純烈インタビュー「スーパー銭湯は“ふるさと”、結成10周年“勝負の年”に目指せ『紅白』」
スーパー銭湯さんに声をかけていただけてなければ、今の僕らはいない
酒井一圭(リーダー) 確かにここ最近は、ほぼ毎月ペースでテレビに取り上げていただいていますね。ありがたいことです。ただ、僕らとしては5年くらい前から目の前の風景は変わっていないんですよ。僕らのライブの主戦場であるスーパー銭湯や健康センターの大広間では、ここ数年ずっと同じような光景が繰り広げられてきましたから。
酒井 言っても10年かかっていますからね。でもそういう活動を継続していたら、テレビ業界の方が「なんだかスーパー銭湯がカオスなことになっているらしい!」と取り上げてくださって、それが別のバラエティ番組やワイドショーにも飛び火して、というのがここ1年くらいのことです。
──最近は演歌・歌謡曲番組への出演も増えましたが、今も“スーパー銭湯アイドル”と紹介されることが多いですよね。でも、そもそもなぜスーパー銭湯を主戦場にするようになったんですか?
酒井 結成から数年は僕ら、まったく歌わせていただける場所がなかったんです。テレビからお呼びがかかるどころか、仕事がまったくなかった。
友井雄亮 家賃も払えない、飯も食えない、ひどいもんでしたね(苦笑)。
酒井 純烈というのはプロダクションが大きいわけでもない、カラオケコンテストで優勝したメンバーでもない、作家先生の弟子でもない。つまり草野球チームがプロ野球を目指すようなもので、正規ルートがまったくない中で、演歌・歌謡曲の世界に切り込んでいったグループなんですね。だから当然、物事はそんなにスンナリ行くわけでもなく。
小田井涼平 それでもコツコツとキャンペーンを続けていって、そんな中でたまたまスーパー銭湯に出させていただいたのが5年くらい前のこと。それから各地のスーパー銭湯やキャバレーにお呼びがかかるようになり、今に至るわけです。
後上翔太 3、4年前から、年間220ステージくらい立たせていただけるようになりましたね。
酒井 正直、当初は資金繰りもカツカツで。今でこそ歌番組にも出させていただいていますけど、スーパー銭湯さんから声がかかっていなかったら、活動を続けていられていなかったかもしれません。スーパー銭湯は僕らの「ふるさと」ですね!
グループ結成は白川の“ハッタリ”がきっかけ!?
酒井 最年少の後上は結成時まだ大学生だったので、彼を除いてはみんなそうですね。
酒井 きっかけはですね、僕が入院している時に、夢に前川清さんが出てきたことがありましてですね。
──前川さんといえば、ムード歌謡のレジェンド「内山田洋とクール・ファイブ」のメンバー。でもその話、できすぎじゃないですか!?
酒井 いや、本当なんです! 10年前、足を複雑骨折して40日間入院しまして、もう歩けないかもしれないとも言われたんですね。その時は俺もこれで終わりか……と。ところが夢に出てきた前川さんは、直立不動で歌っている。その時に、「これだ!」と思ったわけです。それで幸いにも歩けるようになってから、すぐに今のメンバーに声をかけたんです。世に出るまでに10年くらいはかかるかもしれないけど、一緒に夢を見ようぜ!と。
白川裕二郎 ウソです! (酒井には)もうデビューもレコード会社も決まっているからって言われて安心してついて行ったら……(笑)。
友井 僕は夜中のファミレスに呼び出されて「お前に振付をやってほしい」と、ピンク・レディーさんなど昔の歌謡曲の映像を観せられて。僕はストリートダンスをやっていたので最初はピンと来なかったんですけど、「バカ、お前。リアルタイムでこの時代を生きてないのに、この歌を知っているってすごくないか?」と歌謡曲のすごさについて力説されたんですね。そんな話を聞いているうちに、なんだかワクワクするというか、華やかな照明がパーッと当たっているイメージが見えてきたんです。
白川 口車ってやつですね(笑)。
酒井 チョロイもんですよ(笑)。こいつらはみんな、諦められない夢を持っているってわかっていましたから。簡単に夢を諦められる奴だったら、声はかけていないですよ。
小田井 僕は、話半分で聞いていましたけどね。役者はやってきたけど、歌を本格的にやったわけでもない僕らが即デビューなんて、そんな世の中甘くないだろうと。
白川 でも僕が、最終的にやろうと決めたのは、「紅白に出て親孝行しよう」というひと言だったんです。高齢での出産だったので、母はもう84歳なんですね。僕は若い頃からずっと母に心配をかけてきていて…
──白川さんは大相撲の力士をケガで引退された後、俳優に転向したという異色の経歴の持ち主ですよね。
白川 はい。02年に『忍風戦隊ハリケンジャー』(EX系)でデビューさせてもらって。でもフレッシュな俳優が次々と出てくる中、仕事も先細っていき、母親に恩返しできていない自分に不甲斐なさを感じていたんです。そんな時に「紅白に出よう」って言われて、母も歌謡曲が大好きですしね。
後上 10年前に、そんな景気の良いこと言ってる人、いなかったですよね(笑)。