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市村正親、浅利慶太さんの言葉で「名優・市村が誕生した」

 劇団四季創設者の一人で劇団代表も務めた演出家・浅利慶太さんが13日、85歳で亡くなった。訃報が伝えられたきょう18日、都内で劇団四季出身の俳優・市村正親(69)が会見を行った。

浅利慶太さんの訃報を受けて会見を行った市村正親 (C)ORICON NewS inc.

浅利慶太さんの訃報を受けて会見を行った市村正親 (C)ORICON NewS inc.

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 市村は俳優の西村晃さんの付き人を経て、1973年に劇団四季のオーディションに合格。圧倒的な演技力で、同劇団の80年代を代表する看板ミュージカルスターとして活躍した後、90年に退団した。

 大阪でミュージカル『モーツァルト』の千秋楽を終えて、帰京したばかりの市村は「千秋楽を終わって、袖に帰ってきたときに知りました」と突然の訃報に驚きの表情。一昨年に舞台の稽古中に会ったのが最後。23、24年ぶりの再会だったそうだが15分ほど話し込み「僕はかわいがられた役者。もしかするとお別れさせてくれたのかな」としんみりとした。「ゼロから教育してもらった。僕は浅利さんの言ったことは全部、覚えている。怒られたことも、褒められたこともある。日本のミュージカル界を引っ張ったのは浅利さん。本当に偉大な人でした」と故人を偲んだ。

 あす19日に舞台『NINAGAWA・マクベス』のため米・ニューヨークに旅立つ。「千秋楽で、あす8時に立つ。その間に訃報が入ってきた。また、浅利さんが『ニューヨークでやるなら、しっかりやれよ』と言ってくれているよう」と激励と受け止めている。「役者は女優の斜め後ろに立て」や「役者は役を必死に生きれば役の仮面が透けて役者の顔が見えてくる」といった、いろいろな訓示を受けた。中でも印象に残っているのは「演技は蓮の上の水玉」という言葉。「聞いたのは20代の後半なんですけど、わかったのは30代の後半かな。要するに固まってないということ。同じかたちは2度とない」と思い返し、その言葉の真意を理解できた瞬間に「名優・市村が誕生したのでしょうね」と笑わせつつ、しみじみとした。

 また、配役などで納得がいかなくても成長速度は人それぞれという意味で、「他人の時計をのぞくな」とよく注意を受けたそう。「浅利さんから言われたことを、今度は僕が言ってます。後輩たちに繋いでいかないといけない」と言葉を受け継いで、後進の育成に励んでいる。

 「お酒も覚えさせてもらった。24歳から41歳までお世話になった。本当に感謝してます」と話し、「考えたら16歳しか違わない。でも、僕にとっては偉大な芝居のお父さんかな…」と故人について語っていた。

 同じミュージカル『イエス・キリスト=スーパースター』でデビューした鹿賀丈史と比較され、浅利さんから「鹿賀がステーキなら、お前はクレソンだ」とも言われた。「当時は鹿賀丈史が正義。だいたい大きい役はあっち。でも、ステーキにクレソンはなくてはならない。太陽があって月がある。俺の芝居は月的な演技だから、お客さんが僕の演技を見て『グッと来る』と言うのかな」と真意を理解しつつ「最近は俺もミニステーキぐらいにはなったかな」と明るく追悼した。

 浅利さんは慶應義塾大学文学部仏文学科在学中の1953年に、日下武史さんら10名で劇団四季を創立。以来、劇団代表・演出家として、ストレートプレイからミュージカルまで、ほぼ全作品のプロデュースや演出を手掛けてきた。

 2014年に劇団代表職を退いてからは、活動の拠点を、現在の浅利演出事務所へと移し、『浅利慶太プロデュース公演』として、計12公演の演出を手掛けた。紀伊国屋演劇賞、菊池寛賞、読売演劇大賞、ドイツ連邦共和国一等功労勲章、イタリア・アッビアーティ賞、中国政府友誼賞他、国内外での受賞多数。数多くの俳優、スタッフを発掘、育成し、日本の劇場文化を大きく発展させた。

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