現在公開中の映画『風立ちぬ』をもって長編映画からの引退を発表した宮崎駿監督(72)が6日、都内で会見を開き、自らの口で引退を報告した。同席したスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと共に、約1時間40分にわたり、引退決意までの経緯や今後についての思いを明かした。以下は、会見での主な一問一答。
(冒頭、宮崎監督があいさつ)
宮崎「何度も辞めようと言って騒ぎを起こしてきました人間ですが、今回は本気です」。
――今までの“引退”発言と違うことは?
宮崎「『風立ちぬ』は前作の『ポニョ』から5年かかってるんですよ。次の作品を考え始めると、この歳だと5年じゃ済まないでしょう。あと3ヶ月もすれば73歳ですから、7年かかると80歳。あと10年は仕事は続けますが、今までの延長上にはないと思います。私の長編アニメーションの時代は終わったんだ。作りたいと思っても、年寄りの迷いだと思っています」。
――引退を決めたタイミングは?
宮崎「鈴木さんに『もうだめだ』と言ったら、『そうですか』と言われたことがある。ジブリを立ち上げたとき、こんなに長く続けるつもりがなかったのは確かで、何度も辞めようとか思ってましたので…。今回は本当に、次は7年かかるかもしれないということにリアリティーを感じたんだと思います」。
鈴木「『風立ちぬ』の試写があった6月に、宮崎さんからそういうことがあった。確かにこれまでも“これが最後”といろいろあったが、今回は本気だと感じた。僕も『風の谷のナウシカ』から30年間、緊張の糸があったのが少し揺れて、ご苦労様ですという気持ちが湧いた」。
――宮崎監督の引き際について美学があったのか。
鈴木「宮さんの性格として、ずっと作り続けると思っていた。死んでしまう間際まで。その予感の一方で、別のことをやろうというときに自分で決めてみんなに宣言する人。もしかしたら、これを最後に宣言して取りかかる、どっちかだと思っていた。引退の話が出たときは、予想していたので素直に受け止められました」。
宮崎「映画作るのに死に物狂いで、それ(引き際)どころではなかった。これは映画になるのか、値するのかのほうが自分にとって重圧でした」。
――思い出のある作品は?
宮崎「トゲのように残っているのは『ハウルの動く城』。ゲームの世界なんです。それをドラマにしようとして格闘しました。僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったので、基本的に子どもたちにこの世は生きるに値するということを伝えることを根幹にしなければいけないと思っている。それは今も変わっていません」。
――ジブリの今後は?
宮崎「やっと上の重しが無くなるから、こういうことをやらせろという声が若いスタッフから鈴木さんに届くことを願っている。意欲や希望にかかっていると思う」。
――今後やりたいことは?
宮崎「前からやりたかったことをやろうかと。アニメーションではありません。やりたいことがあるけれど、やれなかったらみっともないので言いません(笑)。僕は…文化人になりたくないんです。町工場のオヤジですので、それを貫きたい」。
――商業的成功と芸術的な評価が両立したことについて。
鈴木「言い訳かもしれないけれど、目の前の仕事ができなくなるので、そういうことを考えないようにしている。『ナウシカ』から30年間走り続けてきて、同時に過去の作品は振り返らなかった。それが現役を続けることだと思っていた。なおかつ、作品がどういう影響を与えたのか考えないようにしてきました」。
宮崎「僕も全く考えていませんでした」。
――今まででつらかったこと、よかったこと。
宮崎「どの作品もスケジュールがつらくて、終わりまでわかっている作品は作ったことがない。監督になって良かったことは一度もないけれど、アニメーターとしては「よく描けた」とかそういうことで、2、3日は幸せになれるんです。監督は最後に判決を待つから胃に良くない。アニメーターを最後までやっていたつもりですが、自分に合っているいい職業だと思ってます」。
――高畑勲監督について。
宮崎「きょう、実は一緒に出ないかと誘ったんですが、冗談じゃないという顔で断られた。彼はずっとやる気だなと思ってます(笑)」。
――ジブリの小冊子『熱風』で憲法9条改正反対について発言した真意は?
宮崎「思っていることを率直に話たので、別に訂正する気もありません。理由としては、鈴木さんが中日新聞で憲法について語ったら脅迫が届いて、電車に乗るとやばいかもしれないとなった。知らん顔しているわけにいかないから、高畑監督も発言して3人いると的が絞れないだろうと思った(笑)」。
――引退について、奥様はどんな言葉を?
宮崎「家内には「引退の話をした」と言いました。(今後も)お弁当はよろしくと言ったら、「ふん」と言われました」。
――『風立ちぬ』製作で大変だったこと。
宮崎「最初に作った『ルパン三世 カリオストロの城』は4ヶ月半で作ったけれど、『風立ちぬ』では机に座るのが7時間が限度だったと思う。その結果、仕事にケリをつけるのは諦めたけれど、それでも限界ギリギリでこれ以上続けるのは無理だと。この後どう生きるかは、まさに今の日本の問題。この前訪ねてきた青年が「『風立ちぬ』の映画の最後で二人が向かった先に何が待っているのか考えると恐ろしくなった」とびっくりするような感想を伝えてくれた。それはこの映画を、きょうの映画として受け止めてくれたということだと思う」。
――最後に一言。
宮崎「長い間お世話になりました。もう二度とこういうことはないと思います」。
⇒⇒ ジブリ美術館のチケット発売情報
(冒頭、宮崎監督があいさつ)
宮崎「何度も辞めようと言って騒ぎを起こしてきました人間ですが、今回は本気です」。
――今までの“引退”発言と違うことは?
宮崎「『風立ちぬ』は前作の『ポニョ』から5年かかってるんですよ。次の作品を考え始めると、この歳だと5年じゃ済まないでしょう。あと3ヶ月もすれば73歳ですから、7年かかると80歳。あと10年は仕事は続けますが、今までの延長上にはないと思います。私の長編アニメーションの時代は終わったんだ。作りたいと思っても、年寄りの迷いだと思っています」。
――引退を決めたタイミングは?
宮崎「鈴木さんに『もうだめだ』と言ったら、『そうですか』と言われたことがある。ジブリを立ち上げたとき、こんなに長く続けるつもりがなかったのは確かで、何度も辞めようとか思ってましたので…。今回は本当に、次は7年かかるかもしれないということにリアリティーを感じたんだと思います」。
鈴木「『風立ちぬ』の試写があった6月に、宮崎さんからそういうことがあった。確かにこれまでも“これが最後”といろいろあったが、今回は本気だと感じた。僕も『風の谷のナウシカ』から30年間、緊張の糸があったのが少し揺れて、ご苦労様ですという気持ちが湧いた」。
――宮崎監督の引き際について美学があったのか。
鈴木「宮さんの性格として、ずっと作り続けると思っていた。死んでしまう間際まで。その予感の一方で、別のことをやろうというときに自分で決めてみんなに宣言する人。もしかしたら、これを最後に宣言して取りかかる、どっちかだと思っていた。引退の話が出たときは、予想していたので素直に受け止められました」。
宮崎「映画作るのに死に物狂いで、それ(引き際)どころではなかった。これは映画になるのか、値するのかのほうが自分にとって重圧でした」。
――思い出のある作品は?
宮崎「トゲのように残っているのは『ハウルの動く城』。ゲームの世界なんです。それをドラマにしようとして格闘しました。僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったので、基本的に子どもたちにこの世は生きるに値するということを伝えることを根幹にしなければいけないと思っている。それは今も変わっていません」。
――ジブリの今後は?
宮崎「やっと上の重しが無くなるから、こういうことをやらせろという声が若いスタッフから鈴木さんに届くことを願っている。意欲や希望にかかっていると思う」。
――今後やりたいことは?
宮崎「前からやりたかったことをやろうかと。アニメーションではありません。やりたいことがあるけれど、やれなかったらみっともないので言いません(笑)。僕は…文化人になりたくないんです。町工場のオヤジですので、それを貫きたい」。
――商業的成功と芸術的な評価が両立したことについて。
鈴木「言い訳かもしれないけれど、目の前の仕事ができなくなるので、そういうことを考えないようにしている。『ナウシカ』から30年間走り続けてきて、同時に過去の作品は振り返らなかった。それが現役を続けることだと思っていた。なおかつ、作品がどういう影響を与えたのか考えないようにしてきました」。
宮崎「僕も全く考えていませんでした」。
――今まででつらかったこと、よかったこと。
宮崎「どの作品もスケジュールがつらくて、終わりまでわかっている作品は作ったことがない。監督になって良かったことは一度もないけれど、アニメーターとしては「よく描けた」とかそういうことで、2、3日は幸せになれるんです。監督は最後に判決を待つから胃に良くない。アニメーターを最後までやっていたつもりですが、自分に合っているいい職業だと思ってます」。
――高畑勲監督について。
宮崎「きょう、実は一緒に出ないかと誘ったんですが、冗談じゃないという顔で断られた。彼はずっとやる気だなと思ってます(笑)」。
――ジブリの小冊子『熱風』で憲法9条改正反対について発言した真意は?
宮崎「思っていることを率直に話たので、別に訂正する気もありません。理由としては、鈴木さんが中日新聞で憲法について語ったら脅迫が届いて、電車に乗るとやばいかもしれないとなった。知らん顔しているわけにいかないから、高畑監督も発言して3人いると的が絞れないだろうと思った(笑)」。
――引退について、奥様はどんな言葉を?
宮崎「家内には「引退の話をした」と言いました。(今後も)お弁当はよろしくと言ったら、「ふん」と言われました」。
――『風立ちぬ』製作で大変だったこと。
宮崎「最初に作った『ルパン三世 カリオストロの城』は4ヶ月半で作ったけれど、『風立ちぬ』では机に座るのが7時間が限度だったと思う。その結果、仕事にケリをつけるのは諦めたけれど、それでも限界ギリギリでこれ以上続けるのは無理だと。この後どう生きるかは、まさに今の日本の問題。この前訪ねてきた青年が「『風立ちぬ』の映画の最後で二人が向かった先に何が待っているのか考えると恐ろしくなった」とびっくりするような感想を伝えてくれた。それはこの映画を、きょうの映画として受け止めてくれたということだと思う」。
――最後に一言。
宮崎「長い間お世話になりました。もう二度とこういうことはないと思います」。
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2013/09/06