「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は「人間は死んだらどうなるか」についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』は、「この本に、はまってしまった。私たちは『死』を避けることができない。この本を読んで『死後の世界』を学んでおけば、いざというときに相当落ち着けるだろう」(西成活裕氏・東京大学教授)と評されている。今回は、著者による特別講義をお届けする。
3つの一神教は同じ
宗教をよく、一神教/多神教、に分けます。問題のあるわけ方ですが、入り口としてわかりやすいので、まず一神教から説明しましょう。
一神教は古いほうから順に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、の三つがあります。世界人口の半分以上が一神教圏なので、これをまず理解しましょう。
[宗教人口]
ユダヤ教徒:数千万人
キリスト教徒:25億人
イスラム教徒:15億人
ユダヤ教とキリスト教は、仲が悪い。キリスト教とイスラム教は仲が悪い。でもその理由を誤解しないように。
三つの一神教は、実はほとんど同じです。そもそも三つとも、同じ神を信じている。ユダヤ教のヤハウェと、キリスト教の父なる神(God)と、イスラム教のアッラーは、同一の神なのです。クルアーンで、アッラー自身がそうのべている。
これほど確かなことはない。それに加えて、この三つの宗教(とりわけ、キリスト教とイスラム教)は、以下に示すように、考え方の骨格がほぼ同じ。ひとつの宗教だと考えてもいいほどです。
[宗教の骨格]
・神が天地を「創造」した。
・創造した世界は、やがて「終末」が来て壊れてしまう。
・そのときに、死んだ人間はもう一度肉体を与えられて「復活」する。
・そして、神による「最後の審判」を受ける。
・赦された人間は、救われて、神の王国(キリスト教)や緑園(イスラム教)に行く。救われなければ、永遠の炎で焼かれる。
キリスト教とイスラム教で違うのは、イエス・キリストがいるかどうか。ユダヤ教やイスラム教に、キリストは存在しません。ここが違うだけなのですが、宗教の性質がまったく違ってきます。
イエス・キリストがいるとどうなるか
イスラム教は、神アッラーに従います。アッラーに従うには、最後で最大の預言者ムハンマドに従います。ムハンマドの預言はクルアーンとして伝わっているので、それを重視します。
クルアーンにもとづくイスラム法に従うことが、イスラム教徒の義務です。
同じような考え方で、ユダヤ教では、モーセの律法(ユダヤ法)に従わなければなりません。
ではイエス・キリストがいるとどうなるか。
イエス・キリスト以前に、モーセなど預言者がたくさんいました。でも、イエスはキリストで、神の子で、まあ神本人のようなものです。そのイエスが、モーセの律法に従わなくてもよい、と命じた。
割礼や食物規制、犠牲の献げ方など、いちいちうるさいユダヤ法に従わなくてよくなったのです。そのかわりに、イエス・キリストの教えを記した新約聖書に従うことになりました。
こうしてキリスト教では、宗教法がなくなってしまった。何を食べてもいいし、何を着てもいいし、どう行動してもいい。ただし、イエス・キリストの教えに従いなさい。これが、キリスト教です。
イエス・キリストの教えは理解がむずかしいので、ときどき教会全体で会議を開いて、どう考えるかを決定します。「三位一体説」(父と子と聖霊が、実はひとつであるという考え方)もそうして決まりました。決まったことに従わないと、異端で、いじめられるのがキリスト教です。イエス・キリストがいるので、こういうことになる。
人間は罪があるけれど赦される
なぜイエス・キリストが現れたか。それは人間に、生まれながらの罪があるからです。キリスト教は、人間は本来、神に背く性質があると考えます。原罪です。
罪の度合いを、ユダヤ教やイスラム教より一段深く考えるのですね。そうすると、救われるのはとってもむずかしい。
それでは困るので、神は、愛のしるしとしてイエス・キリストをこの世に送った。イエス・キリストが身代わりになって、人間の罪を背負って死んでしまった。だから人間は罪があるままで赦される、と考えます。
このアクロバットのようなロジックが、キリスト教のキモです。このロジックが成り立たないと、イエス・キリストを信じることができません。
イエス・キリストは人間なのでしょうか、それとも神なのでしょうか?
イエス・キリストは、マリアから生まれるときに、肉体を受けて人間になった、と考えることになっています。人間になる前は、神だった。人間になっても、神のままである。つまり、その正体は神なので、イエス・キリストを拝んでもよいのです。
※本原稿は、2022年11月に大学院大学至善館で行なった講演(https://shizenkan.ac.jp/event/religions_oc2023/)をもとに、再編集したものです。