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いきものがかり・水野良樹が語る“放牧”と“集牧”の意義、「吉岡の可能性を信じるからこそ縛りたくない」
10年間の活動で緊張感はピークに達し、「このままではダメだ」と思った
水野良樹すごくリフレッシュした気持ちで臨めていますね。メンバーの2人とも、出会った頃の、高校時代に戻ったような感覚で話せていますし、3人だけで話す機会も増えました。
――活動休止は簡単な決断ではなかったですか?
水野良樹ありがたいことに、デビューしてからの10年間は本当に忙しくて、大きな会場でもたくさんLIVEをやらせて頂きました。ただ、周りの環境がどんどん変わっていく中で、3人だけで会う事が特別になり、それぞれの緊張感がピークに達していたんです。
――緊張感というのは?
水野良樹それぞれが「とにかくメンバーに迷惑をかけちゃいけない」という想いがあったと思います。僕らはこれからどんな人生を歩んでいくのか。30代になって、それすら考える余裕がなかった。「このままではダメだ」と。
――それはつまり、互いを思いやることで、どこか“自分をセーブ”してしまう部分があったと。
水野良樹そうですね。だから、僕らとしては勇気を持って「2年間の休み」という選択肢を選ばせて頂きました。あくまでグループをより良くする為、自分たちがもっと面白い存在になるための決断だったと思っています。
――水野さん自身、活動を休止されていたこの2年間で、未発表のものを含めると約80曲もの楽曲を制作されました。すごい数ですね。
水野良樹それまで1つの現場しか知らなかったので、今のままでは自分自身が成長できないという危機感を、かなり早い段階から持っていました。相談はしていたのですが色んな状況でなかなか叶わず、このタイミングで「楽曲提供」の機会をたくさん頂けるようになりました。アーティストの真剣勝負の現場にたくさん立ち会うことができ、全てに「気づき」と「学び」がありました。他の現場を知ることが出来たのは、本当に大きかったと思います。だから吉岡(聖恵)には「僕以外の人が作った曲も歌って欲しい」、そう思っているんですよ。
――吉岡さんにも色んな経験をして欲しい?
水野良樹やっぱりボーカル吉岡の可能性を一番信じているのは、僕と山下(穂尊)なんです。だから、彼女が持っている可能性や才能を縛りたくない。それに、僕ら以外の書き手の方が、彼女の才能を伸ばしてくれることは普通に考えてある。だから彼女が『いきものがかり』に戻ってきてくれた時に、僕らにとってはそれが大きなプラスになるんだと思います。周りからうちのグループは“仲良しこよし”と思われていますが、三人とも自立した「シンガー」と「ソングライター」で、たまたま同じユニットにいるだけ。「それぞれで頑張りなさいよ」という気持ちがわりと強いと思います。
無名のいきものがかりを“見出した”小田和正、「僕にとって小田さんは“希望”」
水野良樹僕はグループの中で、最前線でもバックヤードでもない“真ん中”にいつもいたんです。だからこそ、表に立つ人が思うこと、裏側にいるスタッフの人たちが思うことの“真ん中”で気づけることがたくさんありました。もしかしたら自分しか気づけていない、自分にしか出来ないことがあるのかもしれない。そんなことをこの数年間ずっと思っていました。『HIROBA』がまさに、そういった表と裏、どちらともつかないような立ち位置にいた僕自身の特性を生かせるチャレンジなんだと思うんです。「考えること」「つながること」「つくること」を豊かに楽しむための集大成とも言える『場所』。アーティスト目線とスタッフ目線のどちらにも触れるチャンスがあった“真ん中”の僕が、音楽というジャンルにこだわらず、いろんな分野の方とお会いして、その場所から何かを生み出す。まだ手探りの状態ですが、新しいものを形にするためには自分でリスクを背負って旗を振らないと何も始まらない。だから当然のことですけれど、原盤などの既存の契約が関わるところは別として、『HIROBA』にかかるコストの多くは原則的に自分でまかなっています。
――新しいエンタメの形を作りたいということでしょうか。
水野良樹例えば、音楽を世の中に届ける時のフォーマットは1つじゃないと思います。今まではメディア出演やタイアップを通して届けるという形でしたが、今の時代はアーティスト自身が伝えたい方法で音楽を届けていく。今までとは違ったやり方で、静かに、ゆっくりと、外から見たら“なんだかわけのわからない感じ”でやっていきたい。いろんな形を模索しながら、試しながら、そんなチャレンジがじっくりと出来る場所を僕自身が持つことで、可能性が広がっていくんじゃないかと思っています。
――『HIROBA』での第1弾作品は、小田和正さんとのコラボ楽曲でした。「本人が本人の書いた言葉で、本人の声で歌うっていうことをちゃんと体験してほしい。何よりもまずは、水野に歌を懸命に歌わせよう」。小田さんはそう話されていました。
水野良樹自分の書いた言葉を自分で歌う――。それが作品になっていく重みは、想像していたよりも大きかったですね。
――2006年、まだ無名だったいきものがかりをTV番組『クリスマスの約束』(TBS系)に呼んだのは小田さんだったとお聞きしました。
水野良樹本当に“拾って頂いた”という気持ちがすごく強くて、小田さんのことを恩人だと思っています。これまでも、僕がアーティスト活動をしていく中で迷いがある時、小田さんはその全てを経験されていて、色んなアドバイスをしてくださいました。疑うことなき天才なんですが、小田さん自身がずっと進化されているんです。
――恩人であり師匠のような存在ですか?
水野良樹途方もなく遠くにいる方ですが、ちゃんと背中を見せてくれていて、追っていけば、いつかその背中に辿りつけるんじゃないかと思わせてくれる。僕にとって“希望”の存在なんですよね。
自分と向き合い戦う中で「いつか死ぬかも」という思いが頭にはある
水野良樹今までのことに甘えてしまうとそれが固定化されて、ずっと同じことの繰り返しになってしまう。その繰り返しは、あまりやりたくないなと。
――それは、いきものがかりを放牧した理由とも符合しますね。
水野良樹なので、僕はここから数年が勝負だと思っています。個人としては『HIROBA』をどれだけ大きく、そしてちゃんと回せていけるのかどうか。『HIROBA』を通して出会った人、経験したことをいきものがかりに伝えていく。もっと違う景色をいきものがかりに見せたいし、まだ見えていない景色があるはずです。そして、その「新しくて楽しい景色」を、長い間聴いてくださっているファンの皆さんにも伝えたい。
――この2年、さまざまな経験を経て、「音楽」への想いは変わりましたか?
水野良樹そうですね。音楽を作るのが好きなんだと改めて感じました。ただ、“好き”を追求することって本当に大変なんですよ(笑)。僕自身、もちろん音楽と歌が好きなんですが、だからこそ、「俺って、もしかして、音楽が好きじゃないのかも…!?」って思った時の辛さって半端なくて(笑)。やっぱり、自分を信じられなくなる瞬間があるんですよ。でも、その先が見える瞬間、とんでもない「作品」が出来たり、これ以上ない喜びに出会う瞬間がたまにある。だから救われるんです。
――その喜びやカタルシスのために生きている?
水野良樹僕は、成長するために自分自身と常に向き合い、戦っています。その戦いの中で「いつか死ぬかも」というのがずっと頭の中にあって、何かしら世の中に大きな波を起こしたい。その大きな波は、僕にとっての「作品」なんだと思います。死んだ後も「作品」はずっと残るわけで、この世に生まれてきたからには、そんな「作品」を1つでも多く残したい。これからは、いきものがかりのための人生ではなく、いきものがかりと共に歩む人生にしたいですね。
『いきものがかり』のリーダーであり、多くの代表曲の作詞・作曲を手掛けた水野。NHK朝ドラの主題歌やオリンピックのテーマソング。大きなタイアップ楽曲を任された時、喜びとともに、制作者としての「重圧」をいつも1人で抱え込んでいたのかもしれない。「これが書けないとソングライターとして死ぬ。そうでもして自分を追い詰めないと、とてもじゃないけど書けなかった。」著書に書かれていたその想い、その戦いの先に生まれた名曲の数々に、どれだけ多くの人が感動しただろう。そんな多くのファンが、水野の新たな挑戦を、きっと後押ししてくれるはずだ。
(取材・文 山本圭介 SunMusic)