影山ヒロノブと井上俊次、これからアニソンが進むべき次のステップとは?
アニソンシンガーで良かったとつくづく思う
影山 ありがとうございます。一昨年前かな、井上君と下北あたりで飲んでいるときに、2年後には40周年だけど何かやりたいことないの? という話になり、デヴィッド・フォスターと一緒に作れたら最高だよな、と話したんです。どうせ無理だろう思っていたら、数日後に井上君が「今ならできるかもって言ってるから急いで曲書いてよ!」って(笑)。
井上 ロサンゼルスの知り合いを通じてオファーしたんです。ただ、レーベルの問題などもあり、アレンジと歌のディレクションをしてもらい、レコーディングも一緒にやることになりました。最初に影山君にデヴィッドにオファーした時の気持ちをメールで送ってもらったんだよね。
影山 そう。レイジーを解散したとき、高崎君たちはラウドネスを結成し、ヘビーメタルへ行ったわけだけど、俺たちはこれからどういうロックをやっていきたいのか考えたときに、あなたが作ったAORというムーブメントや音楽の形が、唯一の希望の光だったんです、と。
――憧れていたデヴィッド・フォスターに詩・曲を渡すというのも相当なプレッシャーだと思います。
影山 とにかく時間がなく、歌とアコギだけのデモを送りました。ですが、10日間くらい何の返事もない…。
井上 まだ、誰にも言ってないから、これでアカンかったら、なかったことにしよう、とか話したね(笑)。
影山 そしたら8割くらいアレンジができていて、デヴィッド自身が仮歌を歌っているデモが届いた。
井上 その後はビデオ撮影したピアノやベース、ドラムの録音映像が次々と届いて。こちらからも要望を伝えながら作業を進めていきました。
影山 歌入れは本当にやりやすい雰囲気で、短い時間でしたが新人の頃のような制作でしたね。2人がレイジー解散後にそれぞれ歩み始めた、その原点がデヴィッドであり、AORだった。40年後にこうして作品にできたことは本当に嬉しいですね。
――お聞きしていると「Beginning」は2人の絆の証でもあると感じます。
影山 井上君は正真正銘のデヴィッドのマニアで、若い頃に撮影した2ショット写真をいつも持ち歩いているくらい。その井上君と2人で一緒にアニソンに携わってきて、40周年を迎え、この曲を作ることができた。自分自身、アニソンシンガーで良かったとつくづく思っています。
真の意味でスーパースターが生まれる環境を作りたかった
井上 まさにアニソンに救われた2人だよね。それともう1つ。先日、かまやつひろしさんのお別れ会に行った時に、かまやつさんがいなかったらどうなっていたのかなと思った。16歳の時、かまやつさんにスカウトしていただいたから、東京に出てくることができ、バンド活動ができたわけで。そうじゃなかったら、大阪のアメリカ村で“ロックスナック”でもやっていたんじゃないかな(笑)。
影山 僕は実家を継いで床屋か美容師(笑)。
井上 ともかくレイジーでの活動を終了し、くすぶっていた頃、影山君が『電撃戦隊チェンジマン』の主題歌を歌い、『ドラゴンボール』などの人気作を次々歌うようになった。それで影山君がアニメの世界に来いよって誘ってくれた。当初はコミックや児童文学に曲をつけるようなことからのスタートでしが、本当にここが第2の音楽人生に思えて、影山君もそうだったと思うけど、空白の10年を取り戻す勢いで頑張りましたね。
影山 僕は、井上君と離れ離れだった間は、コロムビアでアニソンシンガーとしてキャリアを重ねていたのですが、自分たちで総合的に音楽を作り上げていくスタイルのアニソンをやりたいと考えるようになり、その時に井上君と一緒に始めることになった。JAM Projectとランティスがあって、そこに自分がいることで、僕にとってもアニソンシンガーとして次のステップに上がることができた。それは、井上君が環境を整えてくれたからだと思う。
井上 当時、影山君に言ったのは、タイアップは取れないんで、僕らは自分で曲も詩も作って、影山ヒロノブのオリジナルアルバムを作る感覚で行こうということでした。それでJAM Projectが生まれて、次第にTVアニメにも参加させていただけるようになっていった。
影山 そうしているうちにアニソンシーンに変化が生まれてきた。それまでのアニソンシンガーは、歌は流れるけど、世間の人からしたら声は知っているけど、顔は知らない存在。それはそれで良かったけど、そこから先に進むことを望んだとき、J-POPとかロックの世界が、個性が個性として進化して、業界全体を大きくしていったように、アニソンの世界もそうなる必要があった。JAM Projectの活動を通じて、それを実行できた。その結果、今は、アニソンのジャンルも本当に多彩。アーティストがそれぞれの個性を発揮できる環境になったのは素直に嬉しいね。
井上 そもそもJAMとは「ジャパン・アニメーションソング・メーカーズ」だからね。監督やシナリオライターと同じテンションで作品を作っていくことが一番大事だと考えた。アニソンシンガーって曲はヒットしても、ソロコンサートの集客には繋がっていなかったから。歌唱印税だけではやっていけないし、真の意味でスーパースターが生まれる環境ではなかった。だから自分たちで曲も詩も書くように導き、コンサートも集客できるようにしたいと考えて、ランティスのアーティストはライブも積極的にやるようにしたんだよね。
影山 実際、ライブのお客様も様変わりしたよね。
井上 「アニソンのライブに行こうよ」って友達を誘えるジャンルになったんだと思う。
影山 ステージから見える景色もこの20年で変わった。20年前にスーパーロボット大戦のコンサート「ロボネーション」というライブを開催したときに、初めてオールスタンディングでやったんだけど、そこから今に続く、アニソンコンサートのスタイルが始まったと思う。
井上 その次にアニサマがスタートし、何万というファンが一緒に盛り上がれたことで、アーティスト側もファンの側もある種、自信が持てたんだと思う。僕らだけでなく、ファンの方々も、僕らが応援してきたことは間違ってなかったって。
影山 今はお客さん自身もコンサート演出の1つになっているという誇りがあるんだと思う。何が一番感動するかって、客席のノリですよね。その様子を見ていると涙が出そうになる。そういう良い関係がアニソンのライブにはあるんだと思う。
――国内の状況が変化するとともに海外へも広がっていきました。
井上 08年くらいからJAM Projectは海外公演を開始したけど、影山君はソロで、もっと前から行っていたよね。その頃、海外って凄いよって言ってくれてはいたんだけど、僕はまだ半信半疑だった。
影山 日本の人は海外での盛り上がりを知るのが少し遅かった。僕が初めてチリへコンサートをやりに行った時は、後輩と2人だけだったけど、会場の体育館には3000人くらい埋まっていた。その時、駐在している日本大使館の大使も来てくれて、「海外で文化交流を行い、古典芸能などに来てもらっていたけど、若い人は特に振り向いてくれなかった。それが君たちは自力でここまで来て、こんなにも現地の若い人たちを楽しませてくれた。こっちのほうがよほど文化交流だ」と、喜んでくれたのを今でもよく覚えています。
――では今後の課題は?
井上 海外に関して言えば、今はライブだけで終わってしまっている点は残念に思いますね。国内で「ANiUTa」というアニソンの定額制の聴き放題サービスが始まり、海外の人たちにも正式に音楽を聴いてもらえる環境はを作ろうと努力しています。今後はCDも含むグッズも買っていただける環境を作っていきたい。アルバムを聴いて、もっとファンになってもらい、日本に行ってみたい! なったら最高だと思います。
――レイジーとしても40周年です。ライブやリリースの計画は?
影山 12月のライブと新曲の制作は決まって、高崎君はライブのタイトルから曲目まで考えて、どんどんアイデアを送ってくれる。数年前からチャリティーコンサートではやっているけど、今回はコンセプトからしっかり考えて作りたいね。
井上 曲もどういうことを歌うべき時期に来たのかっていうことも含めて話し合って、何曲か作りたい。もうメンバー2人が亡くなってしまったから、彼らの分も頑張らなきゃっていう思いはとてもありますね。
(写真:鈴木かずなり)
LAZY 40th Anniversary Special Live Slow and Steady supported by Rock Beats Cance
【問】ソーゴー大阪 06-6344-3326(平日11:00〜19:00)
12月27日(水)東京・EX THEATER ROPPONGI 開演 18:00/会場 19:00
【問】クリエイティブマン 03-3499-6669 (平日12:00〜18:00)
プロフィール
77年にロックバンド「レイジー」のボーカル“ミッシェル”としてデビュー。85年日本コロムビアに移籍後にアニメ・特撮ソングに出会い、『電撃戦隊チェンジマン』『宇宙船サジタリウス』と後世に残る名番組の主題歌を担当した。その後も数々のアニメソングを歌い、その中でもフジテレビ系アニメ『ドラゴンボールZ』主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」やテレビ朝日系アニメ『聖闘士星矢』主題歌「ソルジャードリーム〜聖闘士神話」で、日本のアニソン界を代表する地位を確立した。現在では作詞、作曲、編曲、プロデュースをこなす「アニソンアーティスト」として数々のプロジェクトに参加。2000年にJAM Projectを結成。また、海外での人気も高く現在までに訪問した国は、アジア、北中南米、ヨーロッパ併せて12ヶ国に上る。08年にはJAM Projectを率いて日本のアーティストとしては数少ない「ワールドツアー」(世界8ヶ国10都市)を敢行した。
影山ヒロノブ オフィシャルサイト(外部サイト)
井上俊次
ランティス代表取締役社長/バンダイナムコライブクリエイティブ取締役会長
大阪府生まれ。ロックバンド「レイジー」のキーボーディスト“ポッキー”としてデビュー。81年の「レイジー」解散後、「BIG BANG」を結成。その後は田中宏幸とともにバンド「ネバーランド」を結成。その後、音楽プロデューサーを経て、99年にランティスを設立、代表取締役社長に就任。06年、バンダイナムコグループとなる。10年、新たに設立されたライブ制作会社、バンダイナムコライブクリエイティブの代表取締役を兼務。16年、マネジメントプロダクション、ハイウェイスターの代表取締役を兼務。日本音楽制作者連盟 理事、日本音楽出版社協会 理事、日本2.5次元ミュージカル協会 理事。
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