阪神甲子園球場で行われている夏の全国高校野球選手権大会。記録的猛暑の中、球児たちの熱戦が繰り広げられ、16日までにベスト16が出そろった。そんな“甲子園”の歴史の中で、選抜2回、夏1回、計3回優勝投手に輝き、大学進学後は早稲田大学のユニフォームで神宮を沸かせた野球選手がいた。きょう(17日)放送のTBS系『報道特集』(毎週土曜 後5:30)では、68年目の終戦企画「希求〜ある野球人が投じた一球〜」と題し、伝説の野球選手・松井栄造さん(享年24)を特集する。
松井さんは1918年、静岡県浜松市生まれ。小学校3年の時にベーブ・ルースに憧れて野球を始める。その天賦の才はまたたく間に開花し、1931年、12歳の夏、全国少年野球大会に投手として出場。決勝では17奪三振の好投をみせ、チームを日本一に導いた。
岐阜商業学校に進学した松井さん2年の春。1933年の選抜(第10回)では弱冠14歳ながら優勝投手となり、松井さんの左腕から繰り出されるドロップ(縦のカーブ)は三尺(約90センチ)落ちたとの評判が広まった。その後、1935年の選抜(第12回)、1936年の夏(第22回)と、甲子園で3度の優勝を果たす。
1937年4月、松井さんは早稲田大学に進学。秋には1年生ながら六大学リーグデビューを果たす。その後はバッターに転向し、主力選手として存分に活躍する。ところが、松井さん最終学年の1941年。米英との関係が緊迫する中、翌年3月の卒業予定が12月に繰り上がり、太平洋戦争が開戦する。
1942年2月に松井さんは歩兵第三十四聯隊に現役入隊。同年暮れには見習士官として中国戦線に入り、1943年5月28日、湖北省宜昌の西、姚家坊付近での夜間の戦闘中に被弾して帰らぬ人となる。
番組では、松井さんの遺書や戦地から送った手紙などの資料、関係者の証言をもとに、その短い一生を現代の野球少年たちと重ねながら描く。松井さんのことを知る戦争経験者は、口々に「戦争はこりごり」「絶対にやるもんじゃない」と苦悶に満ちた顔をみせる一方で、「(戦争は)起こるかもしれない」「可能性はゼロじゃない」と答える現代の若者たち。日本国憲法第9条についても考えさせられる企画となっている。
松井さんは1918年、静岡県浜松市生まれ。小学校3年の時にベーブ・ルースに憧れて野球を始める。その天賦の才はまたたく間に開花し、1931年、12歳の夏、全国少年野球大会に投手として出場。決勝では17奪三振の好投をみせ、チームを日本一に導いた。
1937年4月、松井さんは早稲田大学に進学。秋には1年生ながら六大学リーグデビューを果たす。その後はバッターに転向し、主力選手として存分に活躍する。ところが、松井さん最終学年の1941年。米英との関係が緊迫する中、翌年3月の卒業予定が12月に繰り上がり、太平洋戦争が開戦する。
1942年2月に松井さんは歩兵第三十四聯隊に現役入隊。同年暮れには見習士官として中国戦線に入り、1943年5月28日、湖北省宜昌の西、姚家坊付近での夜間の戦闘中に被弾して帰らぬ人となる。
番組では、松井さんの遺書や戦地から送った手紙などの資料、関係者の証言をもとに、その短い一生を現代の野球少年たちと重ねながら描く。松井さんのことを知る戦争経験者は、口々に「戦争はこりごり」「絶対にやるもんじゃない」と苦悶に満ちた顔をみせる一方で、「(戦争は)起こるかもしれない」「可能性はゼロじゃない」と答える現代の若者たち。日本国憲法第9条についても考えさせられる企画となっている。
2013/08/17