映画監督の篠田正浩氏の生誕90周年を記念し、1979年に手掛けた『夜叉ヶ池』が、4Kデジタルリマスター版として42年ぶりに復活し、CS放送「衛星劇場」で3月に放送されることが決定。坂東玉三郎が初めて映画に出演、村に暮らす女性の百合と夜叉ヶ池の竜神・白雪姫の一人二役を演じ、泉鏡花の妖艶な世界を表現するということで、製作当初からその壮大なプロジェクトが話題となった。この名作について、また同時に放送される『乾いた花』(1964)なども含めて、篠田監督に改めて秘話を聞いた。
――このたび、映画『夜叉ヶ池』が4Kデジタルリマスター版として42年ぶりによみがえりました。伝説の作品としてファンの多い映画ですが、改めてこの作品が当時、どのような経緯で制作されたのかをお話しいただけますか?
【篠田監督】私は元々、松竹に入社し、その後、独立をしてATGや東宝で作品を撮っていました。そうしたら、「そろそろ戻ってきて、松竹で映画を作りなさい」という方が現れまして(笑)。話を聞きにいったら、「坂東玉三郎さんの映画を撮りたいんですが、篠田さんは興味がありますか?」と聞かれたんです。
当時の松竹というのは、簡単にいえばシナリオで映画を作る作風がメインとしてありました。例えば、戸の開け閉めやそこを人が出入りするだけで観客を笑わせたり、泣かせたりする。ところが、私は松竹を離れたあと、ホームドラマではなく、ワンダリングする孤独な人間模様や、社会で敗北する人物たちを描くことで、自分自身の世界を作り上げていたんです。ただ、話を聞くと、坂東玉三郎さんという素晴らしい女形を主役にして撮るだけでなく、大洪水のシーンもあるという。そんなことは独立プロでは考えられない企画でしたので、とても驚いたのを覚えています。
――当時、坂東玉三郎さんの人気はすさまじく、またその主演映画を篠田さんが監督するということで話題性も高かったかと思います。
泉鏡花の作品は、一時期ではありますが、現代文学の中で置き去りにされていたようなところがありました。それを、誰が火を付けたのか、あの当時、泉鏡花ブームが起きていたんです。また、玉三郎さんも『天守物語』を上演するなど、歌舞伎以外の舞台に挑戦され始めた頃でもありました。
私はといいますと、早稲田大学で演劇を学んでいたこともあり、歌舞伎に詳しいだろうと、萩山輝男さんが監督を務めた六代目中村歌右衛門さんの『京鹿子娘道成寺』(1956年公開)の助監督に付いていたことがありまして。その映画の振付をしたのが、亡き藤間勘十郎さんで、私は藤間さんの稽古場までいき、踊りを全部覚えて、監督に「この曲のここで手が上がりますから、アップで撮ったほうがいいです」といった提案をしていたんです。そうしたら、勘十郎さんから「あなた、歌舞伎にいらっしゃい」なんて言われたりもしまして(笑)。そうした経緯もあって、私に映画『夜叉ヶ池』の声がかかったのかもしれません。
とはいえ、松竹が大洪水のシーンを撮るために映画スタジオを改装して5トンの水が使えるプールを作ってくれたり、玉三郎という人気歌舞伎役者を呼んできたりと、今思えば映画会社にとっては、とてもじゃないけど簡単に決断できない内容だったと思います。しかも家出をした篠田正浩まで呼び出して(笑)。私は、「家出した罪滅ぼしにやります」と引き受けたわけです。
――篠田監督は、この『夜叉ヶ池』の魅力をどんなところだと感じていらっしゃいますか?
この作品で描かれている夜叉ヶ池には大洪水を起こすほどの力を持った白雪という主がいて、彼女は民衆のことよりも、自分の恋のために三国岳の王子と一緒になることしか考えていない。一方で、日照りが続く村の人間たちは、雨乞いのために夜叉ヶ池の主に生贄(いけにえ)を出そうとする。こうした物語の構造は、もとをただすとギリシャ劇と同じなんです。泉鏡花はとても日本的な作家だと思われていますが、『夜叉ヶ池』も『天守物語』もギリシャ劇に似ていて、混沌とした世を描き、人間たちに天罰を下す神が出てくる。実は、こうしたことは現代でも起こりうるんです。第二次世界大戦の原爆がそうです。一瞬にして多くの人間が命を落とすことが20世紀に起こりました。信じられないことです。白雪姫が最後に巻き起こした大洪水も、彼女が人間の欲望に愛想を尽かしたから生まれたこと。私がこの映画でやりたかったのは、そうした“現実”を観客に見せていくことでした。
――大洪水が起こるラストは映画史に語り継がれる名シーンとなっています。
私は監督として一本立ちした際、助監督時代に学んだことをすべて捨てて自分の作品を撮り続けてきたわけですが、松竹にとってもこの『夜叉ヶ池』は挑戦だったと思います。松竹には特撮の技術がなく、『ゴジラ』を撮った東宝のようなスタッフもいませんでした。カメラマン以外を全部、外部から呼ばなければいけなかったんです。また、美術にはグラフィックデザイナーの粟津潔さんや、舞台美術家の朝倉摂さんなど、それまで映画の舞台セットを経験したことがない方々が参加してくださり、僕らのような映画人からは想像つかないようなアイデアでセットを作ってくれました。
ところが、この『夜叉ヶ池』については、“少し子供っぽいんじゃないか”との感想や意見も上がったんですよね。ただ、それは間違っていて、例えば漫画家が実写のような絵を描いたら、それは漫画ではなくなってしまう。私が『夜叉ヶ池』で表現したかったのは、“未熟であることによってユーモアが生まれる”ということなんです。未熟さの中に、人間は本性が見えてくる。その一方で、リアルな部分はどこまでもしっかりとリアルに描く。浮世絵の喜多川歌麿も多くの美人画を描いていますが、同時に、まるで本物のような自然の様子も描いている。そうした、日本人であれば誰もが感じ取れる美学が泉鏡花の作品にはあるんです。
谷崎潤一郎はかつて、「もっとも映画的な小説家は泉鏡花だ」と評しました。私も、中学生の時に泉鏡花に目覚め、そしてこんな大仕掛けな映画を撮るという経験を通じて、改めて泉鏡花を学ぶことができました。おまけに、自分が演劇史を学んで書いた論文の『河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶』(幻戯書房)では泉鏡花文学賞までいただきました。これはもう、泉鏡花があの世から僕を呼び寄せているのではないかと思います(笑)。いま、改めて泉鏡花にこの映画を見ていただきたいですね。
――今回、衛星劇場で放送される代表作『乾いた花』『異聞猿飛佐助』『あかね雲』はどれも1960年代に撮られたものです。当時の日本の映画界は監督の目にどのように映っていたのでしょう?
あの時代の映画は、日本だけじゃなく、世界中に大きな波乱を巻き起こしていたと思います。その最初のパイオニアはヒッチコックでした。『サイコ』(1960年公開)では日常的な暮らしの中に潜む人間のものすごい殺意を表現していました。『乾いた花』や『あかね雲』はまさにそんな時代に私が撮った作品です。余談ですが、『乾いた花』に関してはマーティン・スコセッシ監督がアメリカで30回以上も見て、「篠田がどんなコンテでこの映画を撮ったかというのは、篠田よりも俺のほうが詳しい」なんて豪語していましたね(笑)。
また、少し時代を遡ると、小津安二郎監督は『突貫小僧』(1929年製作)という映画の中で「今日は人さらいが出るような日和だ」というセリフを描いていました。昭和の不景気をこのわずか一行だけで表現した見事なシーンで、我々はそうした時代に巡り合わせていたわけです。小津監督は超現実主義(シュルレアリスム)の前衛でした。『東京物語』(1953年公開)でも最後には原節子の「私、ずるいんです」という人間の本性がセリフで出てくる。日本人はみな、そうした作家の悪意を美徳として隠そうとするんですけどね……(苦笑)。
今回、42年ぶりに『夜叉ヶ池』が公開になりますが、改めて見直してみると、この作品にも私のシュルレアリスムが詰まっています。シュルレアリスムは私の人生の最後の研究課題であり、今学びなおしているところでもあります。ぜひとも『夜叉ヶ池』をご覧になって、皆さんに発見していただければと思います。
■篠田正浩プロフィール
1931年3月9日生まれ、岐阜県出身。松竹ヌーベルバーグの旗手として注目を集め、60年代から70年代にかけて『心中天網島』や『無頼漢』、『沈黙 SILENCE』など先鋭的な作品を発表。80年代以降は『瀬戸内少年野球団』、『少年時代』、『梟の城 owl’s castle』など大作も手掛けた。2003年の『スパイ・ゾルゲ』で監督引退を表明。1986年に『鑓の権三』でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。
●衛星劇場では“「夜叉ケ池」放送記念 生誕90年 篠田正浩監督特集”として、『夜叉ヶ池 4Kデジタルリマスター版』(3月3日 前8:30〜)のほか、『あかね雲』『乾いた花』『異聞猿飛佐助』などを放送する。
――このたび、映画『夜叉ヶ池』が4Kデジタルリマスター版として42年ぶりによみがえりました。伝説の作品としてファンの多い映画ですが、改めてこの作品が当時、どのような経緯で制作されたのかをお話しいただけますか?
当時の松竹というのは、簡単にいえばシナリオで映画を作る作風がメインとしてありました。例えば、戸の開け閉めやそこを人が出入りするだけで観客を笑わせたり、泣かせたりする。ところが、私は松竹を離れたあと、ホームドラマではなく、ワンダリングする孤独な人間模様や、社会で敗北する人物たちを描くことで、自分自身の世界を作り上げていたんです。ただ、話を聞くと、坂東玉三郎さんという素晴らしい女形を主役にして撮るだけでなく、大洪水のシーンもあるという。そんなことは独立プロでは考えられない企画でしたので、とても驚いたのを覚えています。
――当時、坂東玉三郎さんの人気はすさまじく、またその主演映画を篠田さんが監督するということで話題性も高かったかと思います。
泉鏡花の作品は、一時期ではありますが、現代文学の中で置き去りにされていたようなところがありました。それを、誰が火を付けたのか、あの当時、泉鏡花ブームが起きていたんです。また、玉三郎さんも『天守物語』を上演するなど、歌舞伎以外の舞台に挑戦され始めた頃でもありました。
私はといいますと、早稲田大学で演劇を学んでいたこともあり、歌舞伎に詳しいだろうと、萩山輝男さんが監督を務めた六代目中村歌右衛門さんの『京鹿子娘道成寺』(1956年公開)の助監督に付いていたことがありまして。その映画の振付をしたのが、亡き藤間勘十郎さんで、私は藤間さんの稽古場までいき、踊りを全部覚えて、監督に「この曲のここで手が上がりますから、アップで撮ったほうがいいです」といった提案をしていたんです。そうしたら、勘十郎さんから「あなた、歌舞伎にいらっしゃい」なんて言われたりもしまして(笑)。そうした経緯もあって、私に映画『夜叉ヶ池』の声がかかったのかもしれません。
とはいえ、松竹が大洪水のシーンを撮るために映画スタジオを改装して5トンの水が使えるプールを作ってくれたり、玉三郎という人気歌舞伎役者を呼んできたりと、今思えば映画会社にとっては、とてもじゃないけど簡単に決断できない内容だったと思います。しかも家出をした篠田正浩まで呼び出して(笑)。私は、「家出した罪滅ぼしにやります」と引き受けたわけです。
――篠田監督は、この『夜叉ヶ池』の魅力をどんなところだと感じていらっしゃいますか?
この作品で描かれている夜叉ヶ池には大洪水を起こすほどの力を持った白雪という主がいて、彼女は民衆のことよりも、自分の恋のために三国岳の王子と一緒になることしか考えていない。一方で、日照りが続く村の人間たちは、雨乞いのために夜叉ヶ池の主に生贄(いけにえ)を出そうとする。こうした物語の構造は、もとをただすとギリシャ劇と同じなんです。泉鏡花はとても日本的な作家だと思われていますが、『夜叉ヶ池』も『天守物語』もギリシャ劇に似ていて、混沌とした世を描き、人間たちに天罰を下す神が出てくる。実は、こうしたことは現代でも起こりうるんです。第二次世界大戦の原爆がそうです。一瞬にして多くの人間が命を落とすことが20世紀に起こりました。信じられないことです。白雪姫が最後に巻き起こした大洪水も、彼女が人間の欲望に愛想を尽かしたから生まれたこと。私がこの映画でやりたかったのは、そうした“現実”を観客に見せていくことでした。
――大洪水が起こるラストは映画史に語り継がれる名シーンとなっています。
私は監督として一本立ちした際、助監督時代に学んだことをすべて捨てて自分の作品を撮り続けてきたわけですが、松竹にとってもこの『夜叉ヶ池』は挑戦だったと思います。松竹には特撮の技術がなく、『ゴジラ』を撮った東宝のようなスタッフもいませんでした。カメラマン以外を全部、外部から呼ばなければいけなかったんです。また、美術にはグラフィックデザイナーの粟津潔さんや、舞台美術家の朝倉摂さんなど、それまで映画の舞台セットを経験したことがない方々が参加してくださり、僕らのような映画人からは想像つかないようなアイデアでセットを作ってくれました。
ところが、この『夜叉ヶ池』については、“少し子供っぽいんじゃないか”との感想や意見も上がったんですよね。ただ、それは間違っていて、例えば漫画家が実写のような絵を描いたら、それは漫画ではなくなってしまう。私が『夜叉ヶ池』で表現したかったのは、“未熟であることによってユーモアが生まれる”ということなんです。未熟さの中に、人間は本性が見えてくる。その一方で、リアルな部分はどこまでもしっかりとリアルに描く。浮世絵の喜多川歌麿も多くの美人画を描いていますが、同時に、まるで本物のような自然の様子も描いている。そうした、日本人であれば誰もが感じ取れる美学が泉鏡花の作品にはあるんです。
谷崎潤一郎はかつて、「もっとも映画的な小説家は泉鏡花だ」と評しました。私も、中学生の時に泉鏡花に目覚め、そしてこんな大仕掛けな映画を撮るという経験を通じて、改めて泉鏡花を学ぶことができました。おまけに、自分が演劇史を学んで書いた論文の『河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶』(幻戯書房)では泉鏡花文学賞までいただきました。これはもう、泉鏡花があの世から僕を呼び寄せているのではないかと思います(笑)。いま、改めて泉鏡花にこの映画を見ていただきたいですね。
――今回、衛星劇場で放送される代表作『乾いた花』『異聞猿飛佐助』『あかね雲』はどれも1960年代に撮られたものです。当時の日本の映画界は監督の目にどのように映っていたのでしょう?
あの時代の映画は、日本だけじゃなく、世界中に大きな波乱を巻き起こしていたと思います。その最初のパイオニアはヒッチコックでした。『サイコ』(1960年公開)では日常的な暮らしの中に潜む人間のものすごい殺意を表現していました。『乾いた花』や『あかね雲』はまさにそんな時代に私が撮った作品です。余談ですが、『乾いた花』に関してはマーティン・スコセッシ監督がアメリカで30回以上も見て、「篠田がどんなコンテでこの映画を撮ったかというのは、篠田よりも俺のほうが詳しい」なんて豪語していましたね(笑)。
また、少し時代を遡ると、小津安二郎監督は『突貫小僧』(1929年製作)という映画の中で「今日は人さらいが出るような日和だ」というセリフを描いていました。昭和の不景気をこのわずか一行だけで表現した見事なシーンで、我々はそうした時代に巡り合わせていたわけです。小津監督は超現実主義(シュルレアリスム)の前衛でした。『東京物語』(1953年公開)でも最後には原節子の「私、ずるいんです」という人間の本性がセリフで出てくる。日本人はみな、そうした作家の悪意を美徳として隠そうとするんですけどね……(苦笑)。
今回、42年ぶりに『夜叉ヶ池』が公開になりますが、改めて見直してみると、この作品にも私のシュルレアリスムが詰まっています。シュルレアリスムは私の人生の最後の研究課題であり、今学びなおしているところでもあります。ぜひとも『夜叉ヶ池』をご覧になって、皆さんに発見していただければと思います。
■篠田正浩プロフィール
1931年3月9日生まれ、岐阜県出身。松竹ヌーベルバーグの旗手として注目を集め、60年代から70年代にかけて『心中天網島』や『無頼漢』、『沈黙 SILENCE』など先鋭的な作品を発表。80年代以降は『瀬戸内少年野球団』、『少年時代』、『梟の城 owl’s castle』など大作も手掛けた。2003年の『スパイ・ゾルゲ』で監督引退を表明。1986年に『鑓の権三』でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。
●衛星劇場では“「夜叉ケ池」放送記念 生誕90年 篠田正浩監督特集”として、『夜叉ヶ池 4Kデジタルリマスター版』(3月3日 前8:30〜)のほか、『あかね雲』『乾いた花』『異聞猿飛佐助』などを放送する。
2021/02/25