DDTプロレスの秋山準(53)、『至高の三冠王者 三沢光晴』(ワニブックス)著者の小佐野景浩氏が18日、都内で行われた『プロレス本大賞2022』の特別賞受賞記念トークショーに出演した。
純プロレスを貫き、ファンを魅了した伝説のプロレスラー・三沢光晴さん(2009年に46歳で死去)。2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、そして四天王。プロレスに心身を捧げた男の「さりげなく命懸けという生きざま」を関係者たちの貴重な証言を交えながら、改めて検証する一冊となっている。
1992年に名門の専修大学レスリング部から鳴り物入りで全日本プロレスへと入団した秋山。三沢さんとの出会いを問われると「入団前、91年の最強タッグの時に武道館であいさつしました。三沢さんは『頑張れよ』と」と振り返る。その際に、あいさつされなかったことを川田利明が事ある度に話しているが、秋山は「ちょうど休憩時間ぐらいに行ってコスチューム姿だった。急に『どうも』とは言えなかった。あの時にあいさつしていたら、ああはならなかったのかな(笑)」と、のちにボコボコにやられたことを引き合いに出して笑わせていた。
三沢さんと初めて一緒に立ったのはデビュー8戦目。秋山の23歳の誕生日に三沢さんとタッグを組んだ。ただ、秋山は「全然、覚えてない…。もう30年も前ですから」と苦笑い。初めての対戦したのは16戦目。6人タッグだったが、その際に三沢さんは「攻めてる時もやられている時もスピードが一緒なんだよ」とダメ出しをしていたことが小佐野氏から語られ、秋山は「デビュー16戦目なら無理ですよ。それで緩急つけてたら、もっとスゴいことになってます(笑)」と懐かしんでいた。
翌93年には試練の七番勝負が行われ、最終戦は三沢さんとのシングルだった。タイガードライバーで敗れた秋山へ、三沢さんは「アイツのキャリアで、これだけの戦いを強いるのはかわいそうなところもあるよね。本当だったら、もっと下でやって自分の技を作る時期なのに上の方で、いろんな技を出さなきゃいけない。技に、いまいち感情移入できていないんだけど、やっぱり同じような若い者同士で感情をぶつけ合うような試合をすることも大事だと思うよ」と話していた。秋山は「おっしゃる通り。本当にその通りです」ときっぱりで「プロレスラーとしての体もできあがっていない。今じゃ考えられないですけど、毎試合のように脳震とうになった。本当に、よくここまで元気で来れましたよ…」としみじみ口にした。
三沢さん、川田、小橋建太、田上明という四天王に組み込まれ、五強と呼ばれたこともあったが、秋山は「本当に嫌でした。プレッシャーでした。大森(隆男)と組んでいる方がすごいよかった(笑)。大森は嫌だったかもしれないけど」とボヤく。当時は三沢さんとタッグを組んだ。三沢さんからのアドバイスを問われると秋山は「ないですよ。言葉で言われたことはない」とする一方で「何かやって『あれ、ダメだよ』と言われたこともない」と思い返していた。
小佐野氏から同じマットに上がっていた立場として、三沢さんのピークについての質問が。秋山は「絶頂期は全日本の時」と断言。のちに、プロレスリング・ノアを立ち上げるが秋山は「三沢さんはノアでリーグ戦をやらなかった。三沢さんは自分の体を考えて、選手には自分のようになってもらいたくない、という気持ちがあったから三沢さんはリーグ戦やらなかった」と振り返る。年間の核となるシリーズが必要だと考えた秋山が進言しても三沢さんは「やらないって決めてるから」と首を縦に振らなかったそう。最終的には「GHCの次期挑戦者決定トーナメントみたいな形でやった。『三沢さんは出なくていいです』と」としていた。
三沢さんからシングルで勝利をもぎ取ったことも。小佐野氏が「三沢さんを超えたと思ったことは」と聞くと、秋山は「ないです。誰も超えてない。超えたという感覚はない。試合に勝っただけ」と即答した。小佐野氏は「三沢さんって、カッコいいことを言わないじゃないですか。どっちと言うと下ネタの話も多いし(笑)。でも、やっていることは命がけ。それでもニタっとする。そこが逆にカッコいいと思った」と懐かしんでいた。
そんな三沢さんとの思い出を問われると、秋山は「『キツい』という言葉を言わなかった。どれだけキツそうに見えても『大丈夫ですか?』と聞いたら『大丈夫だよ』って。聞いたのは1回だけ。その人が亡くなった年に『大丈夫ですか?』と聞いたら『キツいよ』と…。初めて聞きました。後から聞いたら、その年に引退しようと思っていた。寂しい思い出ですけど」と物憂げに口にした。
全日本時代から文字通りの死闘を何度も行い、2009年に三沢さんは試合中の不慮の事故で亡くなった。よくプロレスラーは「リングの上で死ねたら本望」と話しているが、小佐野氏は「その後は、みんな『自分の足でリングを降りて家に帰らなきゃダメだ』と意識が変わった。レスラーを変えさせた人」とする。秋山も「自分の足で降りたいなと思います」と賛同しながらも「『リング上で亡くなれば本望』とは思わないけど、トップレスラーとしては、こうあるべきだと僕は思う。今の若い子へ強要はしない。特にDDTなんて、絶対にそういうのはない。でも、僕の中のトップレスラーは三沢光晴。今でもそうです」と熱い思いを語っていた。
また、秋山は53歳の今年30周年を迎えた。いつの間にか、三沢さんの年齢も超えた。自身の引き際を問われると、秋山「もう気持ちだけだと思う。技術がどうとかではない。気持ちがなくなったら時が終わりなんだと思う」としながら「気持ちが続く限り」と、まだまだ現役を退くつもりがないことも語っていた。
純プロレスを貫き、ファンを魅了した伝説のプロレスラー・三沢光晴さん(2009年に46歳で死去)。2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、そして四天王。プロレスに心身を捧げた男の「さりげなく命懸けという生きざま」を関係者たちの貴重な証言を交えながら、改めて検証する一冊となっている。
1992年に名門の専修大学レスリング部から鳴り物入りで全日本プロレスへと入団した秋山。三沢さんとの出会いを問われると「入団前、91年の最強タッグの時に武道館であいさつしました。三沢さんは『頑張れよ』と」と振り返る。その際に、あいさつされなかったことを川田利明が事ある度に話しているが、秋山は「ちょうど休憩時間ぐらいに行ってコスチューム姿だった。急に『どうも』とは言えなかった。あの時にあいさつしていたら、ああはならなかったのかな(笑)」と、のちにボコボコにやられたことを引き合いに出して笑わせていた。
三沢さんと初めて一緒に立ったのはデビュー8戦目。秋山の23歳の誕生日に三沢さんとタッグを組んだ。ただ、秋山は「全然、覚えてない…。もう30年も前ですから」と苦笑い。初めての対戦したのは16戦目。6人タッグだったが、その際に三沢さんは「攻めてる時もやられている時もスピードが一緒なんだよ」とダメ出しをしていたことが小佐野氏から語られ、秋山は「デビュー16戦目なら無理ですよ。それで緩急つけてたら、もっとスゴいことになってます(笑)」と懐かしんでいた。
翌93年には試練の七番勝負が行われ、最終戦は三沢さんとのシングルだった。タイガードライバーで敗れた秋山へ、三沢さんは「アイツのキャリアで、これだけの戦いを強いるのはかわいそうなところもあるよね。本当だったら、もっと下でやって自分の技を作る時期なのに上の方で、いろんな技を出さなきゃいけない。技に、いまいち感情移入できていないんだけど、やっぱり同じような若い者同士で感情をぶつけ合うような試合をすることも大事だと思うよ」と話していた。秋山は「おっしゃる通り。本当にその通りです」ときっぱりで「プロレスラーとしての体もできあがっていない。今じゃ考えられないですけど、毎試合のように脳震とうになった。本当に、よくここまで元気で来れましたよ…」としみじみ口にした。
三沢さん、川田、小橋建太、田上明という四天王に組み込まれ、五強と呼ばれたこともあったが、秋山は「本当に嫌でした。プレッシャーでした。大森(隆男)と組んでいる方がすごいよかった(笑)。大森は嫌だったかもしれないけど」とボヤく。当時は三沢さんとタッグを組んだ。三沢さんからのアドバイスを問われると秋山は「ないですよ。言葉で言われたことはない」とする一方で「何かやって『あれ、ダメだよ』と言われたこともない」と思い返していた。
小佐野氏から同じマットに上がっていた立場として、三沢さんのピークについての質問が。秋山は「絶頂期は全日本の時」と断言。のちに、プロレスリング・ノアを立ち上げるが秋山は「三沢さんはノアでリーグ戦をやらなかった。三沢さんは自分の体を考えて、選手には自分のようになってもらいたくない、という気持ちがあったから三沢さんはリーグ戦やらなかった」と振り返る。年間の核となるシリーズが必要だと考えた秋山が進言しても三沢さんは「やらないって決めてるから」と首を縦に振らなかったそう。最終的には「GHCの次期挑戦者決定トーナメントみたいな形でやった。『三沢さんは出なくていいです』と」としていた。
三沢さんからシングルで勝利をもぎ取ったことも。小佐野氏が「三沢さんを超えたと思ったことは」と聞くと、秋山は「ないです。誰も超えてない。超えたという感覚はない。試合に勝っただけ」と即答した。小佐野氏は「三沢さんって、カッコいいことを言わないじゃないですか。どっちと言うと下ネタの話も多いし(笑)。でも、やっていることは命がけ。それでもニタっとする。そこが逆にカッコいいと思った」と懐かしんでいた。
そんな三沢さんとの思い出を問われると、秋山は「『キツい』という言葉を言わなかった。どれだけキツそうに見えても『大丈夫ですか?』と聞いたら『大丈夫だよ』って。聞いたのは1回だけ。その人が亡くなった年に『大丈夫ですか?』と聞いたら『キツいよ』と…。初めて聞きました。後から聞いたら、その年に引退しようと思っていた。寂しい思い出ですけど」と物憂げに口にした。
全日本時代から文字通りの死闘を何度も行い、2009年に三沢さんは試合中の不慮の事故で亡くなった。よくプロレスラーは「リングの上で死ねたら本望」と話しているが、小佐野氏は「その後は、みんな『自分の足でリングを降りて家に帰らなきゃダメだ』と意識が変わった。レスラーを変えさせた人」とする。秋山も「自分の足で降りたいなと思います」と賛同しながらも「『リング上で亡くなれば本望』とは思わないけど、トップレスラーとしては、こうあるべきだと僕は思う。今の若い子へ強要はしない。特にDDTなんて、絶対にそういうのはない。でも、僕の中のトップレスラーは三沢光晴。今でもそうです」と熱い思いを語っていた。
また、秋山は53歳の今年30周年を迎えた。いつの間にか、三沢さんの年齢も超えた。自身の引き際を問われると、秋山「もう気持ちだけだと思う。技術がどうとかではない。気持ちがなくなったら時が終わりなんだと思う」としながら「気持ちが続く限り」と、まだまだ現役を退くつもりがないことも語っていた。
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2023/01/18