画期的な文章術の本として、いま大きな反響を呼んでいるのが『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(阿部幸大著/光文社)だ。アカデミック・ライティングとは、直訳すれば「学術的に書くこと」。つまり論文やレポートを執筆するための作法を指す。一見、ゴリゴリの学術書だが、そこには文章とはどうあるべきか、どのように考えれば「書ける」ようになるのかという、万人に開かれた技術と知恵が詰まっている――と語るのは、『独学大全』の著者である読書猿氏だ。読書猿氏をして「文章本は、この本以前/以降に分かれるだろう」と言わしめた同作の著者である、筑波大学の阿部幸大助教をゲストに迎えた対談(全4回)をお届けする。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)
第1回 『独学大全』著者が「画期的。誇張抜きで、文章術の教科書は、本書以前/以降に大きく分かれる」と驚いた一冊とは?
第2回 文章が書けないとき、どうすればいい?→ベストセラー著者2人の回答が衝撃的だった。
第3回 そりゃ受かるわ…「底辺校・宅浪・2浪」から東大に合格した研究者が語る「独学で最も重要なこと」とは?
人文学は世界を良くするために存在する
――読書猿さんは『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』の帯に「ここまで書いていいんですか!?」というコメントを寄せています。その意味するところを、改めて聞かせてください。
読書猿 この対談の第1回で、僕はこの本には3つのスゴい点があると話しました。でも、実は4つ目がある。本書の最も特筆すべき点は、文章が書けるようになった「その後」まで論じられていることなのです。
本書の9章と10章では、人文学は何の役に立つのかという、よくある問いに対して「人文学の機能とは、常識を変えて世の中を良くすることだ」という、高らかな宣言がなされます。ライティングの技術を身につけた後に、その力をどう展開していくべきかという領域にまで踏み込んでいる。
帯の推薦コメントに「ここまで書くの?」と記したのはそのためです。プラクティカルな内容が印象的な本なのですが、最後の2章には――失礼な言い方かもしれませんが――普通の学者があまり書かないことが書かれている。
以前から「人文学は役に立つのか?」という問いほどバカげたものはないし、「立つに決まっているだろう」と言い返してほしいと思っていました。なのに、大抵の研究者は「そんな議論に乗る必要はない」「そもそも『役に立つ』とは?」といった言い方で逃げてしまう。あらゆる研究は世の中を良くするのに役立つし、それは人文学も然りである――そんな当たり前すぎることが、なぜか語られない。それを、第一線の研究者にここまで強い言葉で語ってもらえたのは、本当に心強いことだと思います。
阿部幸大(以下、阿部) プラクティカルな本の中にこそ、ああいったメッセージをしのばせることが重要でした。たとえば、現在の私のように、有名な国立大学の教員という立場があり、研究者としてのプレゼンスも獲得しつつあるような人間が、普通はとても恥ずかしくて口に出せないナイーブな意見、しかし本当に心の拠り所とすべき意見を無防備に発信することで、研究を続けることに不安を抱いている若手に勇気を与えられたらなと。ここで照れを出しては台無しなので、全身全霊で書きましたね。
文章は受け継がれ、受け渡される
読書猿 僕が今執筆している『文章大全』のテーゼの一つは「書くことは受け取ることから始まる」です。文章の指南書は「アウトプット」を盛んに強調しますが、それは違う。あなたの言葉はあなたが発明したものじゃない。人がつくった絵の具で自分の絵を描くようなもので、何かの言葉を受け取らないことには、誰だって一言も書けないんです。誰か他の人が書いた書き言葉を受け取って、次の人に受け渡すという際限のないネットワークがあって、それに参画するのが「書く」ということに他なりません。それが、僕が「人文知」と呼ぶものを形づくっている。こんなふうに「書くとは何か?」を掘り下げることで成立する実用書として『文章大全』という本を書きたい。
阿部さんの本では、論文のアーギュメント(論文の主張)が学問的な対話を起動させる装置として描かれています。つまり、一個の論文が、その前後に続く対話を支えている。その連なりがアカデミックの営みであると。僕が持っている、文章が受け継がれ、受け渡されるというイメージがそこに共有されているようで、その点も我が意を得たりと思いました。
阿部 論文でアーギュメントを提出するということは、世の中に対して新しい主張を提出するという行為であり、とても勇気のいることです。そこから逃げてはいけないというのも、この本で言いたかったことのひとつですね。
自分は「書く」ということの責任をいつも考えます。その根底には、リスクを負わないのは卑怯だという考えがある気がしています。だからネットの炎上なんかは大嫌いで、自分は攻撃されないとわかった瞬間に、攻撃を始めるのが姑息ですよね。殴り返される覚悟がある人だけが殴ってもいいという思想で生きているので(笑)、あの9章と10章も、ナイーブだなんだと叩かれるのは百も覚悟で書きました。およそ物を書く以上、そういった責任を引き受けることは当然のことだと思っています。
「フォーマット」に逃げるな
読書猿 それで言うと、従来の文章本というのは、むしろ責任を回避するために書かれていたようなところがあったんですよ。
千葉雅也さんなどと一緒に4人で話してつくった『ライティングの哲学』(星海社)という本があるのですが、そこで、文章のマナー本にはどういう機能があるのかという議論になったんです。すると、あれには「防具」としての機能があるという話になった。つまり、マナー本に従って書いただけなので、自分の内面をさらしているわけではないという言い訳ができるというわけです。千葉さんは「書いたことを書かなかったことにする」という言い方をしていましたね。
アカデミック・ライティングの本も、もしかするとそういう使われ方をすることがあるかもしれない。ちゃんと論文のフォーマットを守って書いたのだから、自分に責任はない――極端に言えばそういうことになりますよね。こうしてアカデミック・ライティングの作法に従った別種のキメラが生まれる。でも、やはり書いたものは動かせないし、なかったことにはできない。自分で責任を引き受けざるを得ないんです。阿部さんの本は、その点を指摘した、ほぼ唯一の文章本ではないでしょうか。
阿部 ありがとうございます。結局、フォーマットはフォーマットに過ぎませんからね。それは単なる手段であり、出発点でしかない。それは単なる道具ですよね。
読書猿 ところが、いまや世の中はフォーマット過多で、多くの人は大学で「文章はフォーマットだ」と教わっています。その人たちがつくる「文章ならざるもの」を相手にしなくてはならない時代にあって、阿部さんはフォーマットの裏側にあるダイナミズムを解明してみせることで、文章の「正道」を示してくれた。これを読むと、もはやフォーマットに逃げている場合ではない……と気づくはずです。僕が、対談の第1回で「文章本は、この本以前/以降に大きく分かれる」と言ったのはそういうこと。ここから2、3年で文章本の流れは大きく変わるだろうと思います。
第1回 『独学大全』著者が「画期的。誇張抜きで、文章術の教科書は、本書以前/以降に大きく分かれる」と驚いた一冊とは?
第2回 文章が書けないとき、どうすればいい?→ベストセラー著者2人の回答が衝撃的だった
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