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3・11映画化 原発作業員の“戦い”を後世に残す意味

■「Film makers(映画と人 これまで、そして、これから)」第36回 若松節朗監督

 2011年3月11日、14時46分に宮城県牡鹿半島の東南東沖で発生した東日本大震災。この地震による津波で交流電源を喪失した福島第一原子力発電所は、メルトダウンに伴う重大な危機に立たされた。そんななか、被害を最小限に防ごうと命をかけて現場の最前線で戦った作業員たちを、海外メディアは「Fukushima 50」と呼んだ。彼らの奮闘を後世に伝えなくてはならない――そんな使命感のもと、若松節朗監督をはじめ、佐藤浩市渡辺謙ら日本を代表する俳優たちが映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)に集結した。

映画『Fukushima 50』メインビジュアル (C)2020『Fukushima 50』製作委員会

映画『Fukushima 50』メインビジュアル (C)2020『Fukushima 50』製作委員会

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■東日本大震災を映画にする覚悟

 甚大な被害をもたらした東日本大震災から9年というこの時期に本作は公開を迎える。まだまだ震災による被害に苦しむ人々は多く、劇中には当時を想起させるような描写も多々登場する。若松監督は「大変な映画になる」ということは容易に想像できたというが、製作総指揮を務める角川歴彦会長の「復興オリンピックが開催される年。世界からの注目も集めるなか、命をかけて原発の最前線で戦ってくれた人たちのことを広く知ってもらうことが大切だと思う」という言葉に「乗ってみようと思ったんです」と胸の内を明かす。

 マグニチュード9.0という巨大地震によって起きた想定をはるかに超える大津波。その浸水により、福島第一原子力発電所は全電源を喪失。冷却不能の状況に陥った福島第一原発は、このままでは炉心溶融(メルトダウン)により、官邸の試算では被害範囲半径250キロ、避難対象は5000万人にも及ぶ大惨事になってしまう危険性があった。その“最悪の事態”を回避すべく、原発内に残り原子炉制御に尽力する人たちの群像劇を映画化した。

 「最初に話を聞いたとき、僕は福島第一原発の所長の吉田昌郎さんではなく、最前線にいた1・2号機の当直長(佐藤浩市演じる伊崎利夫)をメインにしたいと話をしました。そのなかでも、ただ彼らが活躍するヒーロー的な話ではダメで、危険や恐怖のなか、故郷や家族を守るために葛藤する人々を描きたかった。いわゆる日本人らしい自己犠牲の精神。3月11日から15日までの5日間の心の葛藤、それはただ勇敢な姿だけではなく、自然をなめていたことへの後悔や、愚かさなども含まれている。そんな“人間”を観ていただきたかったんです」。

 前述したが、非常に多くの人々が被害にあい、心と体の傷は一生癒えないものなのかもしれない。若松監督も非常にデリケートな題材だということは承知していたため、災害の描写にはかなり注意したという。「被災地で試写を行った際は、もしかすると津波のシーンなどで、フラッシュバックさせてしまうかもしれないという不安はありました。でも映画が終わったあと、とても大きな拍手が巻き起こり、感想でも『この作品を作ってくれてありがとう』という声をたくさんいただきました」と胸をなでおろしたという。

■佐藤浩市、渡辺謙が参加してくれたことで大きな武器を得られた

 実際の現場を忠実に再現した巨大セットでの撮影をはじめ、「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」を再現したシーンでは在日米軍横田基地にて撮影するなど、リアリティにこだわった映像は圧倒的だ。さらに極限の状態のなか、5日間を過ごした作業員たちの生々しさも、緊迫感を煽る。

 「とにかく役者さんたちがすごかった。僕にとって最大のラッキーは佐藤浩市と渡辺謙という日本を代表する二人がそろってくれたこと。これだけで大きな武器を得られたと思えたし、エンターテインメントとして成立させることができた。最初、浩市さんに『やってくれないか』と話をしたとき、躊躇していたのですが、内容を説明しOKをもらえた。浩市さんが決まったら謙さんも『俺が吉田をやるよ』と言ってくれたんです」。

 佐藤、渡辺のもとに集まった俳優陣はみな心を一つにして現場に向かった。「制御室でマスクを被ると、正直誰が誰だかしゃべらなければわからない。でも誰一人そんなことを気にする人はいなかった。自分が写っているかどうかなんてまったく関係ないんです」。

 3月11日からの5日間を描いているが、俳優たちもその時間をリアルに体験しているような現場でもあったという。「役者にも器用な人と不器用な人がいる。浩市さんも器用に見えて不器用なところがあり、3月12日、13日、14日と時間が経過していくなか、ほとんど寝ていないので、痩せてくるし、髭も伸びっぱなしになり、どんどん病んでいく。事故の推移を実際に体験しているような、ドキュメンタリーに似た感覚もありました」。

■“最悪の事態”を避けた作業員「後世に残すべき」

 福島第一原発が未曽有の大災害を起こす危機にさらされていたことを、震災発生時に知る人々がほとんどいなかった。「東京の人々だけではなく、福島・仙台の人々、放送局の人たちも知らなかったと話しています。隠していたのか、混乱を避けるためのことなのか、それはそれぞれの立場で苦労はたくさんあったと思いますが、なによりこの映画で伝えたかったことは、あれだけの危機に面していながら、必死に“最悪の事態”を避けようと頑張っていた作業員がいたということ。このことは後世に残すべきなんです」と若松監督は熱い思いを吐露する。

 息つく暇のないような約120分の映像。演じる俳優はもちろんだが、監督をはじめスタッフにも大きな負荷がかかるような撮影だったと思われるが「映画を作る人間というのは、撮影が終わると苦労を忘れてしまうんです。そうじゃないと次を作れない」と苦笑いを浮かべる。映画を観た人たちが、なんらかの思いを抱き、それが今後の人生に影響を与える――それが実感できることで苦労は報われるというのだ。

 数々の力強い映像が劇中には登場するが、若松監督のなかでもっとも印象に残っているのが、劇中、佐藤演じる伊崎が満開になった夜ノ森の桜の下を歩くシーンだという。「撮影の二か月後に撮ったシーンなのですが、浩市さんは当日、朝早く起きて海を見つめていました。『これが、津波が来た海なのか……』という気持ちだったのかもしれません。あのシーンは珍しく、お互いが納得するまで、合計で8テイクぐらいやったんです。ものすごくいいカットが撮れた」と目を細める。

 「いい映画を撮っているとき、奇跡的なことがよく起こる」と語った若松監督。このシーンも、テイクを重ねたが、佐藤と若松監督の思いが一致し“最高の絵”が撮れたという。試写を観てくれた人から「『八甲田山』(1977年公開)を思い出した。あの作品以来の邦画史上に残る名作」という感想をもらったという。その言葉に「そんなご褒美をもらっていいのかな」と思ったというが「役者、スタッフが“ワンチーム”で臨めた作品。とにかくたくさんの方々に観てほしい」と強く願っていた。(取材・文・撮影:磯部正和)

関連写真

  • 映画『Fukushima 50』メインビジュアル (C)2020『Fukushima 50』製作委員会
  • 映画『Fukushima 50』のメガホンをとった若松節朗監督(C)ORICON NewS inc.
  • 映画『Fukushima 50』のメイキングカット(C)2020『Fukushima 50』製作委員会
  • 映画『Fukushima 50』の場面カット(C)2020『Fukushima 50』製作委員会

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