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(更新: ORICON NEWS

アイデアは自分の中ではなく世の中にある、GO代表 三浦崇宏氏

博報堂時代から『GO』設立に至るまで

――学生時代、三浦さんが影響を受けたエンタメは何だったのですか?
 いちばんは「新日本プロレス」と「PRIDE」ですね。高校の時にフジテレビで放送されてた『PRIDE』に熱中して。テレ朝で放送されていた深夜の『新日本プロレス』は小学生からずっと見ていました。小説も好きで活字中毒者でした。作家でいうと、村上龍、隆慶一郎、京極夏彦。海外だとル・クレジオとポールオースターとミランクンデラとかを中学生の時からめちゃ読んでました。あと「週刊少年ジャンプ」は今でも読んでるなぁ。20年くらい。音楽でいうと日本語ヒップホップですね。ライムスター、キングギドラ。このあたりの影響はとても受けましたね。

――高校で柔道部の主将だったときに、格闘技を観戦する為、柔道部員を引き連れて東京ドームに行ったんですよね?
 そうなんですよ。高校生の時に、柔道部員30名くらい全員連れてPRIDEグランプリの「桜庭和志 VS ホイスグレイシー」の試合を東京ドームへ観に行ったんです。なぜかここは『正装』で行こうと思って、全員柔道着で行ったんですよ。もちろん僕らは桜庭選手を応援していたんですが、ホイスグレイシーは柔道着を着ているから、パッと見でどっちを応援しているか分からない。『なんなんだこの集団は』と周囲は思っていたと思います(笑)学校はもちろんサボりですね。当時の僕は柔道の練習をするよりも、授業に出るよりも、この試合を生で見ておくことが人生の変化のきっかけになると、思っていたんですよ。高校生なりに。だから鮮明に覚えていますし、あの時のグルーヴ感は忘れられないですね。当時から人生における「変化のきっかけ」を何となくいろんな場面で探していたように思います。

――格闘技に熱中していた学生時代から、将来「エンタメ業界」で働きたいという思いはあったのですか?
 高校、大学の時は、ずっと小説家になりたかったんですよ。早稲田大学の文学部に入学して、小説を書いてみたんですが、全然楽しくなかった。1人で原稿用紙と向き合って、自分と向き合って作品が生まれていく執筆の過程に喜びを全く見出せなかったんです。それで、自分にとって何が楽しいかを考えました。高校の時は「柔道部の主将」をやりながら「生徒会長」をやっていて、「年に2回学園祭をやる」という意味が分からない公約を打ち立てて実行したんです(笑)それがすごく楽しかった。大学時代もイベントをたくさん企画して、大学生で初めて「Google」から協賛金を得て学生イベントをやりました。その時の過程が本当に楽しくて「みんなで何か面白いものを作り上げる仕事がしたい」そう思って、就活ではテレビ局と広告代理店を受けました。

 当時、就活で大事にしていた軸は『色々な表現手段が学べることと、自分が自由に動けること』この2つだったんです。テレビは面白いこと、感動することのためには何でもありだけど、最終的には、テレビ番組を作ることになる。。一方で広告は、その商品を売るため、広めるために、テレビ、ラジオ、イベント、あらゆる手段で色々な仕掛けができる。そう考えたとき、テレビよりも広告の方が、自分自身が成長できて、将来は自由な立場になれる、そう思ったんですね。

三浦崇宏氏(C)MusicVoice

三浦崇宏氏(C)MusicVoice

――そういった想いもあって、大学卒業後、「博報堂」に入社された。
 そうですね。最初は「クリエイティブ」部署への配属を希望してました。でも入社して最初についた部署はまさかの「マーケティング」で、エンタメとはあんまり関係ない部署でした。最初のクライアントは環境省。毎月、国民の環境意識調査の結果をクライアントに報告する仕事をしていました。当然、大事な仕事ですが、当時の僕にとってはかなり地味で退屈に感じていましたね。申し訳ないことに…。

――当時は異動したいと思っていましたか?
 ずっと思っていました。ただ、振り返ると『基礎の大切さ』『地道にやることの大切さ』を上司は教えたかったんだと思います。当時の僕はそれが理解できず、ある時、上司に不満をストレートに伝えてしまったんです。それが原因で、会社で干されて仕事をもらえなかった時期がありました。やる事がなかったので、大学の友達のスタートアップを手伝ったり、TBSラジオのオフィスが博報堂の近くにあるので、好きだったラジオ番組のプロデューサーを訪ねて『博報堂のプランナーなんですけど、放送作家やりたいです』とかいきなり言って手伝わせてもらったりして。副業の走りみたいな。でも博報堂の先輩たちからしたら、あいつは仕事がないはずなのに何をやってるんだと思ってたでしょうね。会社のプリンターから「TBSラジオ構成台本」とか、誰も知らないスタートアップ企業向けの企画書とかが印刷されている。あとになって周りに聞いたら全部バレてて「あいつなりに成長しようと、もがいているから見守っておこう」となっていたみたいです。今思うと、それは本当にありがたかったですね。

――いわゆる、「会社の外の仕事」はいつくらいまでやっていたのですか?
 ある日、気づいたんですよ。博報堂じゃなくてもできる仕事をしていても仕方ないと。真面目なことも地道なこともやって鍛えられて、大きい会社でしかできない仕事をやるべきだろうと。それにもかかわらず自分は今、勝手に「博報堂」から外れている、と。それで、上司に「仕事をさせてください」と伝えました。泣きながらそれまでの不遜な態度を詫びて。(笑)それから、がむしゃらに頑張りましたね。その後の1年で、けっこうヒットしたんです。メジャーな飲料会社の新商品開発のプロジェクトチームに入れていただいて。3年間やって、すごく楽しかったですよ。

――その後、PRの部署に異動されたんですよね。
 そうですね。本当はクリエイティブの部署に行きたかったんですが、当時の会社の役員から「お前みたいな口先だけのやつが口先だけの部署に行ったら本当に口先だけのやつになるぞ。お前はまず『PR』の部署に行くべきだ」と言われたんです。PRはいわゆる、様々なメディアに「商品」や「ブランド」の情報を取り扱ってもらえるような企画を考えたり、実際にメディアにアプローチするところまでやります。ある商品の情報を発信するとき、どのメディアが最もふさわしいのか、しっかり戦略を立てて、彼らにプレゼンする。僕の説明が下手だったり、メディアの記者や編集者に魅力を理解してもらえなかったら取り上げてもらえませんし、商品も売れない。そういう意味で、PRの仕事は口先だけじゃなく、結果が出るまで責任を取る。その役員が僕に学ばせかったのは、そういう事だったんですよね。

――その時のPRの仕事での学びは大きかったですか?
 すごく大きかったですよ。博報堂で一番大事なクライアントである『NISSAN』のSNS戦略を全部任せてもらえて、PRだけではなくプロジェクトのリーダーをやりました。当時はまだ「SNSプロモーション」の成功事例がない時代だったので、正直どうしていいかわからないという感じでしたね。博報堂どころか広告業界に成功事例がない。それで、自分が学びたい人を勝手に『上司』にしようと思って放送作家の『鈴木おさむ』さんが浮かんだんです。

 それですぐ「一緒に、NISSANのSNSプロモーションをやりませんか」とオファーしたら、快くOKしてくださって、それから2年間くらい毎月、おさむさんと企画会議をしていました。

 おさむさんから学んだことが3つあって、1つ目は、ポジティブな姿勢です。おさむさんは企画会議で絶対怒らないし、絶対ネガティブなことを言わないんです。大企業の仕事っていろんな事情があって『その企画は面白いけどこういう理由で絶対できません』とか『消費者に誤解を与えます』みたいなことがよくあるんです。無理なことばかり言われると、普通なら怒って会議が変な空気になるんですが、おさむさんは「まじで、そんなルールがあるの?面白いね」とネガティブな状況や不可能に見える障害を楽しめるんです。『悩む』『嘆く』『文句』を言うのではなく、『新しいルールが加わった』と思って面白がる。あれは僕にとって、一番大きいマインドチェンジでしたね。

 2つ目は、反応するスピード。当時から「視聴率はリアクション」だと話されていたんです。テレビって視聴率という数字だけで判断されてしまう。制作側からすると結果を次に活かしにくい部分があるはずなのに、おさむさんは違った。数字が「下がった場所」「上がった場所」を細かく分析して、次の制作に生かす。相手の反応を見て、変えて、それをどんどん続けて番組を変化させていく。今で言う、SNSの反応をリアルタイムで見て分析する『デジタルコミュニケーション』を、当時からテレビの世界でやっていた。それは本当に驚きましたね。

 3つ目は、『人への目線』ですね。あれだけ、テレビで『笑っていいとも』や『スマスマ』といった大きな番組をやってきた人が、ある特定の誰かを喜ばせるためにすごく工夫するんですよ。例えば、昔一緒に仕事をした誰々が見たらこう思うだろうなとか、身の回りの誰かを喜ばせる「仕掛け」を必ずいれる。目の前の苦しんでいる人に向けて作った番組が、実は同じように苦しんでいる何十万人にも必ず届いて、結果として多くの人に届く仕掛けになっている。それは本当にすごかったですね。おさむさんからは、仕事だけじゃなくて、人生でも色々な面で多くのことを学びました。

――その後、PR部署から、希望するクリエイティブの部署に行かれたんですか?
 はい。PRの部署にいた時から自分でメディアやコンテンツを作っていて、クライアントさんから、クリエイティブも三浦に担当して欲しいという依頼を頂くようになりました。本来なら、試験を受けないとクリエイティブには異動できないんですが、自分がやっている仕事は新しいクリエイティブだという強引な理屈を展開して部署異動し、クリエイティブのリーダーになりました。でも当時やっていたことは『PR』『クリエイティブ』『マーケティング』の全てだったので、仕事が変わったというよりは、1人で全部をやるようになった感じでしたね。それが、今の会社のスタイルに繋がっていると思います。

三浦崇宏氏(C)MusicVoice

三浦崇宏氏(C)MusicVoice

――その中で、2017年に博報堂という大きな会社を辞めて独立されました。その決断は悩まれましたか。
 全く悩まなかったですね。マーケティング、PR、クリエイティブを経験した中で強く思ったことがありました。ぼくたちクリエイターはクライアントに対して「広告だけではなく、もっといろんな場面で力になれる」ということ。それは反面「もっと責任を持ちたい」ということでもある。それで「事業クリエイティブ」ということをテーマに立ち上げたのが、今の『GO』という会社です。博報堂は広告代理店。広告が主要事業ですし、それを変える必要はない。でも僕は、クライアントの事業全体を「アイデア」や「クリエイティブ」でお手伝いしたいと思ったんです。

――『GO』にはどんな仕事が来ていますか?
 大きく分けて3つです。1つ目は、大企業が新規事業を作りたいのでプロデュースして欲しいという依頼。2つ目は、スタートアップがこれから世に出ていく上で、ブランディングやPRをお願いしたいという依頼。もともと僕がイメージしていたものですね。3つ目は、とにかく、話題になるキャンペーンをやってほしいという依頼です。やっぱり世間がアッという広告を考えるのは楽しいですよ。

――話題になるという点では、ケンドリク・ラマーの黒塗り広告は話題になりましたね。これはどのように生まれたものですか?
 これは世の中の空気を捉えるPRの発想で作られた広告です。僕は打ち合わせしながら企画するタイプなんですけど、最初は、24歳の新入社員が「こんなのどうですか?」と持ってきて、そのポンチ絵で世の中がどう反応するかがイメージできた。最高じゃんと思いました。当然、政治的なメッセージにも見えるリスクもあるので、クライアントさんには企画の価値を丁寧に説明させていただきました。

 広告業界では「クリエイター」が評価されることが多いんです。でも正直、アイデアはどうにかなるんですよ。だって、妄想なんていくらでもできるじゃないですか。だけど、問題が起きた時に批判を受けるのは「クライアント」。僕らは、広告の意義、効果を提案し、もちろんリスクマネジメントも説明しますが、最終的に勇気を持って決断するのはクライアント。彼らこそが『ヒーロー』なんですよね。そこは絶対、忘れてはいけないと思います。

 特に今は、『勇気』が評価される時代だと思うんです。ブランドや企業、もっというと一人一人の現場のビジネスパーソンが勇気を持ってチャレンジしていることを、SNSやメディアを通じてファンやユーザーが察知する。勇気を持ってチャレンジすることが、結果、得をする。若い人間にとってはいい時代になったと思いますね。

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