文章や写真の無断使用を指摘された大手バイラルメディア『BuzzNews』が、2月6日をもって閉鎖した。テレビ、新聞、WEBを問わず、さまざまなメディアでも話題となっているのが、安易な“パクリ”や“盗作”問題だ。しかしこれも、“オマージュ”や“モチーフ”、または“パロディ”などの言葉に変換すると、ずいぶんと聞こえがよくなるのも事実。では、“パクリ”と“オマージュ”の境界線とはどこにあるのだろうか?
■“リスペクト”の有無がパクリとオマージュを大きく分ける
一般に、“オマージュ”とは、尊敬するクリエイターや作品に影響を受けて、似たようなアプローチの作品を作ることを言い、“リスペクト”という言葉も同様の意味で使われる。一方、そうした敬意や尊敬の念を持たず、独自のアイディアや表現を加えない単なる模倣や盗作を“パクリ”と呼ぶようだ。有名なところでは、映画『荒野の七人』は黒澤明監督の『七人の侍』のオマージュと言われるし、マンガの『ドラゴンボール』は『西遊記』のオマージュだ。
しかし、“創作の基本は模倣にある”とはよく言われることだし、シェイクスピアの戯曲の多くは、過去の作品の“おいしい”部分をつなぎ合わせただけとも言われている。日本においても、平安時代から“本歌取り”として、有名な古歌(本歌)の一句もしくは二句を自作に取り入れる表現方法がある。
■模倣の仕方が上手なら“オマージュ”、下手なら“パクリ”!?
マンガやアニメ、ゲーム等のクリエイターで、出版業にも携わるK氏にパクリとオマージュについて話を聞いた。
「典型的な物語の話をしましょうか。荒野にある小さな街に、ひとりの風来坊がやってきます。そこで出会ったのは、薄幸そうな女と、世をすねる若い男。風来坊は若者に“男とはなにか”を説きながら、かつて愛した女を捜す旅を三人で続けていく……」
「それって、『幸福の黄色いハンカチ』ですか?」
「私は『北斗の拳』のつもりで話したのですが(笑)。このように、物語なんてある程度は似たような展開ですし、物語のパターンは数十種類ぐらいしかないとも言われます。要するに、多少のパクリなり模倣はしょうがないとも言えます。極端に言えば、そのパクリ方が上手なら“オマージュ”、下手なら“パクリ”とも言えるのではないでしょうか」
さらには「この作品の元ネタはコレです」と堂々と言えるのが“オマージュ”で、言えないものがパクリ、とも続けるK氏。たとえ同じ題材であっても、違う切り口、違うアングルをクリエイター側が提示できれば、それは“オリジナル”になるのかもしれない。
■オリジナルの商材を育ててこなかったツケが“パクリ”として表面化
一方、そうした“パクリ”作品や“コピペ”作品を次々と世に出し続けているメディア側の責任はどうなるのだろうか?
「ひと言で言えば、“客をなめている”のではないでしょうか。今で言うと、『「進撃の巨人」っぽいのを作ってよ〜』的な、○○っぽいもの、昔流行ったアレ、みたいな仕事の発注ばかりがきています。メディア側が、きちんとコストや時間をかけてオリジナルの商材を育ててこなかったツケが、“パクリ”問題として浮上してきているのかもしれませんね」(K氏)
上記のコメントは、メディア側にいる我々にとっては耳が痛く、改めて襟を正す必要に駆られる。急速に発達したネット社会では、今や「情報=タダ」というのが当たり前になっている。テレビにしろ雑誌にしろ、メディア側が“タダ”の情報を引っ張りあげて“コピペ”し、それがさらにコピペされ、どんどんと劣化していったあげくに間違った情報が流通していく……という悪循環に陥っているのが、現状なのかもしれない。
結局、自分で努力した、いわゆる“自分の足で稼いだ”ネタではなく、安易に“タダ”の情報に依存していることに、“パクリ”と“オマージュ”の問題の原因があるようだ。とは言え、その境界線自体が非常にあいまいであることは否めない。メディアやクリエイター側が発信したものは、最終的には受け手側、ユーザー側の審判を受ける。それは称賛であったり、売り上げとしての利益であったりするわけだが、その過程で、こうした“パクリ”か“オマージュ”かといった問題が浮上すること自体、ある意味では市場が健全に機能していることだとも言えそうだ。
極論すれば、大衆の多数が“おもしろい”と思って受け入れるか、逆に“おもしろくない”と拒絶するかが、“パクリ”と“オマージュ”の境界線なのかもしれない。また、メディアやクリエイター側としても、そうした大衆の審判を受けることを常に胆に銘じながら、発信、創作することが求められているのだ。
(五目舎)
■“リスペクト”の有無がパクリとオマージュを大きく分ける
一般に、“オマージュ”とは、尊敬するクリエイターや作品に影響を受けて、似たようなアプローチの作品を作ることを言い、“リスペクト”という言葉も同様の意味で使われる。一方、そうした敬意や尊敬の念を持たず、独自のアイディアや表現を加えない単なる模倣や盗作を“パクリ”と呼ぶようだ。有名なところでは、映画『荒野の七人』は黒澤明監督の『七人の侍』のオマージュと言われるし、マンガの『ドラゴンボール』は『西遊記』のオマージュだ。
しかし、“創作の基本は模倣にある”とはよく言われることだし、シェイクスピアの戯曲の多くは、過去の作品の“おいしい”部分をつなぎ合わせただけとも言われている。日本においても、平安時代から“本歌取り”として、有名な古歌(本歌)の一句もしくは二句を自作に取り入れる表現方法がある。
■模倣の仕方が上手なら“オマージュ”、下手なら“パクリ”!?
マンガやアニメ、ゲーム等のクリエイターで、出版業にも携わるK氏にパクリとオマージュについて話を聞いた。
「典型的な物語の話をしましょうか。荒野にある小さな街に、ひとりの風来坊がやってきます。そこで出会ったのは、薄幸そうな女と、世をすねる若い男。風来坊は若者に“男とはなにか”を説きながら、かつて愛した女を捜す旅を三人で続けていく……」
「それって、『幸福の黄色いハンカチ』ですか?」
「私は『北斗の拳』のつもりで話したのですが(笑)。このように、物語なんてある程度は似たような展開ですし、物語のパターンは数十種類ぐらいしかないとも言われます。要するに、多少のパクリなり模倣はしょうがないとも言えます。極端に言えば、そのパクリ方が上手なら“オマージュ”、下手なら“パクリ”とも言えるのではないでしょうか」
さらには「この作品の元ネタはコレです」と堂々と言えるのが“オマージュ”で、言えないものがパクリ、とも続けるK氏。たとえ同じ題材であっても、違う切り口、違うアングルをクリエイター側が提示できれば、それは“オリジナル”になるのかもしれない。
■オリジナルの商材を育ててこなかったツケが“パクリ”として表面化
一方、そうした“パクリ”作品や“コピペ”作品を次々と世に出し続けているメディア側の責任はどうなるのだろうか?
「ひと言で言えば、“客をなめている”のではないでしょうか。今で言うと、『「進撃の巨人」っぽいのを作ってよ〜』的な、○○っぽいもの、昔流行ったアレ、みたいな仕事の発注ばかりがきています。メディア側が、きちんとコストや時間をかけてオリジナルの商材を育ててこなかったツケが、“パクリ”問題として浮上してきているのかもしれませんね」(K氏)
上記のコメントは、メディア側にいる我々にとっては耳が痛く、改めて襟を正す必要に駆られる。急速に発達したネット社会では、今や「情報=タダ」というのが当たり前になっている。テレビにしろ雑誌にしろ、メディア側が“タダ”の情報を引っ張りあげて“コピペ”し、それがさらにコピペされ、どんどんと劣化していったあげくに間違った情報が流通していく……という悪循環に陥っているのが、現状なのかもしれない。
結局、自分で努力した、いわゆる“自分の足で稼いだ”ネタではなく、安易に“タダ”の情報に依存していることに、“パクリ”と“オマージュ”の問題の原因があるようだ。とは言え、その境界線自体が非常にあいまいであることは否めない。メディアやクリエイター側が発信したものは、最終的には受け手側、ユーザー側の審判を受ける。それは称賛であったり、売り上げとしての利益であったりするわけだが、その過程で、こうした“パクリ”か“オマージュ”かといった問題が浮上すること自体、ある意味では市場が健全に機能していることだとも言えそうだ。
極論すれば、大衆の多数が“おもしろい”と思って受け入れるか、逆に“おもしろくない”と拒絶するかが、“パクリ”と“オマージュ”の境界線なのかもしれない。また、メディアやクリエイター側としても、そうした大衆の審判を受けることを常に胆に銘じながら、発信、創作することが求められているのだ。
(五目舎)
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2015/02/28