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ふかわりょう、“テレビ”にも“スマホ”にも執着をやめて見えた景色「思いを巡らせる時間も“果実”」

  • 写真/尾鷲陽介

    写真/尾鷲陽介

 2017年に寄稿した東京新聞「風向計」のコラム<いいねなんて、いらない>が現在でもSNSで度々、反響が寄せられているふかわりょう。そんな彼が岐阜県美濃へ“3泊4日のスマホなし旅”に出かけたという。実際、スマートフォンなしの旅で彼は何を得たのか。またアナログ時代とデジタル時代の芸能の世界の違い、今のコンプライアンス時代の笑いとは。コメンテーターやMC、ROCKETMANとしての音楽活動など、多角的な活動をし、来年30周年を迎えるふかわの脳の中身を覗いてみた。

「自分自身が“アプリ”になってしまうんじゃないか」スマホの利便性・心地よさがかえって不安に

──今回刊行した『スマホを置いて旅したら』(大和書房刊)は言葉通り、スマホを自宅に置いて岐阜県美濃周辺を1人旅の様子を徒然なるままに綴っておられます。何故このような試みをしようと思ったのでしょうか。

ふかわりょう以前、アイスランドへ旅行した際、携帯電話がつながらなかったのです。最初は不安だったのですが、徐々に気持ちも体も軽くなる感覚があって。文明やテクノロジーは素晴らしいものだと思うんですが、それから僕は、スマホというツールを上手に使えていないような気がして。スマホがあると情報スピードが速いじゃないですか。新幹線の車窓と各駅停車の車窓から見える風景が違うように、持っているのといないとでは、入ってくる情報のスピードも違う。スマホの窓ばかり覗いていると、究極的には自分自身がスマホの中にいて、“アプリ”になってしまうんじゃないかという感覚がすごく強くなってしまったんです。

――独特な表現ですね。

ふかわりょう何か疑問に思っても、スマホがあればすぐに答えにアクセスできる。そこから得られる“果実”もありますが、なかなか答えにアクセスできなくて思いを巡らせる時間も“果実”だと思うんです。ノスタルジーに浸りたいのではありません。僕はそういったものの中に、これからの豊かさが潜んでいる気がしたので、むしろ未来を意識して旅をしてみました。

──それは、スマホの普及による、コスパ、タイパを求めすぎる社会への懸念?

ふかわりょういえ。例えば映画を倍速で観たいだとか、そういう人達がいてもいいんです。皆、それぞれの価値観で生きているので、いろいろな“果実”があってもいいわけで。あらゆる価値観が共存している社会が健全だと思っているんです。そういう意味でも、多様化と言っている割には、スマホを持ってない人がいると驚かれる。スマホを持たない人でも驚かれない社会になるのが、これからの課題ではないでしょうか。

――確かに。“多様性”というのはそういうことですよね。

ふかわりょうそれに加えて、スマホを介して得たものだけで自分の世界を構築したくない、そんな想いもあって今回の旅をしました。

――スマホを介して得たものだけで自分の世界を構築したくない、とは?

ふかわりょうたとえば、お店に入る前にグルメサイトを検索するようになってしまいました。どのレストランが美味しいかなど、他人の評価が高いからここにしようとか、いつの間にか、自分で判断することを放棄するようになりました。僕は、誰かのレンズや価値観で世界を構築するのではなく、自分の感覚で実感したい。また、そういったことに慣れ、社会全体が “失敗”を恐れている。かつての、レコードやCDのジャケ買いのような、“失敗ありきで失敗を楽しむ”を避けていくと、いつしか他者に対しても失敗を許容できない世の中になってしまう。今回の旅では、グルメサイトでは味わえない、人や店の出会いがありました。地元の人じゃないと知らないような不思議な場所へと連れて行ってもらえたり。そこには、スマホでは見られない景色がありました。

 人生の豊かさって、多分色々な豊かさがたくさんあることにつながると思うので、答えや目的地にすぐアクセスすることで失っている、あるいは省かれてしまっているもの、それを大事にしたいなと感じています。

コンプライアンスが叫ばれるお笑いの現状「昔ほどの社会との隔たりはなくなってきた」

――なるほど。ところで、時代の変化といったところでいうと、ここ昨今のテレビはしきりにコンプライアンスが叫ばれるようになり、それに対して様々な意見が聞かれます。ふかわさんにとっては、そのコンプライアンスも楽しめるのでしょうか。

ふかわりょうコンプライアンスや規制ってネガティブにも言われますが、逆に規制があるからこそ、豊かになるものもある。自由が増幅されることもあると思います。例えば和歌や俳句なんかはその最たる例ですね。それにむしろ、テレビで観たくないものが、ゆっくりと消滅していっている気がします。

――どういうことでしょう。

ふかわりょう例えば昔のバラエティだと、女の子がいる場所に爬虫類をバラまいて、「きゃー!」と大騒ぎするのを楽しむお笑いもあったと思うんです。でも僕としては、“いや、怖がっているのは寧ろ爬虫類の方じゃないの?”と胸が痛くて笑えなくなってしまう。でも、ようやく爬虫類の気持ちがわかる社会になってきたのかなって。かつてはそんなことを言うと、僕がおかしな人みたいに映りました。そういう意味で、昔ほどの社会との隔たりはなくなってきたかなと思います。

――昨今は芸能人の方々も多くYouTubeに参戦する時代になっていますが、それについてはどう思いますか。

ふかわりょう僕のデビュー当時、YouTubeとかSNSがない時代で良かったと思います。テレビ一択だったので、テレビに出るまでの届かない時間に、“根を張る”という経験を積めるじゃないですか。僕の場合、長い下積みなくデビューできましたが、やはり自分がテレビで満足のいくパフォーマンスができなかったら、YouTubeで自分がやりたいことを満たしていた可能性があるんですよね。つまり“根を張らない”。根を張る時間こそが揺るぎない樹木に成長させるので、デビュー時に関して言えば、YouTubeがなくて良かったと思います。

――一方で芸能活動から離れたいと思ったことはありますか?

ふかわりょうそういう感覚はないんですが、20歳で初めてテレビに出られるようになって、30歳になり、ネタとバラエティでの立ち回りのギャップで苦戦していた時、一度テレビにしがみつくのは辞めました。テレビが大好きで、テレビに出たいと力んだ感じを一回抜いて、タモリさんや笑福亭鶴瓶さんのように、鋭い刃物ではなく、テレビの出汁として味わえるような存在になりたいなと。浮力でテレビの海を漂流するような……。そうしたターニングポイントはありました。

「言語化は僕にとって“筋トレ”」言葉を磨くことで得られたこと

――今作もそうですが、ふかわさんは多くの書籍を出版されています。ご自身の考えを言語化することによって、新たな発見をするといったこともあるのでしょうか。

ふかわりょう言語化について、僕は“筋トレ”のような位置づけをしています。20歳の頃からメールマガジンなどで文章を綴ってきたのですが、テレビでの勝負所でその筋力が瞬発力を伴って生かされる場面に度々遭遇しました。言葉というのはそもそもファッションのようなもので、どういった言葉を身に纏うかということも大事な気がします。

――素敵な言葉ですね。

ふかわりょうこの靴は履きたくない、あのシャツは着たくないといったことと同じで、この言葉は使いたくない、この素材の言葉は使っていきたいというような。言葉に対するこだわりは歳を重ねるうちに強くなってきているように思います。どの言葉を使おうかなっていうのは、「明日どのハンドバッグにしようかな」というワクワク感と似ていますね。

――最後に、読者へメッセージをお願いします。

ふかわりょうスマホで埋められていた隙間から、どんな景色が見えるのだろう。そんなワクワクと一緒に旅をしました。人生に疲れたら、スマホを置いてみてください。

(取材・文/衣輪晋一)

『スマホを置いて旅したら』(大和書房刊)

  • 『スマホを置いて旅したら』(大和書房刊)

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