エスカレーターは歩かず2列で──。今年7月から8月にかけて、JR東日本らがエスカレーターを安全に利用してもらうためのキャンペーンを実施。また、NHKのサイト「聞いてほしい 未来スイッチ2020」もこのエスカレーター問題にフォーカスしており、複数の意見記事が投稿され、SNSでも大きな話題を集めた。急いでいる人に配慮して、エスカレーター片側を空けて立つという暗黙のルール。しかしこの慣習は東京都だけで年間1400件もの事故を引き起こしており、近年はエスカレーターの乗り方を見直す議論が各所で巻き起こっている。特に世界中の人が日本にやってくる2020年を控えたここ1年は、誰もが安心してエスカレーターを利用するための取り組みや呼びかけが盛んに実施されてきた。しかし、なかなか浸透していないのが現状だ。
■「暗黙のルール」が引き起こす、不要なプレッシャー
そもそもエスカレーターはなぜ2列に並んで立つべきなのか。日本エレベーター協会によると、エスカレーターはステップの上に立ち止まって利用することを前提とした安全基準で作られているという。また、ケガや障害などで片方の手すりにしかつかまることができない人もいる。こうした人たちにとって「片側空け」の慣習が危険であるのはもちろん、不要なプレッシャーを感じさせてしまうこともあるだろう。
もちろん健常者であっても、歩いたり駆け上がったりすることで体のバランスを崩して転倒事故を起こすことはある。また片側をすり抜ける際に人や荷物とぶつかって、他の利用者を巻き込む恐れもあるだろう。
業界団体では盛んに「エスカレーターの正しい乗り方」の啓蒙活動を行い、個人もSNSなどで「エスカレーターでこんな危険な目に遭った」と声を上げている。しかし長らく日本では「エスカレーターは片側を空けるもの/歩くもの」という認識が刷り込まれてきた。その慣習を変えるのは、なかなか難しいのが現実のようだ。
■関西は「右立ち」、しかし京都だけは「左立ち」が優勢!?
Jタウン研究所が2014年に行った「エスカレーターで立つのは右と左のどちら?」というテーマの調査では、「片側空けはしない」という回答はわずか12.3%。また「流れ次第で片側に立つ」という回答も9.2%あった。全国的には「左側に立って右側を開ける」が57.0%と優勢で、北海道(78.8%)、東北(61.1%)、関東(70.0%)、甲信越北陸(57.7%)、東海(62.3%)、中国(58.3%)、九州・沖縄(65.4%)と大多数の地域で「左立ち」をしていることがわかった。
全国で唯一「右立ち」が多数派だったのが関西で57.7%を占めている。ただし関西でも京都だけは、「左立ち:35.3%、右立ち:25.5%」とやや左立ち派が優勢。これは京都には国内外の観光客が多く訪れるため、首都圏と同じルールが一部に定着しているのでは、というのが定説となっているようだ。
ちなみに四国地方も「左立ち」が46.8%とやや優勢ながら、「右立ち」も23.4%と全国的には少なくない。中でも徳島では「左立ち:37.5%、右立ち:37.5%」という回答で、これは関西圏の影響が強い地域性を反映したものと推察されている。
なお「片側空けはしない」の回答が比較的多かったのが、和歌山県(36.4%)と岡山県(28%)。ただしどちらの県も「片側空け」のほうが優勢で、関西圏の和歌山県は「右立ち」が45.5%、岡山県では全国と同様「左立ち」が48%という回答だった。
さて、あなたの住む地域はどうだろうか? 5年前の調査とは言え、現在も大きく変わってはいないだろう。地域性が興味深い一方で、「エスカレーターは片側を空けるもの/歩くもの」という根強い思い込みが日本全国に定着していることをあぶり出した、やや複雑な調査でもあった。
■2019年に起こったエスカレーターの「乗り方改革」
いかに定着した慣習であっても、時代とともに変えていく必要がある。東京五輪・パラ五輪の開催を控えた今年は、まさにその絶好の契機として、さまざまな「エスカレーターの乗り方改革」の動きが見られた。
日本エレベーター協会では、全国の鉄道事業者52社局、商業施設、森ビル、羽田空港、成田空港、日本民営鉄道協会、日本地下鉄協会、埼玉県、川崎市、千葉市と共同で、「エスカレーター みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを実施。子どもたちの夏休み期間である7月22日〜8月31日に、駅員による呼びかけや、ポスター提示、ティッシュ配布などでエスカレーターの正しい乗り方を呼びかけた。
また公益社団法人 東京都理学療法士協会では、世界中から日本に人が集まる東京五輪・パラ五輪までに「エスカレーターで歩く人ゼロ」を目指して、2016年に「エスカレーターマナーアップ推進委員会」を組織。今年10月27日に練馬駅周辺で開催された「親子で学ぼう! 安全・安心なエスカレーターの乗り方教室」など、体験を通して「止まって乗るエスカレーター」がなぜ必要なのかを学べるさまざまなイベントを開催している。
■「わけあってこちら側で止まっています」キーホルダーの効果
それでも「エスカレーターは片側を空けるもの/歩くもの」という認識を完全に払拭するには、まだまだ時間がかかりそうだ。
そこでエスカレーターマナーアップ推進委員会では、「わけあってこちら側で止まっています」と記されたキーホルダーを作成。身体的な事情でエレベーターの左右いずれかにしか立ち止まれない人を対象に無料配布をしている。
エスカレーターの歴史やマナーに詳しい江戸川大学の斗鬼正一名誉教授によると、そもそもエスカレーターの「片側空け」の風潮が日本で広まったのは高度経済成長期。その背景にはがむしゃらに働くサラリーマンたちが急いで上り下りできるようにとの配慮があった。しかしそれがあたかもマナーであるかのように浸透した現在、ケガや病気などによってどちらかに寄って立つのが難しい人にとっては、後ろから急ごうとしている人が来るのは大きなプレッシャーになる。後ろの人から舌打ちをされたり、中には故意にぶつかってこられたりするケースもあるという。
このキーホルダーはそうした困っている当事者にとって周囲の理解を求めるのはもちろん、さまざまな事情を抱えた人への配慮ができる社会を目指したもの。さらには「障害者でも健常者でも同じく、エスカレーターは止まって乗るもの」という本来の正しいルールを定着させる目的がある。
キーホルダーを紹介したツイートは広く拡散され、「こんなマークが必要となる世の中にモヤモヤするけど…」「そもそもエスカレーターで歩いてはダメという前提を広めよう」など、大きな反響を呼んでいる。
■コミケ参加者の自発的な取り組みで実現したエスカレーター「2列並び」
社会に完全に定着するには、まだまだ時間がかかりそうなエスカレーター問題。しかしいくつかの成功事例もある。愛好者たちが創作した同人誌などを販売するコミックマーケット(コミケ)では、10年以上にわたって「2列に整列して歩行禁止」というルールが定着している。
今年は過去最高の73万人が訪れた大規模イベントであるコミケ。その参加者の多くが買い込んだ同人誌やコスプレ用の衣装を運ぶためにキャリーケースを引いており、エスカレーターも止まって乗るのが理にかなっている。しかしかつてはお目当てのものをゲットしたい焦りから、大荷物を持ち上げてでもエスカレーターを駆け出す人も散見され、かねがね問題視されていた。
そんな矢先の2008年8月に開催されたフィギュアを販売するイベントで、エスカレーターでの転倒事故が起きた。事故の直接の原因はエスカレーターの不具合だったが、この事故を見た多くのコミケファンが「会場で事故が起きれば、イベントそのものに批判が集まるのでは」という危機感を持ったという。
現在、コミケ会場ではエスカレーターの乗り方として「2列で並んで前後を1段空ける」スタイルが定着。全員がこのルールを守ることで移動もスムーズになり、結果的にお目当てのものもすみやかに購入できるという安心感が醸成されている。もちろん運営側もエスカレーターでの安全を呼びかけてきた。しかし何より参加者それぞれが当事者意識を持ち、自発的に取り組んできたことがこうした「誰もが幸福になれるエスカレーター環境」を生んだと言えるだろう。
■15年かけて「2列並び」が浸透した名古屋の事例
名古屋市は、交通局が15年かけて熱心に呼びかけてきたことで、エスカレーターの2列並びが浸透している全国でも珍しい地域だ。前出の斗鬼正一名誉教授は、「それぞれの自治体で条例をつくり、罰金を課せば簡単に片側空けは無くなるでしょう。しかし、行政が上から押しつけるのではなく、徐々にでもいいので多くの人たちに意識を変えてもらうことが重要です」と、"名古屋ルール"からの学びを呼びかけている。
そもそも、エスカレーターの片側空けにどれほどのメリットがあるのか? これについて実験したのが交通工学者である岩手県立大学の元田良孝名誉教授で、エスカレーターの利用者全員が2列に並んで歩くと、輸送効率が、全員が立ち止まった場合の1.5倍になったという。また片側歩行よりも2列とも止まったほうが、輸送量が3割伸びたとのデータもある。
もちろんこの実験結果は、エスカレーターの長さにも相関する。しかし東京の地下鉄のような長いエスカレーターで、誰も歩いていないのに誰も歩いていない「空白の片側」が延々とできているのは、どう考えても効率的ではないはずだ。
何より高度経済成長期とは異なり働き方改革が推進される現在、がむしゃらにエスカレーターを上り下りするよりも、求められるのは誰もが安心して暮らせる社会づくりだ。エスカレーターの乗り方の常識も、そろそろアップデートする時期にきたのかもしれない。
(文/児玉澄子)
■「暗黙のルール」が引き起こす、不要なプレッシャー
そもそもエスカレーターはなぜ2列に並んで立つべきなのか。日本エレベーター協会によると、エスカレーターはステップの上に立ち止まって利用することを前提とした安全基準で作られているという。また、ケガや障害などで片方の手すりにしかつかまることができない人もいる。こうした人たちにとって「片側空け」の慣習が危険であるのはもちろん、不要なプレッシャーを感じさせてしまうこともあるだろう。
業界団体では盛んに「エスカレーターの正しい乗り方」の啓蒙活動を行い、個人もSNSなどで「エスカレーターでこんな危険な目に遭った」と声を上げている。しかし長らく日本では「エスカレーターは片側を空けるもの/歩くもの」という認識が刷り込まれてきた。その慣習を変えるのは、なかなか難しいのが現実のようだ。
■関西は「右立ち」、しかし京都だけは「左立ち」が優勢!?
Jタウン研究所が2014年に行った「エスカレーターで立つのは右と左のどちら?」というテーマの調査では、「片側空けはしない」という回答はわずか12.3%。また「流れ次第で片側に立つ」という回答も9.2%あった。全国的には「左側に立って右側を開ける」が57.0%と優勢で、北海道(78.8%)、東北(61.1%)、関東(70.0%)、甲信越北陸(57.7%)、東海(62.3%)、中国(58.3%)、九州・沖縄(65.4%)と大多数の地域で「左立ち」をしていることがわかった。
全国で唯一「右立ち」が多数派だったのが関西で57.7%を占めている。ただし関西でも京都だけは、「左立ち:35.3%、右立ち:25.5%」とやや左立ち派が優勢。これは京都には国内外の観光客が多く訪れるため、首都圏と同じルールが一部に定着しているのでは、というのが定説となっているようだ。
ちなみに四国地方も「左立ち」が46.8%とやや優勢ながら、「右立ち」も23.4%と全国的には少なくない。中でも徳島では「左立ち:37.5%、右立ち:37.5%」という回答で、これは関西圏の影響が強い地域性を反映したものと推察されている。
なお「片側空けはしない」の回答が比較的多かったのが、和歌山県(36.4%)と岡山県(28%)。ただしどちらの県も「片側空け」のほうが優勢で、関西圏の和歌山県は「右立ち」が45.5%、岡山県では全国と同様「左立ち」が48%という回答だった。
さて、あなたの住む地域はどうだろうか? 5年前の調査とは言え、現在も大きく変わってはいないだろう。地域性が興味深い一方で、「エスカレーターは片側を空けるもの/歩くもの」という根強い思い込みが日本全国に定着していることをあぶり出した、やや複雑な調査でもあった。
■2019年に起こったエスカレーターの「乗り方改革」
いかに定着した慣習であっても、時代とともに変えていく必要がある。東京五輪・パラ五輪の開催を控えた今年は、まさにその絶好の契機として、さまざまな「エスカレーターの乗り方改革」の動きが見られた。
日本エレベーター協会では、全国の鉄道事業者52社局、商業施設、森ビル、羽田空港、成田空港、日本民営鉄道協会、日本地下鉄協会、埼玉県、川崎市、千葉市と共同で、「エスカレーター みんなで手すりにつかまろう」キャンペーンを実施。子どもたちの夏休み期間である7月22日〜8月31日に、駅員による呼びかけや、ポスター提示、ティッシュ配布などでエスカレーターの正しい乗り方を呼びかけた。
また公益社団法人 東京都理学療法士協会では、世界中から日本に人が集まる東京五輪・パラ五輪までに「エスカレーターで歩く人ゼロ」を目指して、2016年に「エスカレーターマナーアップ推進委員会」を組織。今年10月27日に練馬駅周辺で開催された「親子で学ぼう! 安全・安心なエスカレーターの乗り方教室」など、体験を通して「止まって乗るエスカレーター」がなぜ必要なのかを学べるさまざまなイベントを開催している。
■「わけあってこちら側で止まっています」キーホルダーの効果
それでも「エスカレーターは片側を空けるもの/歩くもの」という認識を完全に払拭するには、まだまだ時間がかかりそうだ。
そこでエスカレーターマナーアップ推進委員会では、「わけあってこちら側で止まっています」と記されたキーホルダーを作成。身体的な事情でエレベーターの左右いずれかにしか立ち止まれない人を対象に無料配布をしている。
エスカレーターの歴史やマナーに詳しい江戸川大学の斗鬼正一名誉教授によると、そもそもエスカレーターの「片側空け」の風潮が日本で広まったのは高度経済成長期。その背景にはがむしゃらに働くサラリーマンたちが急いで上り下りできるようにとの配慮があった。しかしそれがあたかもマナーであるかのように浸透した現在、ケガや病気などによってどちらかに寄って立つのが難しい人にとっては、後ろから急ごうとしている人が来るのは大きなプレッシャーになる。後ろの人から舌打ちをされたり、中には故意にぶつかってこられたりするケースもあるという。
このキーホルダーはそうした困っている当事者にとって周囲の理解を求めるのはもちろん、さまざまな事情を抱えた人への配慮ができる社会を目指したもの。さらには「障害者でも健常者でも同じく、エスカレーターは止まって乗るもの」という本来の正しいルールを定着させる目的がある。
キーホルダーを紹介したツイートは広く拡散され、「こんなマークが必要となる世の中にモヤモヤするけど…」「そもそもエスカレーターで歩いてはダメという前提を広めよう」など、大きな反響を呼んでいる。
■コミケ参加者の自発的な取り組みで実現したエスカレーター「2列並び」
社会に完全に定着するには、まだまだ時間がかかりそうなエスカレーター問題。しかしいくつかの成功事例もある。愛好者たちが創作した同人誌などを販売するコミックマーケット(コミケ)では、10年以上にわたって「2列に整列して歩行禁止」というルールが定着している。
今年は過去最高の73万人が訪れた大規模イベントであるコミケ。その参加者の多くが買い込んだ同人誌やコスプレ用の衣装を運ぶためにキャリーケースを引いており、エスカレーターも止まって乗るのが理にかなっている。しかしかつてはお目当てのものをゲットしたい焦りから、大荷物を持ち上げてでもエスカレーターを駆け出す人も散見され、かねがね問題視されていた。
そんな矢先の2008年8月に開催されたフィギュアを販売するイベントで、エスカレーターでの転倒事故が起きた。事故の直接の原因はエスカレーターの不具合だったが、この事故を見た多くのコミケファンが「会場で事故が起きれば、イベントそのものに批判が集まるのでは」という危機感を持ったという。
現在、コミケ会場ではエスカレーターの乗り方として「2列で並んで前後を1段空ける」スタイルが定着。全員がこのルールを守ることで移動もスムーズになり、結果的にお目当てのものもすみやかに購入できるという安心感が醸成されている。もちろん運営側もエスカレーターでの安全を呼びかけてきた。しかし何より参加者それぞれが当事者意識を持ち、自発的に取り組んできたことがこうした「誰もが幸福になれるエスカレーター環境」を生んだと言えるだろう。
■15年かけて「2列並び」が浸透した名古屋の事例
名古屋市は、交通局が15年かけて熱心に呼びかけてきたことで、エスカレーターの2列並びが浸透している全国でも珍しい地域だ。前出の斗鬼正一名誉教授は、「それぞれの自治体で条例をつくり、罰金を課せば簡単に片側空けは無くなるでしょう。しかし、行政が上から押しつけるのではなく、徐々にでもいいので多くの人たちに意識を変えてもらうことが重要です」と、"名古屋ルール"からの学びを呼びかけている。
そもそも、エスカレーターの片側空けにどれほどのメリットがあるのか? これについて実験したのが交通工学者である岩手県立大学の元田良孝名誉教授で、エスカレーターの利用者全員が2列に並んで歩くと、輸送効率が、全員が立ち止まった場合の1.5倍になったという。また片側歩行よりも2列とも止まったほうが、輸送量が3割伸びたとのデータもある。
もちろんこの実験結果は、エスカレーターの長さにも相関する。しかし東京の地下鉄のような長いエスカレーターで、誰も歩いていないのに誰も歩いていない「空白の片側」が延々とできているのは、どう考えても効率的ではないはずだ。
何より高度経済成長期とは異なり働き方改革が推進される現在、がむしゃらにエスカレーターを上り下りするよりも、求められるのは誰もが安心して暮らせる社会づくりだ。エスカレーターの乗り方の常識も、そろそろアップデートする時期にきたのかもしれない。
(文/児玉澄子)
2019/12/28