KAT-TUNとしてCDデビューして17年、MCやコメンテーターなどソロでも活動する中丸雄一(40)が今年、大きな挑戦に踏み出した。それは“漫画家”デビューという幼少期からの夢。6月に漫画雑誌『月刊アフタヌーン』(講談社)で『山田君のざわめく時間』の連載をスタートさせ、ついに来年1月23日に単行本化される。このほど、中丸に単独インタビューを敢行。これまでの道のりと、今後の展望に迫った。
■足掛け3年以上、連載会議には10話以上のネームを提出「アクション起こさないと」
最初に夢が芽生えたのは少年時代。「小学校後半で『週刊少年ジャンプ』をまわりの全員が読んでいるような時代があり、その頃から僕も漫画を読み始め、元々絵を描くのも好きだったことと『漫画家になるためにはどうしたらいいか』という本を読み、将来は漫画家になると勝手に盛り上がったのが中学1年生の頃です」と芸能界入りする以前から“漫画家”という職業に憧れていた。
“描く”というのはいつからか習慣化され、当時は自由帳に漫画を描き、雑誌の企画ページに投稿したことも。「もちろん採用はされていないのですが…今でも覚えています。めっちゃくちゃつまらない4コマなんですけど、当時としては最高傑作。『ドラゴンボール』のベジータがボーリングをやってピンを倒すどころか破壊する、みたいな誰でも考えられるようなありきたりな話です(笑)」と初々しいエピソードを明かす。
初めて絵が仕事として認められたのは2006年放送の『24時間テレビ』における“チャリTシャツ”のデザイン。スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとコラボレーションした。「本当に降って湧いたような話」だったと青天の霹靂(へきれき)でも、中丸は「それまで好きで描いていたけど仕事レベルではないから、必死になって描いたことを覚えています。いきなり大舞台です」と同時にプレッシャーも感じた。
「それまでにもアイドル雑誌のクリスマス企画などで簡単なイラストは描いていたので、こいつは、多少絵を描けるなという認識があったのか拾ってもらって。そこからさらに絵の連載が始まりました。そこでひとつ考え方が変わって、仕事にもなるんだなと思い、向き合いました」とさらに次につながることもできた。
さらに大きな転機は、2012年にフジテレビ系連続ドラマ『主に泣いています』に中丸が出演した際、原作の漫画家・東村アキコ氏と交流をもったことがきっかけとなる。「食事の席で助言をもらい『やってみればいいじゃん』と。そこから徐々に、描き始めました」と、漫画の執筆を開始。「行動したりしてみないと。アクション起こさないと。どうなるかもわからない」と一念発起し、東村氏の担当をしていた編集者・助宗佑美氏にコンタクトを取った。
助宗氏には最初からいきなり“ネーム”(漫画のもととなるもの)をメールに添付したそう。中丸は「送ったのは、オーデションの話をエッセイ風にしたもの。芸能界の裏を描いた漫画。何かとりあえず出そうみたいな感じだったんです」と必死でチャンスを手にしようともがいた。
■「しっかりしたスタートラインに立てた」チャンスつかみ連載漫画家デビュー&単行本化
コロナ禍で中丸がアップしていた『ステイホーム4コマ』を見てた助宗氏は「こんなに毎日、描けるのはすごい」と感心。中丸から連絡を受け、ともに“連載漫画家”を目指すこととなった。年末年始に関係なく、ネームを描いては直しの繰り返し。それまで練習として芸能ものやSFもののネームも描いたというが「しっかりボツになって(笑)」と中丸は苦労も語る。
「描きたいのはわかるけど、完結するまで描き切るのは現状の能力だと無理だよね、となったんです。今、持ってるもの、チャレンジできる範囲で、自分ならではの色が出るものって何かなと探したときに、普段モヤモヤすること、“ざわっ”とするようなことがまぁまぁあるので、それを絵にしました。要するに、身の回りのことだったら、途中で描けなかった…ということにはならないだろうと、大まかな方向性を決めました」と行き着いた。
しかし、方向性が決まってからも連載までは容易ではなく、『山田君』に関して連載会議に出したネームは10話以上。通常は数話程度でいいそうだが「編集の方にも、やる気というか、なんかそういうのも伝わったらいいな。そういう気持ちで、多めに出しました」とここでも積極的に描き続けた。もちろんグループや個人の仕事と平行して、だ。
■周囲に協力してもらうためには“理解”が必要 努力する姿勢を提示することの大切さ
日常のモヤモヤをテーマにしていることからネタ探しは普段からスマホに書き留め、執筆は「仕事の合間か午前中に。朝早めに起きて仕事までの時間に描いています」と忙しい合間を縫っての作業。テレビではひょうひょうとしたイメージの強い中丸だが漫画家デビューから今回の単行本化に至るまででも強く感じるのは漫画への“熱意”だ。
「昔は、なかなかやりたい仕事ができなかったし、仕事が回ってくる仕組みも理解できていなかった。最近気づいたことは、やっぱり、事務所の人や先方さんも、人間なので、どんな仕事でも、周囲に『こいつに協力したいな』と思ってもらえるようにしないと、なかなかことが動かないことです」。
その上で「まず事務所の人に向け、めちゃくちゃやる気があることを伝えています。そういうものがしっかりと伝えられないと動いてもらえないのはどの会社も一緒。理想として、やりたいことはすぐにやりたい。でも協力してもらうためには、やっぱり理解してもらわないといけない。やりたいことが実現できるように、その点は心がけていますね」と力を込める。
今回の漫画家という挑戦に関しても「準備」を入念に行った。「実際に努力しないと認めてもらえない。『こいつ、こんなに頑張ってるんだ』と思わせることが前提だった。だから今回の漫画もひたすら描く。それを見せるというところから始めました」と振り返る。
今年で40歳を迎えた中丸。「ありがたいことに本当に楽しい仕事ばかり。すごく充実した日々を送らせてもらってますね。冷静になるとめちゃくちゃつらいこと、疲れることは正直言ってあるんですけど、でもそれはもう圧倒的に超える、楽しい仕事ばかりです。やりたいことはまだいろいろある。一歩一歩だと思うんですけど、どれもこれもまだ叶えたい。そういう気持ちです」とどこまでも貪欲だ。
「この仕事って、比較的めちゃくちゃ不安定じゃないですか。来年の仕事もわからないのは、よくある話。そのときそのときで全力を尽くすしかない。なのでどれが軸か、というのは正直ない。でも、しいて言うんだったらやっぱり母体はグループの仕事ですかね」とし、さまざまな活動のなかでも一番大切にしていることは「いつも応援してくれてるファンの皆さんのことです」と迷いなく答える姿が印象的だった。
だからこそ “人を楽しませたい”という思いは強い。「まだやりたいことは頭のなかにめちゃくちゃあります。ゲームを作りたい。ゲームクリエイターになりたいんです。『山田君』シリーズと関連させて、今度はスピンオフじゃないですけど。それを今度ゲームで表現する方向を探っています。漫画とゲームが好きだったので、これも前からやりたかったこと」と夢はさらにふくらむばかり。
「あちこちで、こういうこと言うと“なんでも屋”のように思われてしまうかも…信念ないのかって(笑)。ただ、あくまでも漫画の『山田君』シリーズの補助として、プラス、自分の夢を叶える、ということでゲームを作りたいなって思っています」。これまでも持ち前のハングリー精神と計画性で、やりたいことを叶えてきた中丸。その熱意は周囲の人を巻き込み、動かし続けている。
撮影:浜村菜月(LOVABLE)、スタイリスト:河原歩、ヘアメイク:豊福浩一・KOICHI TOYOFUKU
■足掛け3年以上、連載会議には10話以上のネームを提出「アクション起こさないと」
最初に夢が芽生えたのは少年時代。「小学校後半で『週刊少年ジャンプ』をまわりの全員が読んでいるような時代があり、その頃から僕も漫画を読み始め、元々絵を描くのも好きだったことと『漫画家になるためにはどうしたらいいか』という本を読み、将来は漫画家になると勝手に盛り上がったのが中学1年生の頃です」と芸能界入りする以前から“漫画家”という職業に憧れていた。
初めて絵が仕事として認められたのは2006年放送の『24時間テレビ』における“チャリTシャツ”のデザイン。スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとコラボレーションした。「本当に降って湧いたような話」だったと青天の霹靂(へきれき)でも、中丸は「それまで好きで描いていたけど仕事レベルではないから、必死になって描いたことを覚えています。いきなり大舞台です」と同時にプレッシャーも感じた。
「それまでにもアイドル雑誌のクリスマス企画などで簡単なイラストは描いていたので、こいつは、多少絵を描けるなという認識があったのか拾ってもらって。そこからさらに絵の連載が始まりました。そこでひとつ考え方が変わって、仕事にもなるんだなと思い、向き合いました」とさらに次につながることもできた。
さらに大きな転機は、2012年にフジテレビ系連続ドラマ『主に泣いています』に中丸が出演した際、原作の漫画家・東村アキコ氏と交流をもったことがきっかけとなる。「食事の席で助言をもらい『やってみればいいじゃん』と。そこから徐々に、描き始めました」と、漫画の執筆を開始。「行動したりしてみないと。アクション起こさないと。どうなるかもわからない」と一念発起し、東村氏の担当をしていた編集者・助宗佑美氏にコンタクトを取った。
助宗氏には最初からいきなり“ネーム”(漫画のもととなるもの)をメールに添付したそう。中丸は「送ったのは、オーデションの話をエッセイ風にしたもの。芸能界の裏を描いた漫画。何かとりあえず出そうみたいな感じだったんです」と必死でチャンスを手にしようともがいた。
■「しっかりしたスタートラインに立てた」チャンスつかみ連載漫画家デビュー&単行本化
コロナ禍で中丸がアップしていた『ステイホーム4コマ』を見てた助宗氏は「こんなに毎日、描けるのはすごい」と感心。中丸から連絡を受け、ともに“連載漫画家”を目指すこととなった。年末年始に関係なく、ネームを描いては直しの繰り返し。それまで練習として芸能ものやSFもののネームも描いたというが「しっかりボツになって(笑)」と中丸は苦労も語る。
「描きたいのはわかるけど、完結するまで描き切るのは現状の能力だと無理だよね、となったんです。今、持ってるもの、チャレンジできる範囲で、自分ならではの色が出るものって何かなと探したときに、普段モヤモヤすること、“ざわっ”とするようなことがまぁまぁあるので、それを絵にしました。要するに、身の回りのことだったら、途中で描けなかった…ということにはならないだろうと、大まかな方向性を決めました」と行き着いた。
しかし、方向性が決まってからも連載までは容易ではなく、『山田君』に関して連載会議に出したネームは10話以上。通常は数話程度でいいそうだが「編集の方にも、やる気というか、なんかそういうのも伝わったらいいな。そういう気持ちで、多めに出しました」とここでも積極的に描き続けた。もちろんグループや個人の仕事と平行して、だ。
■周囲に協力してもらうためには“理解”が必要 努力する姿勢を提示することの大切さ
日常のモヤモヤをテーマにしていることからネタ探しは普段からスマホに書き留め、執筆は「仕事の合間か午前中に。朝早めに起きて仕事までの時間に描いています」と忙しい合間を縫っての作業。テレビではひょうひょうとしたイメージの強い中丸だが漫画家デビューから今回の単行本化に至るまででも強く感じるのは漫画への“熱意”だ。
「昔は、なかなかやりたい仕事ができなかったし、仕事が回ってくる仕組みも理解できていなかった。最近気づいたことは、やっぱり、事務所の人や先方さんも、人間なので、どんな仕事でも、周囲に『こいつに協力したいな』と思ってもらえるようにしないと、なかなかことが動かないことです」。
その上で「まず事務所の人に向け、めちゃくちゃやる気があることを伝えています。そういうものがしっかりと伝えられないと動いてもらえないのはどの会社も一緒。理想として、やりたいことはすぐにやりたい。でも協力してもらうためには、やっぱり理解してもらわないといけない。やりたいことが実現できるように、その点は心がけていますね」と力を込める。
今回の漫画家という挑戦に関しても「準備」を入念に行った。「実際に努力しないと認めてもらえない。『こいつ、こんなに頑張ってるんだ』と思わせることが前提だった。だから今回の漫画もひたすら描く。それを見せるというところから始めました」と振り返る。
今年で40歳を迎えた中丸。「ありがたいことに本当に楽しい仕事ばかり。すごく充実した日々を送らせてもらってますね。冷静になるとめちゃくちゃつらいこと、疲れることは正直言ってあるんですけど、でもそれはもう圧倒的に超える、楽しい仕事ばかりです。やりたいことはまだいろいろある。一歩一歩だと思うんですけど、どれもこれもまだ叶えたい。そういう気持ちです」とどこまでも貪欲だ。
「この仕事って、比較的めちゃくちゃ不安定じゃないですか。来年の仕事もわからないのは、よくある話。そのときそのときで全力を尽くすしかない。なのでどれが軸か、というのは正直ない。でも、しいて言うんだったらやっぱり母体はグループの仕事ですかね」とし、さまざまな活動のなかでも一番大切にしていることは「いつも応援してくれてるファンの皆さんのことです」と迷いなく答える姿が印象的だった。
だからこそ “人を楽しませたい”という思いは強い。「まだやりたいことは頭のなかにめちゃくちゃあります。ゲームを作りたい。ゲームクリエイターになりたいんです。『山田君』シリーズと関連させて、今度はスピンオフじゃないですけど。それを今度ゲームで表現する方向を探っています。漫画とゲームが好きだったので、これも前からやりたかったこと」と夢はさらにふくらむばかり。
「あちこちで、こういうこと言うと“なんでも屋”のように思われてしまうかも…信念ないのかって(笑)。ただ、あくまでも漫画の『山田君』シリーズの補助として、プラス、自分の夢を叶える、ということでゲームを作りたいなって思っています」。これまでも持ち前のハングリー精神と計画性で、やりたいことを叶えてきた中丸。その熱意は周囲の人を巻き込み、動かし続けている。
撮影:浜村菜月(LOVABLE)、スタイリスト:河原歩、ヘアメイク:豊福浩一・KOICHI TOYOFUKU
2023/11/13