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デビュー20周年の相川七瀬、波瀾万丈のアーティスト人生とは

このままだと自分はおかしくなると思った時期も

――相川さんは今話に出てきたデビュー曲「夢見る少女じゃいられない」で、いきなり大ブレイクを果たしました。その後、20年間の中で“相川七瀬”を辞めたいと思ったことはありましたか?
相川 ありました。私の場合、このままだと自分はおかしくなるなって時期がちょうど結婚のタイミングでした。それがなかったら、多分、心が折れていたと思います。でもそこで強制終了のように息子が生まれて、本当に自分が欲しかったもの、例えば落ち着いた生活や自分と向き合う時間、そういうものをあの瞬間に仕事と引き換えに手に入れました。それはすごく難しいことで、あの時期は仕事を手放さければ得られなかった。だから重い決断だったけど、人間としての自分を考えると、方向転換ができて良かったなと思います。ただ、そこからは浮いたぶんだけ沈んだ時間っていうのが10年ぐらい続きました。

――10年も?
相川 長かったけど、今思えばすごく貴重な時間でした。自我と戦ってきた10年だったし、足りないものを補って来た10年でした。自分は何のために歌を歌い続けていくんだ? みたいな、歌手としての在り方がわからなくる時期もありました。次男が生まれたあと体調を壊したり、声が出なくなったりして、思うように自分をコントロールできないことが心身ともに辛くなっていたんです。でもその時期に今はライフワークになっているモノを書くことのベースとなった、心理学を学べたのは大きかった。どんなに沈んでも心のバランスを崩さずにいられたのは、セラピストとして勉強して活動したり、自分の感情に巻き込まれないトレーニングをひたすらやっていたからだと思います。だからそれも私の大きな財産。どれもこれも結果的にムダじゃなかったなと思います。

――そうやって心身のバランスを取り戻していくなかで、改めて音楽とも向き合っていった?
相川 そうですね。そこは次男の存在も大きくて。私が音楽と離れていたかった時期にも、“相川七瀬”のライブDVDを次男が家で観ていたりするんですよ。私は観たくないし、聴きたくないのにと思っているのに(笑)。でもいやいやながら観ているとだんだん「結構、いいステージだったな」って思えるようになってきて(笑)。自分が勝手に思い込んでいた過去は決して、悪いものなんかじゃなかったって素直に観られるようになった。今思うと、それがリハビリだったんでしょうね。次男は今でも私のリハーサルに来たがったりしますが、彼のおかげで音楽をしている自分と向き合いたいなって思えた気がします。さらにその頃、東日本大震災があって、それをきっかけに私の音楽への取り組み方がまったく変わりました。

――すごいタイミングですね。
相川 そう。本当に震災のタイミングでスイッチが切り替わった。それまでは昔の曲を歌うのはキツいと思いながらステージに立っていたこともあったけど、これが最後かもしれない、明日はないかもしれないと考えたら、昔の曲であれ何であれ喜んで聴いてくれる拍手してくれる人がいるなら、歌いたいと。本望だなと。そうしたら、こだわりとか執着がみたいなものがふっとなくなって、何も気にならなくなったというか。多分、自分の中で納得したんでしょうね。明日、もうこの命がないことがありえる世の中で、後悔しないように100%の力を常に出し切る。そういう気持ちをステージにちゃんと持ちたいなって。だから今もステージが終わった後は燃え尽き症候群みたいになってしまうし、そんなに出しちゃって大丈夫?って周りには言われるんだけど、逆に出さないと自分の中で循環しない。今日のエネルギーは今日のうちに燃やす。ヘトヘトになっても出し惜しみはしない。そうした先に見てくれた方との絆が生まれるし、何より私自身が歌っていて幸せだってことに気づいたんです。ここに辿り着くまでは随分長い道のりでしたけどね(笑)。

――波瀾万丈ですよねぇ。
相川 振りが大きければ、その分の返りの幅も大きいですからね。でも私が本当にラッキーだったのは織田哲郎って人が私の人生をプロデュースしてくれたからだと思います。彼は歌手としての私に責任を持ってくれただけでなく、私の人生も大人になるまで預かってくれた。そのおかげで道を逸れることはなかったので、本当にありがたいなって思っています。

――音楽以外にもいろいろ言われたりしたんですか?
相川 言われましたよ。特に20代の頃はちょっとでも調子に乗っているとよく叱られました。私生活においても、踏み外しそうになる時にはいつも「お前、本当いい加減にした方がいいよ」とお父さんみたいに(笑)。私が沈んでいるときも「お前は雑草のように野太く生きて行けるから心配するな大丈夫」って。その予言通り何とかここまでやってきているので、雨にも負けず風にも負けない雑草で頑張っていきたいと思います(笑)。

――まさに人生の“師”ですね。でも、旦那さんがちょっとヤキモチを焼いたりしません?
相川 織田さんとは知り合って25年ですが、昔も今も迷ったときは織田さんに相談するというのは変わってないです。主人も織田さんのことを知っているし、お世話になっているけど、複雑な部分はあったと思います(笑)。でも今回のアルバム作りのとき、いつものように織田さんと私がやり合っていると、「きっとこういうことを求めているんじゃないの?」とアドバイスしてくれたりしてあっなんかこれはいい関係だなって。20年という年月はこういう信頼関係を築ける時間でもあるんだなって、改めて思いましたね。

20年は長かった、ひと口には語れない

――そんな20年を振り返ると、長かったですか? それともあっという間でした?
相川 長かったですね。ずっと忙しく活動していたら、あっという間だったかもしれないけど、私は活動していた期間とできない期間の両方があったから、ひと口には語れない。人が生まれて成人するまでの月日ってことを考えると、そこにはいろんなバイオリズムがあるじゃないですか。子育てをしているとそれがよくわかるんだけど、生まれた頃の可愛い時期から、反抗的など負えない時代がきて、18、19歳ぐらいになってちょっと落ち着いてくる……。それはどんな職業にも当てはまる気がしていて、20年目ってやっと成人して、これからようやく一人前になるっていう、“禊ぎ(みそぎ)”の時期なんじゃないかな。

――アーティストとしては成人式を迎えたところで、まだまだこれからだと。
相川 そうです。そう言うと子どもたちには、「えー、40歳のくせに」って言われますど(笑)。私がデビューした20年前は良い時代でした。音楽バブルだったし、同期も素晴らしいアーティストがいっぱいいて。あの年にデビューできて良かったなと思います。

――その頃、特に印象に残っていることってあります?
相川 初めて大阪城ホールはライブをしたときは嬉しかった。中学生や高校生の頃にたくさんのコンサートを観てきた場所だし、まさかそのステージに自分が立てるとは思っていなかったから。そういう意味では私は売れたいとか、日本武道館の舞台に立ちたいとか、具体的な目標を持っていなかったんです。ただ、歌手になりたいって夢を追いかけていただけだったので。

――単純に“歌いたい”という夢を追いかけてきた?
相川 そうなんです。だから、歌手になってどうするの?って言われても、え? どうしよう? みたいな。デビューしてからは周りみんなの期待を裏切りたくない!私がんばる!という感じでやっていたんですよね。大阪城ホールは当日、友だちや学校の先生も来てくれて、そのとき初めて、夢をあきらめなくて良かったと思った。東京に出て行く前は「うまくいくわけない」って言われ続けていたのもあって。それでも押し切ってやってきたけど、求めることが現実になるんだってことをそのときに実感したんですよね。

――当時は20年間、歌い続けると思っていました?
相川 全然。だって20歳が思う40歳って大人すぎてイメージが湧かなかった。でも自分がいざこの年になると、中身はこの程度なのかって思うけど(笑)。色んなことがあった20年間だったけど、ミュージシャンとして私は絶対こうなりたい!というこだわりが良い意味でなかった事が私にとってはプラスだったのかなと思います。今の物を書く仕事や、バラエティに出させてもらっている自分は歌を歌う自分と同じくらい大切にしたい顔のひとつです。

――でも、結果的に相川さんは20年間“ロック”を貫いてきました。それができたのは何でだと思いますか?
相川 結局、色んなサウンドを作っていても、自分が一番燃えるのはロックなんですよね。私は歌謡曲もPOPSも大好きだし、いろいろなジャンルを試したりもしたけど。ライブで歌って燃えるのってやっぱりロックだから、そこが自分のフィールドなんだなと本当に思います。

――では、いま“夢見ている”ことはありますか?
相川 やっぱり20周年まできたら、次は30周年を目指したい。そのなかでどう熟した歌手になっていくのか、これからの10年はまた修行です。自分を高めていくためのトレーニングをさらに始めました。しかも上には(寺田)恵子さんをはじめ、すごい方たちがいますから(笑)。まだまだがんばらないとダメだなって思っています。

(文:若松正子)

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