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77歳にして再ブレイク・こまどり姉妹インタビュー「シワがよるのも長生きさせてもらったご褒美」
姉・栄子の夢は洋服屋さん セーラー服に憧れていたデビュー前
敏子 そうだったらうれしいわね。ああいう若向きの番組にね、なんでお呼びがかかるのかなって不思議に思ってるんだけども。
栄子 面白い、面白いって言ってくださるわけ。そうやって喜んでくれるなら、ああ良かったなぁ、と思って私たちも出て行くんだけどね。まあ、これだけ長いこと生きていれば面白エピソードはいくらでもあるわよね。
敏子 楽しいですよ、若い人たちと一緒に出させてもらうのは。だけど名前がわからなくてね。素敵な人たちばっかりなんだけど、横文字が多くてなかなか覚えられないの。
──先日出演された『有吉反省会』では最近のカルチャーを知ろうということで、三戸なつめさん風のメイク&コーデで原宿に繰り出していました。こまどり姉妹=お着物が定番衣装ですが、最近のファッションはいかがでしたか?
敏子 なつめちゃんのことは知らなかったんだけど、写真見たら可愛い子じゃないの。お姉さんもね、今から40、50年前に原宿に住んでたの。昔から本当にお洋服のセンスがよくて、もともとはファッションの仕事をする予定だったのよ。
栄子 そうなの。お洋服が大好きだったから、お店をやりたいなぁと思ってね。
敏子 デビュー前のことだけど、セーラー服にそっくりな服をお洋服屋さんで仕立ててもらって2人で着てたこともあったわね。
栄子 そうね。私たち11歳で流しを始めたんだけど、夕方5時には三味線を抱えて出かけるわけでしょう。それで夜中の3時4時まで仕事するから、学校に行けないわけ。だから本を読んだり塾に行ったりして勉強してたんだけど、一番憧れたのはセーラー服ね。
敏子 そればっかりは学校に行かないと着られなかったから、お洋服屋さんに頼んでそっくりな服を作ってもらったのよね。
栄子 だけどセーラー服の襟に線を入れるのだけは、ちょっと心が痛んでね。本物の学校の制服じゃないわけだから。だからどこの学校のでもないセーラー服を着て、昼間は遊んでたのよ。
──今でいうところの“なんちゃって制服”ですね。
栄子 それでね、60年くらい前のクリスマスだったかしら。義理の姉と3人で、銀座の喫茶店に行ったのよ。そうしたら大学生のグループと相席になってね、そこで恋愛論みたいな討論になったわけ。
敏子 私たちも経験なんかないけど、仕事で夜の街はいっぱい見てるでしょう。だからズバズバ言ってたら、その大学生たちに「君たちは素晴らしい!」なんて言われちゃって。「また会いたい、電話番号を教えてくれ」ってね。
──ナンパじゃないですか!
栄子 でも「親から電話番号は教えてはいけないと言われてます」ってお断りしたの。それから3人で外に出てね、「やったわね」なんて話したの。「私たち、学校に行ってないけど、討論で大学生に勝ったわね」ってうれしくなっちゃってね。
敏子 実はその後日談があってね、それから何年かして私たちデビューして、雑誌のグラビア撮りで銀座で撮影をしていたのよ。そうしたら背広を着た立派なサラリーマンの人が声をかけてきてね、「何年か前に銀座の喫茶店で会いましたよね」って。
栄子 喫茶店で別れてから、ずっと私たちのこと探してたんですって。「あの制服はどの学校だ?」って。でも見つからないわけよね。
敏子 それからデビューして、新聞なんかに流し出身って載ってたからびっくりしたみたいで。こっちも制服を着ていたという罪悪感があったし、「あの時は嘘をついてごめんなさい」って謝ったわねえ。
売れる曲はわかる――流しで培ったヒット曲の目利き
2014年3月には18年ぶりのシングル「こまどりのラーメン渡り鳥」を発売
栄子 そうね。生活のために流しを始めて、家を建てるくらいお金も貯まったけど、レコード会社にはいくつも断られてね。
敏子 当時は流し出身なんてご法度だと言われてね。だからもう歌はやめようと思ったの。お姉さんはお洋服の仕事、私はおしるこ屋さんでもやろうかって、それが念願だったのよ。だけどコロムビアの社長さんからなんとか一度テストに来て欲しいって言われて、それが不思議な縁というか、運命の始まりね。
栄子 歌手になるような歌唱力もなかったしね、顔もそういいわけじゃないし、いろんな意味で自信もなかったのよ。ただ私たちの能力といえば、これは売れるなという歌はすぐにわかったわね。
敏子 そうね。やっぱり流しっていうのは、お客さんが歌って欲しい歌をいくつ歌えるかが勝負なの。だからこれはお客さんが好むだろうなって歌はいち早く覚えるわけ。そうすると、ヒットする歌を選択する目利きみたいなのものが自然と養われるのよね。
栄子 だから、作曲家の先生に「お前たち、この中から好きな歌を選べ」って言われて選んだ歌はたいていヒットしたわね。
──当時は誰もが口ずさめる、いわゆる国民的ヒットがたくさん生まれた時代でしたね。
栄子 そうね。だからおかげさまで、今でも「ソーラン渡り鳥」とか「未練ごころ」とか歌うとみなさん喜んでくださってね。私たちも56年もやってると、150曲くらいはいただいてるんだけど、やっぱり喜んでくださるのはみなさんが知ってる曲よね。だからステージの限られた時間では、なるべくヒット曲を歌わなきゃって思うのよ。
敏子 昔は50万枚、100万枚売れないと「ヒット曲」じゃない時代だったから。自分たちではあの曲も歌いたい、この曲も歌いたいって思う、いわば隠れた名曲っていうのかな、そういう歌もいっぱいあるけどね。中にはお金を貯めてショーに来てくださるお客さんもいるわけでしょう。その感謝を思うと、自分たちがどうこうしたいっていう思いは二の次になるのよ。
――今は紅白を見ていても誰もが知る曲というのは少なくなってしまいました。そういう時代なんでしょうけど……。
敏子 あの頃は紅白出るのにヒット曲が1曲じゃダメだったのよ。何十万、何百万、3曲とか売れないと出してもらえなかったし、日本全国、すみずみまで知ってる曲をひっさげて登場するわけだから。当時の構成の方もすごく上手だったの。だから紅白、甲乙つけがたいって感じだったわね。テレビの番組もなくなって、若い人は本当に気の毒だって思うわ。声が良くて、歌が上手な子ってたくさんいるけど、デビューしてから何十年も経ってる子もザラにいるから。大勢で出て、歌って踊る人が多くなっちゃって。今の人たちも、踊りを踊って歌うグループじゃないと見ないようになってるでしょ? 歌だけ歌ってる人のことは見ないんですもの。しみじみとした歌をうっとり聴いてた時代と違うんだもの。私たちがイベントで歌ってても、他のファンの人がライトのついた棒を振ってくれてたりするの(笑)。ちょっと合わないって思うんだけど……そういう時代なのね。
――最初に紅白に出た時のことって覚えてらっしゃいます?
敏子 遠藤実先生の門下として、遠藤先生の歌でヒット曲をいただいたんですけど、船村徹先生の「姉妹酒場」を歌うことになったのね。もちろん「姉妹酒場」もいい曲なのよ。でも私たちが決めたわけじゃなかったんだけど、遠藤先生が怒っちゃってね。
栄子 私たちが選んだんだと思っちゃったのよ。
敏子 晩年になってね、先生がお亡くなりになる1年くらい前にやっと理解していただいたの。