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徳川家康の天下取りへの“本気”に触れる ガイドと歩く岐阜・関ケ原古戦場

東首塚

 合戦の翌日、勝者となった家康は戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供された。また、戦場に残されたおびただしい遺体の埋葬を竹中重門に命じた。関ケ原の戦いでは、わずか数時間で8000人ちかい兵士が亡くなったといわれ、1ヶ所では収まり切れず、東西2ヶ所に首塚が造営された。東首塚には当時から残るシイの古木がある。
  • 東首塚 (C)ORICON NewS inc.

    東首塚 (C)ORICON NewS inc.

  • 東首塚に当時から残るシイの古木 (C)ORICON NewS inc.

    東首塚に当時から残るシイの古木 (C)ORICON NewS inc.

本多忠勝陣跡

本多忠勝陣跡 (C)ORICON NewS inc.

本多忠勝陣跡 (C)ORICON NewS inc.

 「十九女池」の西側に位置するところに、東軍・本多忠勝(ほんだ・ただかつ)が陣をおいたとされる史跡がある。民家に隣接しているので、見学する際は配慮が必要だ。本多忠勝は、娘の小松姫が嫁いだ真田信幸の父と弟で、西軍に与した真田昌幸・信繁の助命を家康に嘆願したことでも知られる。

桃配山・徳川家康最初陣地

桃配山・徳川家康最初陣地 (C)ORICON NewS inc.

桃配山・徳川家康最初陣地 (C)ORICON NewS inc.

 家康は、関ケ原の戦いの前日14日に岡山(大垣市)に入り、翌15日の早朝より桃配山に陣をおいた。関ケ原の合戦時に徳川家康が使用したとされる腰掛石と机石が残っていて、昨年秋からの整備工事が今年3月に完了したばかり。

今井さん壬申の乱(飛鳥時代に王位継承をめぐっておきた内乱)で勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)が、ここで兵士たちに桃を配ったという言い伝えがあり、迷信深い家康はそれにあやかるつもりだったのかもしれませんね。

 家康は、ここで戦況を把握し、好転させるべく、前戦近くの最後陣地(岐阜関ケ原古戦場記念館のあるあたり)まで、現在の国道21号(旧中山道)沿いを進軍することになる。

決戦地

決戦地 (C)ORICON NewS inc.

決戦地 (C)ORICON NewS inc.

 小早川秀秋の裏切りによって大軍となった東軍が、石田三成が陣をおく笹尾山へ押し寄せ、最も激しい戦いが繰り広げられた場所だといわれている。笹尾山に向かって少し登ったところに、三成の右腕として活躍した家臣・島左近の陣跡があり、彼の奮戦ぶりが偲ばれる。

笹尾山・石田三成陣跡

笹尾山・石田三成陣跡からの眺め (C)ORICON NewS inc.

笹尾山・石田三成陣跡からの眺め (C)ORICON NewS inc.

 笹尾山の山頂に陣をおいた石田三成。現在は、敵の攻撃からの防御として使われた竹矢来・馬防柵が復元されている。そして、はためく三成の旗印。「大一大万大吉」と記載されていた。ラグビーで知られる「One for all All for one(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」の意だが、三成は「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味で用いていたことが伝わっている。

今井さんこの山頂からは古戦場全域を見渡すことができますので、関ケ原を訪れた際は、ぜひ立ち寄ってほしい場所です。家康は、桃配山を出て岐阜関ケ原古戦場記念館があるあたりまで進軍してくるわけですが、西軍の宇喜多、小西、島津、三成らの陣地と直線で結ぶと扇の要みたいなところに本陣をおきました。このことからも家康のこの戦にかける本気度、命がけの意気込みを感じてもらえると思います。

 ウォーキングコースとしては、桃配山から岐阜関ケ原古戦場記念館の前を通り過ぎ、決戦地まで歩いて50分くらい(3.5キロ)、そこからさらに三成陣跡まで歩いて15分くらい(1キロ)。もちろん駐車場もあるので車でもアクセスできる。駐車場から山頂までは徒歩で登ることになる。
  • 笹尾山・石田三成陣跡 (C)ORICON NewS inc.

    笹尾山・石田三成陣跡 (C)ORICON NewS inc.

  • 笹尾山・石田三成陣跡 (C)ORICON NewS inc.

    笹尾山・石田三成陣跡 (C)ORICON NewS inc.

徳川家康最後陣地

徳川家康最後陣地 (C)ORICON NewS inc.

徳川家康最後陣地 (C)ORICON NewS inc.

 岐阜関ケ原古戦場記念館に隣接し、今は陣場野公園と呼ばれる緑豊かな場所にある。家康は苦戦する東軍勢に苛立ち、本陣を桃配山からまさに関ケ原の中央部、三成本陣の笹尾山のすぐ下(直線距離にて約800メートル)まで進軍させた。合戦後この場で引見が行われ、討ち取ってきた敵の首が実検された。

 「床几場(しょうぎば)徳川家康進旗験馘處」と刻まれた標柱が建っている土壇は、幕末に築かれたもの。家康の威光を借りて権威を示そうとした幕府が領主の竹中家に整備を命じたとされている。

 ここには、家康の旗印「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」も設置されている。「穢れた現世を逃れ清らかな仏の国(あの世)に生まれることを望む」という、仏教の教えを説いたものだ。桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、織田軍の追っ手から逃れて故郷・岡崎の大樹寺に逃げ込んだ当時17歳の松平元康(後の家康)は、先祖の墓前の前で自害しようとした。この時、寺の登誉(とうよ)上人は「戦国の世の中を平和な世の中にする、それを成し遂げる前に死んではいけない」と諭し、「厭離穢土欣求浄土」を授けて励ましたと伝わる。家康は、「穢れた戦国の世から清らかな平和の世にする」ことを誓い、亡くなるまでこれを旗印にした。

今井さん三成の『大一大万大吉』、家康の『厭離穢土欣求浄土』、両軍のリーダーが自身の信条を示すような旗印を掲げて激突していたというのは興味ぶかいですよね。
岐阜関ケ原古戦場記念館公式サイト
https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp

関ケ原観光ガイド
https://www.sekigahara1600.com
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