| 1960年に東芝へ入社後、坂本九を育て、弘田三枝子を発掘するなど、カバー・ポップスの流行を牽引した草野浩二氏は伝説の名ディレクター。間違いなくJ-POPの礎を築き上げた人物のひとりである。以降も歌謡曲のオリジナルを中心に多くのヒット曲を世に送り出し、手がけたアーティストの数は計り知れない。現在もフリーのプロデューサーとして第一線で活躍を続ける氏に、半世紀近くにわたる現場での経験談や現在の音楽業界への思いなどを伺った。 ――ディレクターになられた経緯からお聞かせください。 草野 僕が東芝へ入ったのは1960年で、ちょうどシックスティーズの始まりの年ですよね。その前の58年から「ウエスタン・カーニバル」が始まっていて、それまでにあった歌謡曲とは違う若者向けの音楽が生まれていたときでした。東芝はその時点でいちばん新しい会社で、59年に水原弘さんの「黒い花びら」で第1回レコード大賞を獲ったりして、専属作家制度に捉われない新しい試みをしていたわけです。演歌系よりもポピュラー系の若いアーティストが多かったし、システムがまだできあがっていなかったから、自由で面白いことができたんでしょう。 大学を卒業したばかりの僕が入社してすぐディレクターを任されることになって困ったんですけど。それまでの2〜3ヶ月間はアシスタントとして全てのディレクターについて現場の仕事を覚えさせられました。だから藤島恒夫さんの「月の法善寺横町」のレコーディングなどにも立ち会っていますよ。 草野 学生時代からハワイアン・バンドをやったり、音楽は好きでしたから、早くからジャズ喫茶なんかには出入りしていました。兄(=故草野昌一氏)が『ミュージック・ライフ』という雑誌をやっていたおかげで、たまに手伝いでプロダクションへ物を届けにいったり、原稿をもらいにいったりする機会は多かったんですね。そんなこともあってか東芝へ入ることになって。まだその頃は東京芝浦電機のレコード事業部という名称でした。 | ![]() 草野浩二氏 (オフィス K) くさの こうじ 1937年東京都生まれ。訳詞家だった漣健児こと、故・草野昌一氏は実兄にあたる。60年に東京芝浦電機レコード事業部(現・東芝EMI)入社。坂本九や弘田三枝子の担当ディレクターとして、カバー・ポップス黄金時代を築く。その後も奥村チヨ、渚ゆう子、ゴールデン・ハーフ、欧陽菲菲、安西マリアら、多くのアーティストを発掘、育成した。91年に退社後はファンハウスに在籍。96年からはフリー・プロデューサーとなり、ステージやテレビなどへも活動の場を広げている。 |
――最初に担当された歌手は覚えていますか。
草野 ダニー飯田とパラダイスキングです。最初のシングルが「悲しき六十才」で、これが坂本九のデビューみたいな形になる。作詞した青島幸男さんもこれが処女作。当時フジテレビで『おとなの漫画』や『ザ・ヒットパレード』をやっていた椙山浩一(=すぎやまこういち)さんから「面白い台本書くヤツがいるから、頼んでみたら?」と紹介されて。お2人は同級生だったそうですね。
それがきっかけでカバーをたくさんやりました。その中で永六輔さんと中村八大さんが作った「上を向いて歩こう」とか「遠くへ行きたい」のオリジナルもありますが、これらはNHKの『夢であいましょう』という番組の「今月の歌」というコーナーから生まれた曲なんですね。
――カバーは曲と歌手の選定が難しいのでは。
草野 そうですね。僕の場合は兄のところ、つまり『ミュージック・ライフ』の編集部へ行くと、各レコード会社のテスト盤が全部その場で聴けたんです。他社のものをかなり早い段階でチェックすることができた。その頃コロムビアで飯田久彦さんを担当していた長田さんとか、テイチクで田代みどりさんを担当していた今井さんとか、他社のディレクターさんたちとの競争でしたから、それは大きなメリットでしたね。それで兄貴と相談しながら、「これは弘田三枝子にいいんじゃない」とか、「パラキンでどうだろう」などと言っているうちに、彼自身も詞を書くようになって漣健児のカバー・ポップスが増えてきちゃったんです。
――カバー時代の転換期はビートルズ登場ですか。
草野 それまでは英語よりも日本語で歌ったほうがよかったんだけれども、ビートルズやローリング・ストーンズが出てくることによって曲自体がメッセージ性の強いものになって、それを甘ったるい言葉で翻訳して歌わせてもうまくいかないし、曲も今まで使われなかったコード感覚が出てきて。歌い手もカバーよりもオリジナル志向に変わっていったんです。それでグループ・サウンズ(=GS)がブームになったりしていくわけです。
――GSにはほとんど手を染められなかったと。
草野 僕はGSに乗り遅れちゃったというのがあって、それで女性ボーカルの方へ行ったんです。それに合わせるように筒美京平さんが出てきてくれました。椙山浩一さんの家に集まっていろんなゲームなんかして遊んでいるうちに知り合いになって。彼がまだポリドールのディレクターで作曲もしたいと言っていた頃です。その仲間に橋本淳さんもいたし、林春生さんもいた。
――筒美京平さんの最初の作品から携わっていらっしゃいますね。
草野 初めの「黄色いレモン」という曲からやりました。各社から出たんですけど、東芝は望月浩が歌って。同じ頃に出てきた奥村チヨにも初期から曲を書いてもらいました。女性歌手路線をやっていこうと思っていたところだったので、渚ゆう子や欧陽菲菲など、ずいぶん一緒に仕事をしました。僕の担当ではなかったですけど東芝では小川知子や岡崎友紀も京平さんのラインでした。
――最近になって再び筒美さんと共に新たな女性アーティストを手懸けてらっしゃると伺いました。
草野 USENさんから最初に話をいただいたんです。昭和時代に頑張っていた方々でもう1回何か作れませんかと。で、筒美京平さんとまた何かやってみたいと思って、まず京平さんを口説きに行きました。それで新人探しから始めて何人もオーディションを重ねる内に尾関美穂というアーティストに出会って。京平さんに曲を書いてもらって、ちあき哲也さんに詞をお願いしたんです。
以前彼らが庄野真代さんに書いた「飛んでイスタンブール」的なものというコンセプトで「メコンの憂鬱」という曲ができあがった。筒美さんとまだ仕事をしたことがなかったエイベックスさんからデビューさせていただいて、2枚目は「また逢う日まで」のカバー。今は第3弾のオリジナル曲に取りかかったところです。
――今後もこうした新人を発掘していかれる予定はあるのでしょうか。
草野 いい素材に巡り会えればやっていきたいですね。最近はライヴの面白さみたいのがあって、ここ3年間位の間に「ウエスタン・カーニバル」の復活や玉置宏さん司会の『想い出の歌のアルバム』みたいなステージをずいぶんやってきまして、その関係のコンピレーション・アルバムもいくつか作りました。CDの復刻ものでは、クレージーキャッツやドリフターズの映画音源を集めたシリーズなどを作りました。
――半世紀近くの間ずっと現場におられて、現在の音楽制作状況をどのようにご覧になられますか。
草野 本来レコード会社はアーティストのディレクションをしなければいけないのに、逆にアーティストにディレクションされてるんじゃないですか。アーティスト側が発売日を決めたり。結果的に数字には結びついているのかもしれないけど、記録に残っても記憶に残らないケースが多いでしょう。そもそも僕らの仕事はプロの作家に曲を依頼して、それをこの歌手に歌わせたらどうなるか、というのを頭の中で思い描きながらやっていくわけです。いわば仕立ての生地から見て作っていったのに、今は既製品を買わされているっていう感じが否めませんよね。まぁ、流行りだからいいかっていう。
そういう意味で今のクリエイティブは昔に比べると全てががんじがらめになってしまってやりづらいでしょうけど。今制作に携わっている若い人たちには、昔の音源を聴いてもらいたいですね。そしてカバーを照れずにやっていってもらいたい。それによって日本にもスタンダードを根づかせることができると思うんです。優れたメロディや詞はずっと歌い継がれていくべきです。いい作品は時代とか年齢・性別を超越して普遍的だということを常に認識しておくことが大切だと思います。
(インタビュー・文/鈴木啓之)
2006/05/17
