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歌舞伎町を象徴する“カオス”、祖父が作った『王城ビル』継ぐことを決めた三代目の覚悟「ここをスタバにしたら終わり」

1964年の竣工以来、名曲喫茶、キャバレー、カラオケ、居酒屋と時代に合わせて業態を変化させてきた新宿・歌舞伎町の王城ビル。今回そこで、アートイベント「ナラッキー」が開催された。このような思い切った挑戦を決めたのは、王城ビルを所有・運営する大星商事株式会社取締役の方山堯さん。充実していた会社員生活をやめ、なぜ家業を継ぐことになったのか。そこには亡き祖父の姿と歌舞伎町への想いがあったのだという。

飲食業一筋だったビルをアートイベントの場に 「手応えを感じた」

 新宿歌舞伎町の交差点を「ゴジラロード」に向かって進み路地に入ると、城を模した赤い建物がそびえ立っている。王城ビルと名づけられたそのビルは、1964年に完成し、喫茶店やキャバレー、カラオケ店や居酒屋など時代に応じながら業態を変容させ、長きにわたり歌舞伎町という街と共存してきた。

 そんな老舗ビルが、Chim↑Pom from Smappa!Group(以下、Chim↑Pom)とともに新しい試みを仕掛けたのが、「歌舞伎町アート構想委員会」によるプロジェクト「ナラッキー」。王城ビルを舞台に歓楽街を濃縮還元したような展示が並ぶ刺激的なイベントだ。

 当日イベントに向かうと会場受付で声を出し現場スタッフとして忙しく案内を行っていたのが、王城ビルを所有・運営する大星商事株式会社取締役の方山堯さんだ。新卒で勤めた企業を退職し、一家が所有する王城ビルを含めたビルのオーナー企業に入って3年になる。

「僕、現場がすごく好きなんです。主催者だから数字だけを見て、あれこれやろうと思えばできるけど、お客さんがどんなきっかけで展示を観に来ているのか、展示を観てどんなふうに思ったのか、生の声を聞くことができることってすごく大事だと思うんですよね。めっちゃしんどいですけど。この会期中(9月2日〜10月15日まで)で5キロぐらい痩せましたよ(笑)」

 方山さんが自ら現場で聞いた来場者たちの声は、予想外のものばかりだったという。

「イベントを開始して1ヵ月。初週はアートそのものへの感度が高い方々が来場者の中心で、正直客足もまばらでした。それが週によってどんどん客層が変化し、最終的にはChim↑Pomさんのことを知らない人たちもワーっと集まってきた。この、客層が変わっていく感じ、すごく良いなと手応えを感じました」

都市開発され画一化されていく“東京”へのもどかしさ「歌舞伎町はそんなつまらない変化に抗える最後の街なんじゃないか」

 長らく飲食店として営業してきた王城ビルに新たな価値を生み、今まで歌舞伎町という街に馴染みのなかった新しいお客さんを獲得する。方山さんにとってこの取り組みは“町おこし”のような感覚なのかと尋ねると、「そうではない」と答える。

「経済的にボロボロのシャッター街に活力を!というような、マイナスを埋めるような町おこしとはアプローチが違って、もう少しプラスのイメージでいます。年々、東京の街全体がつまんなくなってきてると感じていて。昔はもう少し、山手線でも渋谷駅とか、東京駅、とか新宿駅とか……それぞれ違う匂い、空気感があったと思うんです。それが今、時代とともに街ごとのグラデーションがなくなっている。全部きれいな枠の中に収まってしまっているように感じています。その中で歌舞伎町って、そういった変化に抗える最後の街なんじゃないでしょうか。それを体現したいという思いで取り組んでいます」

 街の印象が画一化していく背景を、方山さんはこう分析する。

「日本全国にある建物って、1960〜70年代の高度経済成長期に建てられたものが多くて、ちょうどそれが今、寿命を迎える時期になってきているんですね。同時に、ビルを管理する人も、事業をやっていた人の子ども、孫、ひ孫世代に受け継がれている。そうするとどうしても、建替えとなった際に、自らで事業をしたり、面白いことをやるよりも、コンビニやチェーンの居酒屋さんなど安定した収入が見込める店舗を入れる発想になっていく。それは仕方がないことだとも思います。ただ、街の個性みたいなものは画一化されていってしまう。僕、サラリーマン時代は地方に住んでいたんですけど、地方ではよりそれが加速していて。歌舞伎町という街が他の街のような道を辿ってほしくないと考えた時、街のカラーとか強みと照らし合わせながらどういう事業者を自分の建物に入れるかを判断して実際に進めることができるのはビルオーナーしかいないんです。行政だって『この街のビルには(街の風土に合わせて)こういうテナントを入れてください』とは言えないですから」

謳歌していた会社員生活に突如訪れた“転機”「自分のやりたいことだけを理由に、家業が世に継いでいけなくなることが良いんだろうか」

 王城ビルの歴史のはじまりは終戦直後に遡る。方山さんの祖父が一面焼け野原だった新宿西口エリア(現在の思い出横丁)に、バラック小屋を立て立ち飲み居酒屋を始めた。そこから徐々に事業を拡大し、1964年に歌舞伎町の地に王城ビルを建設。当初1階から4階のすべてを喫茶店として営業していた。寺山修司や中上健次といった作家や文豪の社交の場として愛され、近くにあった新宿コマ劇場で公演を行う美空ひばりが出前に王城のホットケーキを頼んでいたといった逸話も残る。その後、地下をキャバレーとして運営したり、カラオケ店や居酒屋など、時代に合わせ事業を変容させながら、2020年2月のコロナ禍まで営業を続けてきた。同じ頃、会社の事業承継者として当時はまだサラリーマンとして企業に勤めていた方山さんに白羽の矢が立つ。仕事にやりがいを感じていた折の出来事だった。

「仕事が楽しかったのでめちゃくちゃ迷いました。それでもたぶん3ヵ月ぐらいで決めました。決定打は、祖父へのリスペクトです。王城ビルの話を小さい頃から聞いて育ってきたのもあり、自分のやりたいことだけを理由に、世に継いでいけなくなるということが果たして良いのだろうかと思ったんです。せっかくこういう資産もあるのに、継がれていかないというのは、すごいもったいないことだなと。そういう意味で心に決めてやろうと」

 しかし時はコロナ禍。未曾有の事態の中、まずは、あらゆるものの電子化やバックオフィス業務などの社内整備から地道に着手していった。

「リクルートの創業者の江副浩正さんの『ロマンとそろばん』という言葉がすごく好きなんです。事業を運営していく上で、ロマンを持つことと同時にそろばん、つまり思いとお金の両方について意識を向けることが大切だということですよね。経営に携わることでサラリーマン時代にはなかった、10円、100円単位の経費にも目を向けるようなコスト意識が芽生えましたし、その上で、自分はこういうことをやりたいんだという思いをコミュニケーションを取りながら社員に伝え、文化として広めていく。両方やらないと人はついてこないという気づきもありました」

 先代のころから何十年も会社に従事してきた社員もいるが、そういった方山さんの事業への姿勢もあってか、軋轢が生まれることもなかった。

「(自分が代表になって以後)社内の空気がよくなったと言ってもらえることが多いです。空気って結構怖くて、一番よくないのが『誰しもがこれはダメだよね』と思っているのに誰も言い出せずにそのままよくない方向に進み続けてしまうこと。みんなが思っていることを言い出せない空気は絶対に避けたいと思っています。社員とのコミュニケーションも、相手や話す内容によって会議形式でしっかり話すか、社内チャットでつついてみるかなど、細かい工夫をして社員たちの声を拾い上げる努力はしてきたつもりです」

 そうした実務的な作業と、大きな展望を両立させながら事業を行う中で、改めて方山さんの中に芽生えた、中小企業を継承することの面白さとはどのようなことなのか。

「メディアでも指摘されていますが多くの日本の中小企業で事業承継がなされず、会社を畳むケースが増え、2040年までに今ある数から4分の1は減ると言われています。その要因は中小企業を支えてきた中枢の人たちが高齢になっていくからなのですが、せっかく業績が良かったり、素晴らしい技術を持っている会社でも、継ぐ人がいなくて廃業してしまうというケースが非常に多いんですよね。やってみて改めて感じるのは、事業の方向性や業績だけが大事なのではなく『そこで働いている人たちにどうやって頑張って働いてもらうか』『どうしたら良い空気感を作っていけるか』といったことも考えなくてはならない。でも、これらに着手していくとあまりにも果てしないんですよね。きっと僕世代の人たちはそこへの怖さや、見通しの難しさから誰も継がずに廃業してしまうのではないでしょうか。でも、すごくもったいないし、その果てしなさが中小企業経営の面白さなんです。答えのない問いに向き合うって、答えのある問いに比べてずっと可能性は無限大なので。だから、選択を迫られた人にはぜひやってほしいなと思います」

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