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「消えた一発屋と10年言われた」テツandトモ、“なんでだろう♪”25年続ける背景に立川談志さんの存在
役者&歌手志望だった2人、友人結婚式の余興をきっかけに27歳で芸人コンビ結成
トモテツとの出会いは18歳、大学の同級生です。お笑いをやるつもりはなく、そのまま卒業しました。27歳の時に、友人の結婚披露宴の余興で2人で歌を歌ったんです。その時、たまたま会場にいらしてた今のプロダクションの方に声をかけて頂いたのがきっかけです。
トモ僕は舞台でお芝居をやっていて、テツは元々歌手志望でした。余興での歌を聴いて声をかけてくださったので「歌手になれる」と思い、特にテツは喜んで事務所へ挨拶に行ったんです。そうしたら、「お笑いをやらないか」と言われて…。断りました。僕はお笑いの世界を少し経験していたのですが「才能がない」と思い離れたし、テツと2人ではそもそもやったこともなかったし。
テツ僕も歌の方だったら頑張ってみようかな、って思えたんですけど、全然考えもしなかったお話だったので。それでも、2ヵ月ぐらい熱心に誘ってくださって。売れたらCDも出せるって言われて、「ダメだったらすぐ辞めれば良いか」くらいの気持ちで、じゃあちょっとだけ…と思って始めたんですよね。
トモ最初は、お笑いライブに出演するためのオーディションに行って、漫才やコントをやったのですが、全く受かりませんでした。それで、どうせやるなら音楽を取り入れた歌ネタをやりたいとテツに言われて。僕がギターを弾き、テツが歌うスタイルが生まれました。最初はテツが歌ってたんですよ。コンビ結成から『なんでだろう』のネタができるまではかなり早く、2ヵ月くらいでしたね。
テツ当時1ヵ月で15ヵ所くらいオーディションに行ってました。それまで全然受からなかったのに、“なんでだろう”のネタができてから、急に全部受かったんです。ライブからテレビが決まって、『ボキャブラ天国』『爆笑オンエアバトル』『めちゃイケ』『M-1』と、繋がっていきました。
「お前ら、もういいよ」M-1決勝で会場が凍り付いた、審査員・立川談志さんの伝説の一言
トモ2002年には第2回『M-1グランプリ』に出させていただいて、立川談志師匠が審査員でいらしてました。師匠が決勝の審査コメントで、僕たちに「お前らはここに出てくるやつじゃないよ。もういいよ」と仰られて。会場が凍りついたように感じました。
テツ頭が真っ白になりましたね。お客さんの空気も変わって…。
トモ「褒めてるんだぜ」って談志師匠は仰ってましたけど、得点は70点だし、僕らはもう怒られモードで、全然ダメなんだと思ったんです。ところがその後すぐ、師匠の寄席のゲストに呼んでくださったんです。
テツ僕らの10周年ライブにノーギャラで出演してくださり、師匠の高座で「昆布が海の中で〜」って僕たちのネタを歌ってくださったりもしました。感謝しています。
テツゴールデンでネタ一本まるまるやったのは、『M-1』が初めてだったんです。全国の皆さんに知ってもらうすごく良いきっかけになりました。歴史ある番組じゃないですか。その第2回目に出られたことはとても幸せですし、当時も番組に出て“なんでだろう”ができることに「こんな嬉しいことはないんだ」っていう思いでやってました。
トモTwitterなどで「マジカルラブリーがダメならテツトモはどうなるんだ?」とのコメントを目にします。あれから20年も経っているのに、当時の事を覚えてくださってる方がいるのは嬉しいです。歴史を調べると、漫才のスタイルには、音曲漫才もあるんです。しかし今は、しゃべくり漫才やコント漫才が主流ですから、僕たちのスタイルは漫才とは言いがたいのかもしれません。ルールとして、「楽器NG」と決めていただければ分かりやすいんですけどね。
ブレイク期は忙しすぎて記憶なし、テツは人間不信に… 翌年には『消えた芸人』特集に
テツ2003年、『こち亀』のエンディングテーマに“なんでだろう♪”を使っていただいたのが大きかったですね。お子さんが見てくださって、みんな踊ってくれて、おじいちゃんおばあちゃんにも広がって、全世代の人に認知していただくきっかけになりました。
――念願のCDデビューも叶って、紅白出場も。
トモある日事務所に行ったら、仕事の依頼のFAXが山積みになってました。社長が電話をしてたのですが、2つの受話器を両耳にあてて、同時にやりとりをしてるんです。漫画でしか見たことないやつ(笑)。ありがたいことに、朝から晩までびっしりとお仕事を頂き、「あれ?何時にご飯食べられるの?」という時もありました。深夜に番組の打合せも入り、睡眠時間が2時間ほどの日が続くと、意識が朦朧として。だからなのか、あの時のことをあまり覚えてないんですよね。
テツ覚えてない!でも僕的には、どっちかっていうと嫌な感じっていうか。なんかもう、人間不信みたいになっちゃって。当時今の奥さんと付き合っていて、同棲していた家まで週刊誌に追いかけられたり、街中で「調子乗ってんじゃねぇよボケ」と言われたり、ヤンキーのお兄ちゃんに「なんでだろうやれよ、オラ」と絡まれたり…(笑)。
トモかと思えば、2004年以降は週刊誌に『消えた一発屋芸人』との見出しが。世間の方々に「まだ居たんだ」「なんでだろうしかない」などと言われるようになったんです。「なんでだろうしかやってねーから消えたんだよ。事務所も悪い」と言ってくる記者もいたんですよ。
――辛辣ですね…。“なんでだろう♪”をやり続けることに迷いはありましたか?
トモ迷いはありませんでした。僕たちの宝物ですから。でも談志師匠が、「次、もう一発当てたら一生食える」と言ってくださいました。過去にも『オンバト』などで、“なんでだろう”以外のネタをたくさん作ったんです。ところが、テレビに呼んでいただくと「“なんでだろう”をやってください」と言われるわけです。次のフレーズを当てるのは、並大抵のことではありませんでした。