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究極のビートルズ来日賞味法! ビートルズが日本に与えたもの

【来日前】
 1966年4月27日、読売新聞に社告が出された。
「世界最高の人気グループ ザ・ビートルズを招く 6月下旬、東京で演奏会」。
 日本の大人社会はビートルズを大変なものと誤解して大騒ぎとなった。女のような長い髪、ギターをかき鳴らして演奏するのは音楽というより騒音、コンサート会場では客は演奏も聴かずに立ち上がり半狂乱、行く先々では暴動まで起きている…。

 そうなのだ。ビートルズ来日は最近の出来事にたとえるなら、ヨン様やベッカム様ではない。「ワールドカップでフーリガンが上陸」というニュースに「オウム信者急増中」「キレる若者」といったニュースまで合わさったような大変なものだったのだ。その一方で「なぜかイギリスでは女王から勲章までもらっている国賓だから失礼にも扱えん」という、日本の大人社会にとって訳の分からない存在であった。

 仕方なく日本はこういう対応をすることにした。
――英国の珍しいカブトムシが世界巡業で日本にもやってくる。観客が殺到してカブトムシに何かあっては大変、カブト虫のバイ菌で日本人が汚染されても大変。よって滞日中の数日間はカゴから一切出さぬよう厳重警備せよ――
 これがビートルズ来日を賞味する極意である。この視点さえ腑に落としておけばさまざまな狂騒が読み解けるだろう。学校が「ビートルズ公演に行けば処分する」と通告したのも、警視庁がビートルズ特別補導体制をしいたのも、右翼が「青少年を不良化させるビートルズを日本から叩き出せ」と街宣して回ったのも、そういうわけだったのだ。
 
ビートルズ来日公演のパンフレット

ビートルズが宿泊した日本唯一のホテル、キャピトル東急ホテル

【6月29日】
 本当はビートルズの到着は28日夕方を予定していた。しかし台風4号が日本を直撃したため、11時間遅れの29日午前3時44分となった。この台風が「ビートルズ到着の騒乱を防いだ神風」とまで表現された理由もここまで読んだあなたには今やすっかり理解できるだろう。

 送迎デッキからはるか離れた特別エリアに到着した飛行機。はっぴ姿で姿を見せたビートルズは、タラップで写真撮影をすませ、下に待機していたキャデラックに乗って走り去った。交通規制された首都高をパトカーの先導で走りぬけ、東京ヒルトンへと直行したのである。
 ビートルズが乗ってきた日航機の客室乗務員たちが記者会見を開いたが「皆さん、ジェントルな英国紳士でした」という談話ばかりでマスコミは拍子抜けした。ビートルズの落花狼藉ぶりを期待していたのだ。

 その日の午後、ビートルズの記者会見が東京ヒルトン真珠の間にて行われた。まるで裁判のような代表質問形式に面食らいながらも、ビートルズは大人社会が繰り出す質問に答えていった。
「ビートルズ公演に武道館を使用することは伝統的な日本武道の精神に反するという意見もあるが……」という質問にポールは聡明にこう答えた。「もし日本の舞踏団がイギリスの王立劇場に出演してもイギリスの伝統を汚すことにはならない。僕たちの国にも伝統はある。それに僕らはそこでやってほしいと依頼されたのだ」。ジョンも横から付け加える。「少なくとも取っ組み合いより平和的さ」。

 午後5時頃、ビートルズが滞在したプレジデンシャルスイートを東芝レコードの石坂範一郎専務、ビートルズ担当・高島弘之ディレクターとともに加山雄三が訪問した。ビートルズは加山雄三の最新アルバム『ハワイの休日』を一緒に聴き、すき焼きを食べて過ごしたようだ。

【6月30日】
 この日、プロモーターである共同企画(現・キョードー)代表・永島達司氏は、鎌倉から箱根へのドライブを予定していた。しかし前夜に警視庁から「ビートルズを外に出すことまかりならぬ。もしそれに従わねば警備に責任を負わない」と強く言い渡され中止となった。ビートルズは囚人でもないのに牢獄のような5日間を送ることとなったのだ。
 コンサートはこの日の夜の部から始まり、昼夜・昼夜と全5回開催された。

 司会はE・H・エリック。前座の出演者は、尾藤イサオ 内田裕也 望月浩 桜井五郎 ジャッキー吉川とブルーコメッツ ブルー・ジーンズ ザ・ドリフターズ(以上、パンフレット記載順)。
 連日、客席にはビートルズというものを見てみようと作家や芸能人の姿も見受けられた。当時の雑誌やスポーツ新聞からざっと挙げれば、大仏次郎、三島由紀夫、加山雄三、二谷英明、中村八大、大島渚、司葉子、安倍寧、加賀まりこ、田宮二郎、川内康範、野坂昭如、草柳大蔵、青島幸男、遠藤周作、北杜夫という名が連なる。もちろん当時のGS(グループサウンズ)も大挙して観にいった。

 コンサートはシングルB面曲やアルバムのみの収録曲まで盛り込んだ本格的な選曲だった。1曲目にカバー曲「ロックンロール・ミュージック」を据えたのは、もしかするとそれが日本でいちばん売れていたビートルズのシングルだったことが関係しているのかもしれない。「デイ・トリッパー」「ノーウェア・マン」そして最新シングル「ペイパーバック・ライター」のように、演奏するだけでも複雑な曲を笑顔でやすやすと歌う姿に同業者たちは腰を抜かした。

 この日の公演はテレビ収録されたが、マネージャーのブライアン・エプスタインはそれをNGにした。マイクの首が固定されておらずグルグル回りっぱなしだったことも大きな理由だろうが、「もっと客席の反応を映すように、客席の歓声ももっと拾うように」と注文を出したそうだ。ロックのコンサート映像はどうあるべきか、日本のテレビ局が世界の最前線から伝授された瞬間である。

【7月1日】
 この日の昼公演が、夜9時から『ザ・ビートルズ日本公演』として日本テレビで放映された。視聴率は59.8%。ワールドカップやWBCのように国民の関心を寄せた出来事なのである。
 番組の前半で放送された、朝焼けの首都高速をパトカーに先導されて走るビートルズの車に突然「ミスター・ムーンライト」がかぶさるドキュメント映像は今もファンの間で語り草の名シーンである。

 この「ミスター・ムーンライト」映像に別の編集版が存在するらしい。私が主宰するイベント「ビートルズ大学」で当時の『ミュージック・ライフ』編集長・星加ルミ子氏に伺った話だ。「星加氏と加山氏が数々の来日ドキュメント映像を見ながら振り返る特番」がビートルズ離日後に放送され、そこで流れたバージョンがさらに感動的だったというのだ。この特番のテープがどこかに残っていないものだろうか。

【7月2日】
 星加ルミ子氏がプレジデンシャルスイートを訪れる。部屋でくつろぐ4人を紹介した日本の雑誌はこの『ミュージック・ライフ』が唯一である。 なんといっても私が重要視するのは、羽織を着て「シェー!」(赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』の登場人物「イヤミ」が行うギャグで1960年代に日本全国を席捲した)をするジョンの写真だ。日本の漫画は独自の発展を遂げ、今や世界中が賞賛する文化となっている。この写真は、日本文化とビートルズが接点を持った貴重な記録といえよう。来日の醍醐味ここにあり。

 星加氏も加山雄三も、部屋でビートルズが絵を描いて過ごす姿を目撃している。退屈しのぎにみんなで絵を描くとはなんと文化的なバンドだろうか。イギリス人だからという問題ではないはずだ。
 こうしてあっという間の4日間がすぎ、この翌朝ビートルズは次の公演地マニラへと向かった……。

台風一過の、夏の始まりの日のようないつまでも瑞々しく若々しいビートルズ

 それから40年。
 日本はめざましい経済成長を遂げ、今では世界のトップスターが次々と訪れる先進国となった。洋楽のリスナー人口もビートルズ来日を契機として格段に増加し、今や国際的に重要なマーケットとなっている。
 ビートルズによって初めて音楽コンサートに使用された武道館は、世界のミュージシャンの憧れの場となって現在に至る。ビートルズが滞在した東京ヒルトンは、キャピトル東急ホテルと改称しその姿を保って存在していたが今年11月末の取り壊しが決定し、ビートルズ来日回顧を大々的に行う。

 ビートルズのビジュアルイメージは日本の歌謡界にも影響を及ぼした。それがGSである。もちろん来日前から活動していたGSもいるが、百花繚乱の全盛期はやはり翌67年だろう。この年のレコード大賞をブルーコメッツが受賞しているのは象徴的だ(長髪でなかったブルーコメッツだけは紅白にも出場した。ジャズベーシックのバンドゆえ、いろんな意味で大人社会も許容できる本格派と位置づけられていたのだ)。

 67年にビートルズがリリースした『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の軍楽隊の服装をGSはミリタリー・ルックと呼んでこぞって取り入れた。GSのアイドルとしての全盛期に、本家ビートルズのほうは口ひげをはやし哲学者のような風貌でアイドルを脱皮していたのは皮肉な状況でもあった。
 ビートルズの置き土産はまだある。和製カバーポップスの終焉である。東京ビートルズを聴けば明らかなように、ロックに日本語が乗らなくなったのである。この“ロックに日本語が乗らない”という認識が当たり前になった頃、はっぴいえんどが登場し“日本語とロックの融合”を成し遂げた。すべての“J−POP”の出発点であり、各メンバー(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)が今なお多大な影響をシーンに与え続けていること、知的で諧謔味にあふれているバンドだったこと、エンジニアリングまで追求したこと等も含め、“日本のビートルズ”と位置づけて過言ではないだろう。

 ビートルズはその後も人々を魅了しつづけ、ポールやリンゴのコンサートには親子3代に渡る客層が詰めかけている。21世紀最初のアルバムチャートは世界各国で『ビートルズ1』が1位に輝いた。
 いつまでも古びない音楽を形容する言葉はいろいろ存在する。“スタンダード”、“クラシック”……ビートルズには“エヴァーグリーン”という言葉がふさわしい。台風一過の、あの夏の始まりの日のようないつまでも瑞々しく若々しいスピリッツである。
 現在よりずっと父権が強かった時代の大人社会にとって“若者をたぶらかしている、けしからんもの”であったビートルズは、今や音楽の教科書にも載っている存在である。当時のビートルズファンが願った“早く自分たちが世の中を動かせる立場になればいいのに”という社会が現実化したのだ。今の親は、歴史始まって以来の“ロックを聴いて育った親”である。その子供たちは生まれながらにしてロックが流れている家庭に育ち、作り出す音楽には古今東西のロックが自然に内包されている。ビートルズ来日で日本に蒔かれた種子からどんな花々が育っていくかこれからも賞味していきたい。

 これをご覧になっているメディア関係者・芸能関係者各位においては、この機会に自社の「ビートルズ来日アーカイヴ」を余すところなく把握していただければ幸いである。貴重な過去のコンテンツを“宝の持ち腐れ”にすることなく、当時のまま又は新しい切り口で呈示していくことは今後ますます問われていく機能となるだろう。ビートルズをキーワードに日本の変化をさまざまな形で検証できれば次の40年は一層輝かしいものとなるに違いない。
文/宮永正隆(著述家・ビートルズ大学学長)


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