語る。

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