ORICON NEWS
宮島の水中花火が“最後の大会”無いまま50年の歴史に幕…観光客殺到と地元の苦悩、東京五輪も遠因に
「花火大会をきっかけに里帰りしてもらいたい」町内会の夏祭りが、一大観光イベントへと成長
第1回開催は1973年(昭和48年)。宮島水中花火大会実行委員会の一員で一般社団法人宮島観光協会専務理事の上野氏は、「もともとは町内会の夏祭りのようなものだったんです」と当時を振り返る。
「花火も1000発程度と小規模で、宮島の西側にある桟橋からの打ち上げのみ。水中花火はやっていませんでした。観客は地元の住民ばかりで、私も観客として楽しみにしていた夏の行事の1つでした」
現在の形態となったのは初開催から10年ほど経った1982年のこと。その頃より「夏休みに宮島の花火大会があるから里帰りしよう」と思ってもらいたいとの狙いから行われたのが、地元の観光資源を存分に生かした「水中花火」だった。
「花火が海面から花開き、振動が体にズンと響く。空に打ち上がる花火とはまったく違う迫力がありました。この水中花火を目当てにたくさんのみなさんにお越しいただき、日中も観光のお客様が訪れとても賑わいました。観光地全体の盛り上げにも貢献してくれて、花火大会当日は子どもの頃とはまた別の意味で"特別な日"になりましたね」
花火大会で島の中が“飽和状態”に、観覧ボートが牡蠣棚に乗り上げる事故も多発
2001年7月に死者11名、負傷者183名の被害が起きた「明石花火大会歩道橋事故」以降は、警備体制もより強化してきた。
「島という地理的な環境から、花火大会が終わった途端に5〜6万人がフェリー乗り場に集中します。最終的には警備員を140人にまで増員し、安全に誘導できる体制を整備していましたが、いつ将棋倒しが起こるかわからない状況まで来ていました」
増え続ける陸上の観覧者に加えて、近年は水中花火をより堪能しようとプレジャーボートで乗り付ける人も増え、500〜600隻ものボートが海上に浮かぶようになった。
「帰りにはやはりこれらのボートが暗い中を一斉に猛スピードで帰っていくのですが、宮島沖には牡蠣の養殖をする筏(いかだ)があります。ボートがそこに乗り上げる事故が、毎年多発するようになりました。警備船も配備しているのですが、牡蠣棚の被害対策や乗り上げ防止対策と苦慮することが年々増えていたのが実情です」
観客の安全確保と牡蠣棚の保護のため、これ以上来場者が増えないように日程変更も行ってきた。もともとはお盆時期の8月14日だった開催日も少し時期をずらして11日に。8月11日が山の日(祝日)となった2017年からは、8月第4土曜日開催と試行錯誤を繰り返してきた。それでも来場者は増える一方だったという。
会場警備の強化を余儀なくされる中、2020年は東京五輪に伴い、開催中止を決定。警備員が首都圏に集中し、確保が難しくなるとの判断だった。さらに2021年も同様の理由から中止となっている。
“最後の大会”ないまま打ち切りへ、「楽しみにしていた方には申し訳ない」思いも
「楽しみにされていた方には申し訳ない思いもあります。ただ打ち切りは1986年からずっと議論してきた中での結論でした。やはり決定打となったのは安全確保ですね。取り返しのつかない事故が起きることだけは、どうしても避けたかったんです。実行委員の中にも存続を主張する声はなく、満場一致で決定しました」
こうして約半世紀の歴史に幕を閉じた「宮島水中花火大会」。観光協会にとっては観光客誘致にも多大な貢献をしてきたはずだが、その復活の可能性は「今のところありません」と上野さんはきっぱりと苦渋ながらも固い決断を語る。
「その日1日の来島者が減ってしまうことは間違いないとは思います。しかし宮島には花火大会だけでなく、歴史的建造物や豊かな自然などさまざまな魅力があります。みなさんに四季折々の宮島に訪れて楽しんでいただけるよう、これからさらに発信に努めていきたいですね」