ORICON NEWS
徳川家康の天下取りへの“本気”に触れる ガイドと歩く岐阜・関ケ原古戦場
戦いは慶長5年9月15日(新暦1600年10月21日)。総勢16万人もの軍勢が東西に分かれて激突した。たった1日で徳川の天下が決まったと伝わるが、その前後にわたって、東西両軍の武将それぞれに、友情、策略、葛藤など、さまざまなドラマ(物語)があり、現代の私たちを魅了してやまない。
現地では、特に活躍した7人(※)の武将に関連する史跡をめぐるウォーキングコース(全7コース)を設定し、ガイドマップを配布しているほか、希望の時間やコースに合わせて関ケ原の各所や史跡の案内・解説をしてくれるガイド(せきがはら史跡ガイド)もスタンバイ。今回は、ガイドの今井剛さんと「徳川家康」に関連する史跡をめぐった。(※徳川家康、黒田長政、福島正則、石田三成、大谷吉継、島津義弘、小早川秀秋)
岐阜関ケ原古戦場記念館
松平忠吉・井伊直政陣跡
今井さん福島正則は石田三成と対立して東軍に加わりました。福島正則が先鋒を切ったら、単なる豊臣家臣同士の権力闘争になってしまう。家康は、関ケ原での戦を徳川が豊臣から天下を取る戦にしたかった。そのためにも先鋒は徳川の家臣が務めなければならない。そんなこだわりが家康にあったのではないか、と言われています。
開戦からわずか数時間、戦いは東軍の勝利に終わる。この間、積極的に戦わなかった島津義弘(しまづ・よしひろ)は西軍の敗北が決定的になると、正面の東軍に向かって進撃。数人の小隊が死ぬまで戦い、その間に本隊を逃がす「捨てがまり」という戦法で前代未聞の敵中突破を強行した。これを追撃したのが松平忠吉と井伊直政の軍勢だった。実は、この追撃の中で直政は大けがをして2年後、42歳で亡くなってしまう。忠吉もけがを負って、5年後、28歳の若さで亡くなった。
今井さん追撃する必要なかったのでは?と思うけれど、このことも含めて直政の働きが認められ、彦根藩は井伊氏の藩として明治時代になるまで栄えることになります。関ケ原の戦いの頃、家康の跡継ぎとなる男子は三男・秀忠と四男・忠吉しかいなかった。そこで家康は子づくりにも励んで、関ケ原の戦いがあった58歳の時、60歳の時、61歳の時に男子が誕生しました。その3人の男子は、それぞれ尾張徳川、紀州徳川、水戸徳川となります。この3人が生まれていなかったら、徳川家は七代で終わって、260年の天下泰平は続かなかったかもしれないんです。
岐阜関ケ原古戦場記念館公式サイト
https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp
関ケ原観光ガイド
https://www.sekigahara1600.com
https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp
関ケ原観光ガイド
https://www.sekigahara1600.com