吉本興業ホールディングスの前代表取締役会長・大崎洋氏(※崎=たつさき)が6日、都内で行われたメディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が主催する『黒川塾』90回のゲストとして登場した。
3月に『居場所。』(サンマーク出版)を上梓。この日は「それぞれの『居場所。』探し」というテーマで行われた。冒頭でこれまでの経歴を振られると大崎氏は「いやいや。一介のサラリーマンで、生涯いち漫才師のマネージャーですから」と謙遜する。その後、「就職するつもりもなかった」と思っていたところから吉本に入社した話、「大阪の笑いは箱根の山を越えられない」と言われていた時代に東京へ進出した話、明石家さんまや島田紳助さんとの独特な関係性など、ざっくばらんにトークを展開。会場の爆笑をさらっていた。
大崎氏は、地方創生となった47都道府県住みます芸人、アジアへと広がったアジア住みます芸人、配信サービスやeスポーツでも大きな成果を挙げている。大崎氏のふとした思いつきなどを岡本昭彦社長が陣頭指揮を取って実現化したという。慧眼について大崎氏は「たまたまです。お調子者。大層な言い方をすれば、個人だろうが、どんな組織だろうが、時代の空気を吸わないと生き残れない。聞いた話でパーッと動く。結果論ですけど、みんなそんな感じです」と豪快に語った。
『居場所。』は、2年かけて書いたとも。区切りとなるタイミングでの書籍となったが「たまたま」という。そして「吉本という会社は、別に大崎興業ではない。いつまでいたらいいのかな、と。でも、自分の中ではレコード会社も出版会社も非上場にもしたし、これだけやったんだから、ずっとおってもいいよな、と思う気持ちと、創業家でもない、オーナーでもないのにいつまでもいてもみっともないんじゃないか、という葛藤がずっとあった」と吐露すると「この本を書いているときに、これはカッコ悪い、と。どっかでスパッと辞めるのがいいと思った。2年間向き合って気づいて、とりあえず辞めることになった」とあっけらかんと語っていた。
そして、さまざまな縁にも感謝。「出合いやタイミングも“幸せな思いがけない出合い”。僕みたいな普通のヤツでもあるので、みんなにあると思う」と力説し「どんな人にも1度ならず、2度か、3度は必ずある。そういう意味で言うと、70歳になって思うんですけど、捨てたもんじゃないなと思います。70歳になって新しいことができる幸せもあると思います」としみじみと語っていた。
また、大崎氏は「なんとなくというのが日本人の特質じゃないかと思っている」と持論。「勝った負けたと数字と勝負。もちろん資本主義の世の中ですから数字で勝った負けたは当然そう。それがないと成長はない」と前置きした上で「僕の子どものころとか吉本に入ったころは、昨日よりも今日、今日よりも明日がよくなる、と思っていた。氷の冷蔵庫から電気冷蔵庫になったりとか。子どもながらに未来を想像する夢の力、構想力があった。ただ、今の子どもたち、若者が未来を夢見ることに意欲がないのは、大人たちの影の部分、反省すべき部分。資本主義で勝った負けたでやってきたんですけど、そろそろそのものさしに、もう1つ違うものさしを持たなければいけない時代じゃないか、と。一人ひとりが、どんなことでも、小さくてもいいから違うものさしを持つ。『帰ったらシャケ食べたろ』とか。個人個人が日常の中に小さな幸せ、楽しみを見つけて、数字の価値観じゃないものさしを持つのが大切じゃないか」と思いを伝えていた。
そして、売れる芸人、売れない芸人の違いについて質問されると大崎氏は「わからないです」と即答。「わからないというのは、人って何かのきっかけで変わることがある。そんな可能性を秘めている。競争して1番を決めるのは美しさはある。数字のものさしと違うものさしを持たないと吉本の社員として失格。『M-1の予選でスベるやろな』というものさしと、『この子らこんなことに興味を持ってるんや、面白い』という2つのものさしを持つことで成立する。売れる、売れないを決めるのはお客さんが決めること。いち漫才師の漫才マネージャーが決めたらアカン」と語っていた。
大崎氏は1953年7月28日生まれ、大阪府出身。78年に吉本興業に入社し、お笑いコンビ・ダウンタウンをはじめ数々のタレントのマネージャーを担当。86年にプロデューサーとして『心斎橋筋2丁目劇場』を立ち上げ、同劇場から多くの人気タレントを輩出した。97年にチーフプロデューサーとして東京支社へ。2001年に取締役に就任し、専務取締役、取締役副社長を歴任した。09年に代表取締役社長、18年に共同代表取締役CEO、翌19年に現職。また、19年には公益社団法人2025年日本国際博覧会協会のシニアアドバイザーに就任している。
3月に『居場所。』(サンマーク出版)を上梓。この日は「それぞれの『居場所。』探し」というテーマで行われた。冒頭でこれまでの経歴を振られると大崎氏は「いやいや。一介のサラリーマンで、生涯いち漫才師のマネージャーですから」と謙遜する。その後、「就職するつもりもなかった」と思っていたところから吉本に入社した話、「大阪の笑いは箱根の山を越えられない」と言われていた時代に東京へ進出した話、明石家さんまや島田紳助さんとの独特な関係性など、ざっくばらんにトークを展開。会場の爆笑をさらっていた。
大崎氏は、地方創生となった47都道府県住みます芸人、アジアへと広がったアジア住みます芸人、配信サービスやeスポーツでも大きな成果を挙げている。大崎氏のふとした思いつきなどを岡本昭彦社長が陣頭指揮を取って実現化したという。慧眼について大崎氏は「たまたまです。お調子者。大層な言い方をすれば、個人だろうが、どんな組織だろうが、時代の空気を吸わないと生き残れない。聞いた話でパーッと動く。結果論ですけど、みんなそんな感じです」と豪快に語った。
そして、さまざまな縁にも感謝。「出合いやタイミングも“幸せな思いがけない出合い”。僕みたいな普通のヤツでもあるので、みんなにあると思う」と力説し「どんな人にも1度ならず、2度か、3度は必ずある。そういう意味で言うと、70歳になって思うんですけど、捨てたもんじゃないなと思います。70歳になって新しいことができる幸せもあると思います」としみじみと語っていた。
また、大崎氏は「なんとなくというのが日本人の特質じゃないかと思っている」と持論。「勝った負けたと数字と勝負。もちろん資本主義の世の中ですから数字で勝った負けたは当然そう。それがないと成長はない」と前置きした上で「僕の子どものころとか吉本に入ったころは、昨日よりも今日、今日よりも明日がよくなる、と思っていた。氷の冷蔵庫から電気冷蔵庫になったりとか。子どもながらに未来を想像する夢の力、構想力があった。ただ、今の子どもたち、若者が未来を夢見ることに意欲がないのは、大人たちの影の部分、反省すべき部分。資本主義で勝った負けたでやってきたんですけど、そろそろそのものさしに、もう1つ違うものさしを持たなければいけない時代じゃないか、と。一人ひとりが、どんなことでも、小さくてもいいから違うものさしを持つ。『帰ったらシャケ食べたろ』とか。個人個人が日常の中に小さな幸せ、楽しみを見つけて、数字の価値観じゃないものさしを持つのが大切じゃないか」と思いを伝えていた。
そして、売れる芸人、売れない芸人の違いについて質問されると大崎氏は「わからないです」と即答。「わからないというのは、人って何かのきっかけで変わることがある。そんな可能性を秘めている。競争して1番を決めるのは美しさはある。数字のものさしと違うものさしを持たないと吉本の社員として失格。『M-1の予選でスベるやろな』というものさしと、『この子らこんなことに興味を持ってるんや、面白い』という2つのものさしを持つことで成立する。売れる、売れないを決めるのはお客さんが決めること。いち漫才師の漫才マネージャーが決めたらアカン」と語っていた。
大崎氏は1953年7月28日生まれ、大阪府出身。78年に吉本興業に入社し、お笑いコンビ・ダウンタウンをはじめ数々のタレントのマネージャーを担当。86年にプロデューサーとして『心斎橋筋2丁目劇場』を立ち上げ、同劇場から多くの人気タレントを輩出した。97年にチーフプロデューサーとして東京支社へ。2001年に取締役に就任し、専務取締役、取締役副社長を歴任した。09年に代表取締役社長、18年に共同代表取締役CEO、翌19年に現職。また、19年には公益社団法人2025年日本国際博覧会協会のシニアアドバイザーに就任している。
2023/06/06