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ORICON NEWS
“ガキ使”問題、「時代だから…」の配慮要請に視聴者は辟易?
海外でも大きなニュースに、年明けから続く大論争
「差別と思わない」派の意見では「差別の意図がないから」がほとんど。番組では、アメリカンポリスの設定で、他の演者がカッコいい制服に着替えて登場する中、浜田だけがなぜかエディ・マーフィー。そこが“笑いどころ”で、「なんで浜田だけ『ビバリーヒルズ・コップ』なんだよ」であって、決して「なんで浜田だけ肌が黒いんだよ」で笑いが起きたのではない。SNSでは多くがこの論調だった。
「今という時代」とは具体的に“どんな時代”? 同様の論争で多くの著名人が謝罪
似たケースでは2015年、ボストン美術館が、クロード・モネの、和服を着た白人を描いた絵画「ラ・ジャポネーズ」の前で着物を試着するイベントを開催。これが「人種差別だ」と抗議され中止となった。
かたや日本では、過去より、とんねるずの「矢島美容室」が大ヒット。またお笑いタレントのノッチによるオバマのモノマネもウケていたほか、2016年の“ガキ使”でも、マツコ・デラックスがエマニエル坊やに扮装。だが、これらが当時、問題となったという話題はほとんど聞かれなかった。さらに遡ると、鈴木雅之率いるシャネルズも、デビュー曲『ランナウェイ』がミリオンセラーを記録する大ヒット。ドゥ・ワップブームをも巻き起こした。
日本では、黒塗りを“差別”とは考えず、その概念もほとんどなかったといえる。だが今はインターネット社会。様々な情報が世界に発表する世の中で、人種差別に対して敏感な欧米人の目にもとまりやすくなった。「こういう時代」とは、こうしたグローバル社会のことを指すのだろう。
そもそも差別があったのはアメリカなのでは?
なるほど。だがそもそも日本には、黒人に酷い差別をしてきた歴史は存在しない。これもあり、我が日本のSNSでは「肌の色は“障がい”ではない、同列に置くことが差別なのでは?」、「問題視している人達の方が、潜在的に黒人差別している気がする」などの声が挙がる。
エジプト出身のタレント・フィフィも「黒く塗ると差別だと騒ぐ人達はネガティブなイメージを持ってるのかな?日焼けして黒人並みにするほど黒い肌に憧れる人もいるし、黒人ファッションを真似る人も。黒人に扮しただけで差別? そう指摘する人達こそ、優劣を付けて人種を見てる気がする」などとツイート。
筆者自身も、「誰かが傷つくことはやるべきではない」とは考えるが、黒人を差別してきた欧米の歴史や責任を押し付けられている違和感があった。またマクニール氏の言葉を借りると、日本人が差別に“無知”とする“逆差別”も疑ってしまった。そうでなければ、これだけ欧米メディアで騒がれなかったのではないかと考えるからだ。
ベッキーの“タイキック”に関しても女性蔑視との声が
例えば、同番組でベッキーがタイキックされる番組があったが、これも“女性蔑視”とする批判があった。だがベッキー自身は、今月6日のラジオ番組『ミッドナイト・ダイバーシティー〜正気のSaturday Night』に出演し、「年末のバラエティーの代表格で、そこに出演させてもらってうれしかった。逆ドッキリも、タレントとして本当にありがたかった」とコメント。ゲス不倫問題を精算する意味合いもあり、スキャンダルを引きずっていたベッキーを救ったのではないかという解釈も生まれる。だが“女性蔑視”という意見も無視できない。なぜなら人の本心は“不可視”で、蔑視も“そうかもしれない”からだ。
日本人は本当に、差別に“無知”なのか? 2011年に劇団ひとりがブータン国王を揶揄した芸を披露した際には、「侮蔑している」と国内のSNSで大炎上している。日本人も「ダメなものはダメ」というのだ。こうした日本人独自の価値基準は、グローバル社会の前では否定されてしまうのだろうか。
今月6日、日テレで“ガキ使大みそかSP”の完全版が放送され、浜田のエディ・マーフィーのくだりも放送された。そうした日テレの姿勢に、SNSでは拍手喝采も。基本的に様々な意見が出るのは健全なことで、主義や思想はそれぞれ。一方の意見に一方が潰される事態はあってはならず、それは今回を「差別」とする報道に“不快感”を抱くユーザーの声も同じだ。ないがしろにされていいはずがなく、難問ならばさらなる議論を続けた方が健全だ。
『みなさんのおかげでした』や『めちゃ×2イケてるッ!』(共にフジテレビ系)など、長年愛されてきた番組の終了も、尖ったことが出来なくなった結果ともいえる。過剰な反対意見に対する“NO!”も日テレの再放送も、年末の風物詩である“ガキ使”までも終了の憂き目にあるのは御免被りたいとする意志の表れのようにも思える。
日本独自のお笑い文化を絶やすことなく、さらなる進化を望む視聴者が大半ではないか、とSNSの声などを見て、思うのだ。
(文/衣輪晋一)