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本に恩返しがしたい、ファッション誌「bis」編集長・中郡暖菜氏

2018年10月取材・掲載記事の再掲載

(C)MusicVoice

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<エンタメ界の30代 Vol.12>
変革期を迎えているエンターテインメント業界。テレビ最盛期やミリオンヒットが続出した時代に青春を過ごした30代は今まさに、その最前線で活躍している。彼らは今何を考えているのか、どう時代の変化に立ち向かっているのか。リレー形式でインタビューする本企画は、エンタメ業界で働く大手事務所マネージャーが同世代で活躍するキーマンに話を聞き、それぞれの『背景』や『想い』に迫っている。今回は、2012年に『LARME』(徳間書店)を創刊し、わずか1年で発行部数23万部の人気雑誌に成長させ、現在は、『bis』(光文社)の編集長を務める中郡暖菜氏。最新号では『長濱ねる』(欅坂46)さんを初の単独表紙に起用するなど多方面にて話題を集め、デジタルメディアを使った戦略で新しい「出版ビジネス」を積極的に展開している。そんな次世代女性誌のキーパーソン『中郡暖菜』氏に迫った。
【企画・取材・文=山本圭介(SunMusic)/撮影=冨田味我】

『本に恩返しがしたい』

 1986年生まれで国立音楽大学を卒業後、在学中にアシスタントとして働いていた『小悪魔ageha』編集部(インフォレスト株式会社)で、そのまま編集部員として就職。毎月20本近くの企画を提出し、人気雑誌の最前線で働いていた。そして2011年に同社を退社。その後たった半年の制作期間で、自ら企画して立ち上げた『LARME(ラルム)』(徳間書店)を創刊。同社史上最年少編集長に。「独特の世界観」や「斬新なレイアウト」で多くのファンを掴み、わずか1年で23万部の売り上げを記録、一躍人気雑誌に成長させた。その後2016年、『JJ」(光文社)の妹誌である『bis』の11年ぶりの復刊を手掛け編集長に就任。

 「私には『本を作る事』しかできなかった」

 彼女にとっての大きな転機は「母の病気」だった。自分に出来ることは何か。自問自答し、出した答えは『自分の本を作る事』。自ら企画書を作り営業、26歳にして創刊編集長に就任した。スタジオやスタッフ、出演モデルの手配や誌面の構成など、無我夢中で走り回った。

 雑誌の全責任を背負う「編集長」という仕事。わずか26歳でその重責を背負い、そして、たった1年で23万部を発行する雑誌に成長させた。今や出版不況といわれ女性誌の休刊が相次ぐ中、次世代女性誌を担う敏腕編集長『中郡暖菜』氏の想いとは。

26歳で編集長に、転機となった母、そしてドイツ旅

――学生時代に熱中していたエンタメコンテンツはありますか?
 ギャルに憧れていたので、中学生の頃から『egg』(大洋図書)『popteen』(角川春樹事務所)を読んでいましたね。カッコよく言うと、ギャルカルチャーを深く追求していました(笑)テレビ、映画もよく見ていて、特に「QUIZ」(TBS金曜ドラマ)という『堤幸彦』監督のドラマがすごく好きでした。まだスマホもない時代なのにインターネットを駆使していて、ドラマの内容によって特設サイトが更新されたり、掲示板があって色々な人が書き込みしていたり。当時としてはとても新しい形で、ワクワクしていたのを覚えています。

――当時から、インターネットには興味を持っていたんですか?
 親が「電気オタク」で、物心ついたときから「Mac」が家にあって、初代の分厚い「iPod」も持っていました(笑)4人家族なのに 家には10台以上パソコンがありました。その影響もあって、小学生の時から「Chat」で遊んでいて、タイピングもすごく速かったですね。あとは、学生時代に趣味でやっていた『画像職人』。フォトショップやGIF動画を使って、携帯の待ち受け画面やメニュー画面、着信画像を作っていました。自分の名前をいれた画像を作って欲しいと、女の子たちから毎日100件くらいリクエストがきていました。作った画像を配布している自分のサイトもあったんです。

――学生時代から、名前を知っている女の子も多かったんですね?
 大学生の時にブログをやっていたのですが、ブログアクセスランキングで「1位」でした。常にランキング上位にいましたね(笑)その時は普通の日常を書いていて、ファッション、メイク、駅ビルでアパレルの販売員のバイトをしていたのでそのことと、恋愛についてもリアルタイムで書いていました。当時付き合っていた彼氏と別れたことをアップした記事にはコメントが800件来て、2ちゃんねるでも3スレくらい消費されました。ブログページにリンクを貼ったり背景やフォントを変えたりするのが好きで、「html」(webページ作成のための言語ツール)を、使いこなしていました。記事を編集したりデザインしたり、レイアウトを考えたりすることが当時から大好きだったので、熱中していましたね。

――当時から、「情報を発信する仕事」をやりたいというのはあったんですか?
 そうですね。「編集者」になりたいというのは中学生くらいから考えていました。ただ、どうやったら編集者になれるのかが分からない。そういう大学があるわけではないし、どうしたらいいのかなと思っていたんです。でもちょうど大学3年生の時、アルバイトで『小悪魔ageha』の編集部に入る事が出来た。それが、この業界で働くきっかけですね。当時は完全にアシスタントという形で、そのまま大学を卒業して、インフォレスト株式会社『小悪魔ageha』編集部に就職する形になりました。

――そこで編集の基礎を学んだんですか?
 「ageha編集部」はとても忙しくて人数も少なく新しい媒体だったので、誰かに何かを教えてもらうような待ちの姿勢は通用しません。自分の意思で動いて、どんどん吸収していく。それが私的には良かったですね。大学生の時は自分の企画を持てなかったのですが、就職してすぐ企画ページを持たせてもらいました。毎月の編集会議では20本くらい企画を出して、編集長が振り分けていく。今でも覚えているのが、一番最初に担当した「4ページのアクセサリー企画」。私はその企画のタイトルを「ページ上部」に置いたんですが、編集長に「真ん中に変更して」と言われたんです。私の中では「上」が良かったんですが、そのまま変更しました。本の中では編集長が絶対、を体感しました。ですが作ったものに修正が入ったのは、それが最初で最後。4年間の中でたった1回だけでした。とても信頼してくれていて、ありがたかったですね。

中郡暖菜氏(C)MusicVoice

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