大阪のベテラン漫才師、ザ・ぼんち(ぼんちおさむ=70、里見まさと=70)が、3月11日に大阪・なんばグランド花月で『古希記念単独ライブ〜ダイヤモンドは砕けない〜』に挑む。古希になってなお若々しい2人に、ORICON NEWSはこのほど大阪市内で単独インタビューを実施し、これまでの道のりや後輩漫才師たちへの思いなどを聞いた。
今や『M-1グランプリ』をはじめとした賞レースから、一夜にしてお笑いスターが誕生する時代。その先駆者とも言えるのが、1980年頃に起こった第一次漫才ブームを席巻したザ・ぼんちだ。おさむが「おさむちゃんで〜す!」とステージを暴れまわり、まさとが冷静にいなす、こうした漫才スタイルは、『M-1』で昨年優勝した錦鯉にも通ずるところがある。
当時としては斬新だったアイビールックも反響を呼び、1980年にスタートした『THE MANZAI』(フジテレビ)で全国的に大ブレイク。歌手デビューも果たし、漫才師として初めて日本武道館公演を成功させるなど、吉本興業の現在に至る“東京吉本”を切り拓いたレジェンドでもある。
一時、コンビを解散していた時期もあったが、再び二人三脚で、理想の漫才の道を極める道はいまだ半ばだという。おさむは「若手(漫才師)のファンを笑かしたろうと燃える」、まさとは「(若手の)彼らをリスペクトしていますし、もっともっと僕たち自身も挑戦したい」と語る。
■漫才ブーム前夜の下積み時代「苦労だとはまったく思わなかった」
――結成当時について聞かせてください。
【おさむ】 振り返れば、ザ・ぼんちを結成したのは昭和47年(1972年)です。高校の同級生でコンビを組んで、名古屋の大須演芸場などに出たりして、吉本興業の所属になってなんば花月に立ったのは翌年の昭和48年でしたね。
【まさと】 ザ・ぼんちというと、『THE MANZAI』(フジテレビ)で早くにブレイクした印象があるかもしれませんが、いっちょ前に売れるまで10年近くかかっているんです。スタートは悪くなかったんですよ、NHKの新人演芸賞なんかをポンポンといただいたりして。でも、そこからは下積みを経験しました。今となってはそれが良い時間で、だからあの漫才ブームが来た時にネタのストックがあって、困らなかったんですよね。
【おさむ】 売れん時期はしんどかったですよ。ただ、苦労だとはまったく思わなかったですね。嫌だったら「辞めたらしまい」なわけですが、2人とも絶対に売れるんやと思っていました。僕はいつか洋画雑誌『SCREEN』の表紙を飾るんだと、本当に夢見ていました(笑)。
――若手育成のNSC(吉本総合芸能学院)もまだなかった時代ですね。
【おさむ】 そうです。当時は、お弟子さんに入らないといけなかったんです。でも、吉本興業は当時から、なんば花月、うめだ花月、京都花月と3つの劇場があったんですね。その毎月10日までを上席、11日から20日を中席、21日から末日までを下席と言って、それぞれに出番をいただけて、力をつけることができました。
【まさと】 一方で、漫才作家の秋田實先生と読売テレビの有川寛さんが立ち上げた若手漫才師の勉強会「笑の会」で学んで、自分たちの漫才を作りあげていったんです。ザ・ぼんちの代表的な「インタビュー形式」の漫才スタイルの原型ができたのもこの頃で、これならいけると手応えを感じたことを覚えています。
【おさむ】 「おさむちゃんで〜す!」のつかみは当時からやっていましたよ(笑)。
■『THE MANZAI』での「たった8分間の奇跡」&伝説の武道館ライブ秘話
――そして、79年から80年にかけて漫才ブームに火がつきます。人気を決定的にしたのは『THE MANZAI』(フジテレビ)です。
【おさむ】 ちょうど79年といったら、僕が結婚した年なんです。その時はまだ漫才ブームが来る前で、長男も生まれて、ギャラだけでは生活できませんでしたから、昼は劇場に立って、夜はスナックでアルバイトをして…、必死でしたね。だから、売れる前に来てくれた嫁さんはすごく感謝しているんです。
【まさと】 80年4月1日に放送された『THE MANZAI』。あの日のあの8分間の漫才、僕は自分で「たった8分間の奇跡」って言うてますけども、それを境にすべてが変わりました。それまでは営業へ行ってもお客さんがいないこともあったけれど、あの8分間のあとからは、お客さんのいないところで漫才をやるようなことはないですからね。すごいなと思いましたね、テレビの力というのは。
【おさむ】 『THE MANZAI』が放送されるまでは、漫才師やお笑い芸人の扱いが業界では低くて、営業に行っても“いろもん”(賑やかし)だったんですね。それで嫌な気もしなかったし、当たり前だと思っていました。それが漫才ブーム以後は、メインが僕たちザ・ぼんちのステージになったんです。天と地がひっくり返ったように。
【まさと】 漫才ブーム前は、共演者の楽屋へあいさつにも行かせてくれない空気感ですよ。「たった8分間の奇跡」で、反対に向こうから来るようになった(笑)。
――一あまりに忙しくて、ヘリコプターで移動されることもあったと聞きました。
【まさと】 あれは会社のブッキングミスでそうなっただけですけど、ヘリには3回ぐらい乗っているかな(笑)。
【おさむ】 ダブルブッキング、トリプルブッキングはもちろん、言えないようなもっとすごいのもね(笑)。スケジュールに無理がありすぎるから仕事に穴を空けて、そしたら新聞では自分たちが倒れたことになっているんです。ファンの方から「大丈夫ですか?」って連絡があって、雰囲気を察して「倒れました」って嘘をついて(笑)。
――81年には“歌手”としてシングル「恋のぼんちシート」を発売されて、漫才師として史上初めて日本武道館でライブを成功させました。
【まさと】 武道館ライブは忘れることはありませんね。あの時に我々を支えてくださった吉本興業の方やスタッフの方々と、何かブームの証を残そうとしたんです。映画だとか他のアイデアもいっぱいあったんですけど、やはり漫才師ではまだ誰も立っていない武道館だろうと。(漫才ブーム火付け役の一人でもある朝日放送の)澤田隆治さんが一番喜んでくださって、報いることができたなと思うんです。
また、僕らにはそういった苦労はおっしゃらないですけど、(吉本興業ホールディングスの)大崎洋会長(崎=たつさき)が若手社員で東京にいらして、武道館当日は5分に1回ぐらい、心配そうに客入りの様子を見にいっておられました。それが、開演前の午後6時ぐらいになったら、千鳥ヶ淵のところをお客さんがドーッと上がってきて、「大丈夫です、やれます!」「さあ、いくぞ!」と、想像を超える張り詰めた緊張感の中で2人きりでステージに立ったんです。
【おさむ】 僕はね、ペンライトというのが1万本もある光景にたまげたんです。1万本のペンライトなんて想像つかないじゃないですか。それが真っ暗なところに一斉にパッとついて、こんなに明るいんやと。そこには1万本分の人間がいるということでしょう。信じられなかったですよ。緞帳(どんちょう)が上がったら、会場中から「ウォーッ」と揺れるような歓声が上がってね。
【まさと】 あの光景ははっきりと覚えています。「ザ・ぼんちシート」と言ったんですけども、今で言うアリーナ席から3階までぎっしり。当時の吉本興業の偉いさんが、「時間とか何とか関係なく今までやってきたことをぶつけてください」と言って送り出してくれました。
■一度コンビを離れて感じたこと、新たな可能性の模索
――そうした漫才ブーム絶頂期も終わりを迎え、86年に一度解散されています。
【おさむ】 ブームが82年頃に終わって、4年経った33歳の時ですね。
【まさと】 お聞きづらいやろうからこっちから言いますけど、「何で別れたんや?」と聞かれましたら、本当にあのブームの間に、良い仕事、良いステージばっかりやらせていただいて、ブーム終焉(しゅうえん)とともに仕事は減っていくわけです。一方で、今まで通りに劇場へ出ているザ・ぼんちがいるわけですけども、さすがにその時には燃え尽き症候群だったんですね。だから、いっぺん休憩しようと、離れたということです。
それは他のコンビを見てもお分かりの通りで、あのブームの渦中にいたコンビでずっと続けているのは、いくよ・くるよさん(今いくよ・くるよ)、阪神・巨人さん(オール阪神・巨人)ぐらい。あとは、別れてはいないけどもコンビでは活動されていないツービートさんぐらいですか。
【おさむ】 解散して、びっくりするぐらい収入が減りましたね。僕はたまたまフジテレビのレギュラー番組をいただいて、芸能人が芸能人を密着取材するというレポーターみたいな立ち位置で、三國連太郎さん、三船敏郎さんにもインタビューしたり、もうめちゃくちゃやっていたんですけど、それを東映のプロデューサーの人が気に入ってくれて、ドラマのオファーをいただいたんです。テレビ朝日『はぐれ刑事純情派』の里見大観役ですね。そしたら、その少しあとに相棒(まさと)が「里見まさと」に改名しましてね。本当に偶然なんですけど、コンビの縁というのを感じました。
――まさと師匠は、その間、亀山房代さん(2009年没)と漫才コンビ「里見まさと・亀山房代」で活動されました。
【まさと】 ザ・ぼんちを離れてみて、僕ってこんなに力がないねやというのを自分で体験して、一から漫才をやろうと。読売テレビが『2時のワイドショー』で亀山房代を全国ネットで使いたいけれど、相手役に誰かいないかという時に、“暇な兄ちゃん”が一人おったということで、コンビを組もうと。今から思えば、漫才を勉強できた本当にすてきな時間でした。
【おさむ】 僕はね、ジャズも始めたんです。ドラマに出していただいて、視聴率も良いし、知名度もあったけれど、漫才のようにテレビ画面を独占したり、お客さんから即時に反応がないのが少し寂しいなと思っていたら、ある吉本興業の社員の人が、会社直営のライブハウスで「ジャズ歌ってみいひんか?」と。他に誰もやっていないし、僕は一番手が好きやから、やってみようと。そこから始まって、今でもジャズは僕のライフワークなんです。
――そして、2002年に再結成されます。なんと14年には若手漫才師に混じって新しい『THE MANZAI』に出られました。
【まさと】 あの『THE MANZAI』は、半分本気、半分シャレです。正直やれると思ってましたし、(最後まで)残れると思ってました。一方で残ってはいけない、若い人たちの未来を奪いとるようなことはしてはいけない、あるところまでいったら考えようと2人で決めて出たんですね。
■“漫才ドリーム”を目指す若手と切磋琢磨 伝えたい「平場の大切さ」
――その若手漫才師たちが、現在では『M-1グランプリ』に6000組以上エントリーする時代です。
【まさと】 今の人たちは本当に見事なもんです。うまいし、力があるし、達者です。すごいですよ。
【おさむ】 レベルはめちゃくちゃ高いです。ただ、審査ばっかりはちょっと嫌やなとも思うところもありますね。好みで選ばれたり、落とされたりとかがありますから。『M-1』で落ちた人らでも、自分たちの若手の時のレベルよりはずっと高くて、とてもじゃないけど今の時代では勝たれへんと思います。勝てるとしたら、声の大きさだけですね(笑)
【まさと】 先輩というところから見るとね、あくまで僕の意見ですよ、(今の若手は)すてきな大会、イベントがあって、うらやましいなと思うのと同時に、出る側もしっかり意識を持たないと、ひとつ間違えたら、業界にうまく使われて、すり減って何にもなしでほったらかされるということがあり得るんじゃないかなと、ちょっと心配もしています。
【おさむ】 漫才ブームを経験して思うのは、(テレビなどに)使われることは良いことなんです。世の中の回り方やから。でも、そこでやっぱり自分の考えをしっかり持ち、すり減らないようにせなあきません。ちょっと抑えて、(周囲の状況に)気がつくことも必要でしょうね。僕は気がつかないタイプだから(笑)。
――そういう意味では、平場の舞台に立ち続けることは重要ですね。
【まさと】 そう、本当に重要です。
【おさむ】 僕はNGKの舞台に立てているということがなんといっても幸せなんです。若手と混じって、ザ・ぼんちが出してもらえて、同じ舞台で戦えている。若手のファンを笑かしたろうと燃えるんです。誰のファンであろうと、ザ・ぼんちの漫才を見て、一瞬でも嫌なことを忘れてくれたら、それだけで幸せですね。
【まさと】 今、ググッと漫才界も動いてきています。その中にあって、同じステージで、同じお客さんを相手に、同じマイクを使って勝負ができる。70歳だからといって30メートル前から走らしてくれることはないんです。若い人たちのことを心配もしますけども、同時にそれは僕たち自身へのプレッシャー、源動力でもあるんです。若い彼らをリスペクトしていますし、もっともっと僕たち自身も挑戦したい。こんなにありがたいことないですよね。そら本当に必死ですよ、僕ら。
■コロナ禍を吹き飛ばす笑いを “日本一元気な漫才師”として80歳・90歳へ
――古希を経て、さらに80歳、90歳へ向けてどんな漫才を目指していかれますか。
【おさむ】 僕らが80歳だとしたら、「80歳に見えへんな」という漫才をしていたいですね。逆に、「やっぱり80歳やな〜」という漫才もいいですね(笑)。
【まさと】 今までは5年後どないなってる? 5年後どないなってる? で来ましたけど、70歳の前ぐらいから、先輩たちが言うように体力的な衰えというのも実感する中で、もう本当に1年1年しっかり頑張ってやっていかんといけません。その意味でも、若手と立場は同じなんです。
――この約2年間、コロナ禍で劇場にお客さんがいない時期もありました。
【まさと】 まさかまさか夢にも思わなかったけども、無観客の中で(配信向けに)漫才をするという経験もさせていただきました。しかし、これも財産なんです。お客さまって本当にありがたいんだなというのを感じましたし、無観客でやる中で自分たちをどのように高めていかなあかんのかというのをあらためて考える時間にもなりました。
【おさむ】 お客さんが目の前にいるだろう想定で漫才をやって、その経験もまた古希のライブではぶつけられたらと思います。今回のライブは、皆さん(取材時点では)コロナ禍でも足を運んでくれるわけで、本当に思いっきり楽しんでもらって、マスクをしているのも忘れるぐらい腹の底から楽しいんでほしいというのが本当の僕の思いです。
――どんなライブを予定されているか、最後に聞かせてください。
【まさと】 もちろん漫才はしっかりやらせていただいて、友情出演ののりお・よしおさん(西川のりお・上方よしお)にも助けていただき、ミルクボーイさんにも助けていただいて、ザ・ぼんちらしいステージにしたいですね。歌? それは今回はクエスチョンがついたままですが(笑)、ネタ間も楽しませながら、70歳の“日本一元気な漫才師”ザ・ぼんちを見せつけます。
【おさむ】 お客さんから、「お前ら若手か!」とツッコまれるぐらいにね(笑)。(ライブのサブタイトルの通り)ザ・ぼんちの“ダイヤモンド”は砕けません。
■『ザ・ぼんち古希記念単独ライブ〜ダイヤモンドは砕けない〜』
日時:3月11日(金)午後5時45分開場、6時30分開演
場所:なんばグランド花月
出演:ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、ミルクボーイ
今や『M-1グランプリ』をはじめとした賞レースから、一夜にしてお笑いスターが誕生する時代。その先駆者とも言えるのが、1980年頃に起こった第一次漫才ブームを席巻したザ・ぼんちだ。おさむが「おさむちゃんで〜す!」とステージを暴れまわり、まさとが冷静にいなす、こうした漫才スタイルは、『M-1』で昨年優勝した錦鯉にも通ずるところがある。
当時としては斬新だったアイビールックも反響を呼び、1980年にスタートした『THE MANZAI』(フジテレビ)で全国的に大ブレイク。歌手デビューも果たし、漫才師として初めて日本武道館公演を成功させるなど、吉本興業の現在に至る“東京吉本”を切り拓いたレジェンドでもある。
一時、コンビを解散していた時期もあったが、再び二人三脚で、理想の漫才の道を極める道はいまだ半ばだという。おさむは「若手(漫才師)のファンを笑かしたろうと燃える」、まさとは「(若手の)彼らをリスペクトしていますし、もっともっと僕たち自身も挑戦したい」と語る。
■漫才ブーム前夜の下積み時代「苦労だとはまったく思わなかった」
――結成当時について聞かせてください。
【おさむ】 振り返れば、ザ・ぼんちを結成したのは昭和47年(1972年)です。高校の同級生でコンビを組んで、名古屋の大須演芸場などに出たりして、吉本興業の所属になってなんば花月に立ったのは翌年の昭和48年でしたね。
【まさと】 ザ・ぼんちというと、『THE MANZAI』(フジテレビ)で早くにブレイクした印象があるかもしれませんが、いっちょ前に売れるまで10年近くかかっているんです。スタートは悪くなかったんですよ、NHKの新人演芸賞なんかをポンポンといただいたりして。でも、そこからは下積みを経験しました。今となってはそれが良い時間で、だからあの漫才ブームが来た時にネタのストックがあって、困らなかったんですよね。
【おさむ】 売れん時期はしんどかったですよ。ただ、苦労だとはまったく思わなかったですね。嫌だったら「辞めたらしまい」なわけですが、2人とも絶対に売れるんやと思っていました。僕はいつか洋画雑誌『SCREEN』の表紙を飾るんだと、本当に夢見ていました(笑)。
――若手育成のNSC(吉本総合芸能学院)もまだなかった時代ですね。
【おさむ】 そうです。当時は、お弟子さんに入らないといけなかったんです。でも、吉本興業は当時から、なんば花月、うめだ花月、京都花月と3つの劇場があったんですね。その毎月10日までを上席、11日から20日を中席、21日から末日までを下席と言って、それぞれに出番をいただけて、力をつけることができました。
【まさと】 一方で、漫才作家の秋田實先生と読売テレビの有川寛さんが立ち上げた若手漫才師の勉強会「笑の会」で学んで、自分たちの漫才を作りあげていったんです。ザ・ぼんちの代表的な「インタビュー形式」の漫才スタイルの原型ができたのもこの頃で、これならいけると手応えを感じたことを覚えています。
【おさむ】 「おさむちゃんで〜す!」のつかみは当時からやっていましたよ(笑)。
――そして、79年から80年にかけて漫才ブームに火がつきます。人気を決定的にしたのは『THE MANZAI』(フジテレビ)です。
【おさむ】 ちょうど79年といったら、僕が結婚した年なんです。その時はまだ漫才ブームが来る前で、長男も生まれて、ギャラだけでは生活できませんでしたから、昼は劇場に立って、夜はスナックでアルバイトをして…、必死でしたね。だから、売れる前に来てくれた嫁さんはすごく感謝しているんです。
【まさと】 80年4月1日に放送された『THE MANZAI』。あの日のあの8分間の漫才、僕は自分で「たった8分間の奇跡」って言うてますけども、それを境にすべてが変わりました。それまでは営業へ行ってもお客さんがいないこともあったけれど、あの8分間のあとからは、お客さんのいないところで漫才をやるようなことはないですからね。すごいなと思いましたね、テレビの力というのは。
【おさむ】 『THE MANZAI』が放送されるまでは、漫才師やお笑い芸人の扱いが業界では低くて、営業に行っても“いろもん”(賑やかし)だったんですね。それで嫌な気もしなかったし、当たり前だと思っていました。それが漫才ブーム以後は、メインが僕たちザ・ぼんちのステージになったんです。天と地がひっくり返ったように。
【まさと】 漫才ブーム前は、共演者の楽屋へあいさつにも行かせてくれない空気感ですよ。「たった8分間の奇跡」で、反対に向こうから来るようになった(笑)。
――一あまりに忙しくて、ヘリコプターで移動されることもあったと聞きました。
【まさと】 あれは会社のブッキングミスでそうなっただけですけど、ヘリには3回ぐらい乗っているかな(笑)。
【おさむ】 ダブルブッキング、トリプルブッキングはもちろん、言えないようなもっとすごいのもね(笑)。スケジュールに無理がありすぎるから仕事に穴を空けて、そしたら新聞では自分たちが倒れたことになっているんです。ファンの方から「大丈夫ですか?」って連絡があって、雰囲気を察して「倒れました」って嘘をついて(笑)。
――81年には“歌手”としてシングル「恋のぼんちシート」を発売されて、漫才師として史上初めて日本武道館でライブを成功させました。
【まさと】 武道館ライブは忘れることはありませんね。あの時に我々を支えてくださった吉本興業の方やスタッフの方々と、何かブームの証を残そうとしたんです。映画だとか他のアイデアもいっぱいあったんですけど、やはり漫才師ではまだ誰も立っていない武道館だろうと。(漫才ブーム火付け役の一人でもある朝日放送の)澤田隆治さんが一番喜んでくださって、報いることができたなと思うんです。
また、僕らにはそういった苦労はおっしゃらないですけど、(吉本興業ホールディングスの)大崎洋会長(崎=たつさき)が若手社員で東京にいらして、武道館当日は5分に1回ぐらい、心配そうに客入りの様子を見にいっておられました。それが、開演前の午後6時ぐらいになったら、千鳥ヶ淵のところをお客さんがドーッと上がってきて、「大丈夫です、やれます!」「さあ、いくぞ!」と、想像を超える張り詰めた緊張感の中で2人きりでステージに立ったんです。
【おさむ】 僕はね、ペンライトというのが1万本もある光景にたまげたんです。1万本のペンライトなんて想像つかないじゃないですか。それが真っ暗なところに一斉にパッとついて、こんなに明るいんやと。そこには1万本分の人間がいるということでしょう。信じられなかったですよ。緞帳(どんちょう)が上がったら、会場中から「ウォーッ」と揺れるような歓声が上がってね。
【まさと】 あの光景ははっきりと覚えています。「ザ・ぼんちシート」と言ったんですけども、今で言うアリーナ席から3階までぎっしり。当時の吉本興業の偉いさんが、「時間とか何とか関係なく今までやってきたことをぶつけてください」と言って送り出してくれました。
■一度コンビを離れて感じたこと、新たな可能性の模索
――そうした漫才ブーム絶頂期も終わりを迎え、86年に一度解散されています。
【おさむ】 ブームが82年頃に終わって、4年経った33歳の時ですね。
【まさと】 お聞きづらいやろうからこっちから言いますけど、「何で別れたんや?」と聞かれましたら、本当にあのブームの間に、良い仕事、良いステージばっかりやらせていただいて、ブーム終焉(しゅうえん)とともに仕事は減っていくわけです。一方で、今まで通りに劇場へ出ているザ・ぼんちがいるわけですけども、さすがにその時には燃え尽き症候群だったんですね。だから、いっぺん休憩しようと、離れたということです。
それは他のコンビを見てもお分かりの通りで、あのブームの渦中にいたコンビでずっと続けているのは、いくよ・くるよさん(今いくよ・くるよ)、阪神・巨人さん(オール阪神・巨人)ぐらい。あとは、別れてはいないけどもコンビでは活動されていないツービートさんぐらいですか。
【おさむ】 解散して、びっくりするぐらい収入が減りましたね。僕はたまたまフジテレビのレギュラー番組をいただいて、芸能人が芸能人を密着取材するというレポーターみたいな立ち位置で、三國連太郎さん、三船敏郎さんにもインタビューしたり、もうめちゃくちゃやっていたんですけど、それを東映のプロデューサーの人が気に入ってくれて、ドラマのオファーをいただいたんです。テレビ朝日『はぐれ刑事純情派』の里見大観役ですね。そしたら、その少しあとに相棒(まさと)が「里見まさと」に改名しましてね。本当に偶然なんですけど、コンビの縁というのを感じました。
――まさと師匠は、その間、亀山房代さん(2009年没)と漫才コンビ「里見まさと・亀山房代」で活動されました。
【まさと】 ザ・ぼんちを離れてみて、僕ってこんなに力がないねやというのを自分で体験して、一から漫才をやろうと。読売テレビが『2時のワイドショー』で亀山房代を全国ネットで使いたいけれど、相手役に誰かいないかという時に、“暇な兄ちゃん”が一人おったということで、コンビを組もうと。今から思えば、漫才を勉強できた本当にすてきな時間でした。
【おさむ】 僕はね、ジャズも始めたんです。ドラマに出していただいて、視聴率も良いし、知名度もあったけれど、漫才のようにテレビ画面を独占したり、お客さんから即時に反応がないのが少し寂しいなと思っていたら、ある吉本興業の社員の人が、会社直営のライブハウスで「ジャズ歌ってみいひんか?」と。他に誰もやっていないし、僕は一番手が好きやから、やってみようと。そこから始まって、今でもジャズは僕のライフワークなんです。
――そして、2002年に再結成されます。なんと14年には若手漫才師に混じって新しい『THE MANZAI』に出られました。
【まさと】 あの『THE MANZAI』は、半分本気、半分シャレです。正直やれると思ってましたし、(最後まで)残れると思ってました。一方で残ってはいけない、若い人たちの未来を奪いとるようなことはしてはいけない、あるところまでいったら考えようと2人で決めて出たんですね。
■“漫才ドリーム”を目指す若手と切磋琢磨 伝えたい「平場の大切さ」
――その若手漫才師たちが、現在では『M-1グランプリ』に6000組以上エントリーする時代です。
【まさと】 今の人たちは本当に見事なもんです。うまいし、力があるし、達者です。すごいですよ。
【おさむ】 レベルはめちゃくちゃ高いです。ただ、審査ばっかりはちょっと嫌やなとも思うところもありますね。好みで選ばれたり、落とされたりとかがありますから。『M-1』で落ちた人らでも、自分たちの若手の時のレベルよりはずっと高くて、とてもじゃないけど今の時代では勝たれへんと思います。勝てるとしたら、声の大きさだけですね(笑)
【まさと】 先輩というところから見るとね、あくまで僕の意見ですよ、(今の若手は)すてきな大会、イベントがあって、うらやましいなと思うのと同時に、出る側もしっかり意識を持たないと、ひとつ間違えたら、業界にうまく使われて、すり減って何にもなしでほったらかされるということがあり得るんじゃないかなと、ちょっと心配もしています。
【おさむ】 漫才ブームを経験して思うのは、(テレビなどに)使われることは良いことなんです。世の中の回り方やから。でも、そこでやっぱり自分の考えをしっかり持ち、すり減らないようにせなあきません。ちょっと抑えて、(周囲の状況に)気がつくことも必要でしょうね。僕は気がつかないタイプだから(笑)。
――そういう意味では、平場の舞台に立ち続けることは重要ですね。
【まさと】 そう、本当に重要です。
【おさむ】 僕はNGKの舞台に立てているということがなんといっても幸せなんです。若手と混じって、ザ・ぼんちが出してもらえて、同じ舞台で戦えている。若手のファンを笑かしたろうと燃えるんです。誰のファンであろうと、ザ・ぼんちの漫才を見て、一瞬でも嫌なことを忘れてくれたら、それだけで幸せですね。
【まさと】 今、ググッと漫才界も動いてきています。その中にあって、同じステージで、同じお客さんを相手に、同じマイクを使って勝負ができる。70歳だからといって30メートル前から走らしてくれることはないんです。若い人たちのことを心配もしますけども、同時にそれは僕たち自身へのプレッシャー、源動力でもあるんです。若い彼らをリスペクトしていますし、もっともっと僕たち自身も挑戦したい。こんなにありがたいことないですよね。そら本当に必死ですよ、僕ら。
■コロナ禍を吹き飛ばす笑いを “日本一元気な漫才師”として80歳・90歳へ
――古希を経て、さらに80歳、90歳へ向けてどんな漫才を目指していかれますか。
【おさむ】 僕らが80歳だとしたら、「80歳に見えへんな」という漫才をしていたいですね。逆に、「やっぱり80歳やな〜」という漫才もいいですね(笑)。
【まさと】 今までは5年後どないなってる? 5年後どないなってる? で来ましたけど、70歳の前ぐらいから、先輩たちが言うように体力的な衰えというのも実感する中で、もう本当に1年1年しっかり頑張ってやっていかんといけません。その意味でも、若手と立場は同じなんです。
――この約2年間、コロナ禍で劇場にお客さんがいない時期もありました。
【まさと】 まさかまさか夢にも思わなかったけども、無観客の中で(配信向けに)漫才をするという経験もさせていただきました。しかし、これも財産なんです。お客さまって本当にありがたいんだなというのを感じましたし、無観客でやる中で自分たちをどのように高めていかなあかんのかというのをあらためて考える時間にもなりました。
【おさむ】 お客さんが目の前にいるだろう想定で漫才をやって、その経験もまた古希のライブではぶつけられたらと思います。今回のライブは、皆さん(取材時点では)コロナ禍でも足を運んでくれるわけで、本当に思いっきり楽しんでもらって、マスクをしているのも忘れるぐらい腹の底から楽しいんでほしいというのが本当の僕の思いです。
――どんなライブを予定されているか、最後に聞かせてください。
【まさと】 もちろん漫才はしっかりやらせていただいて、友情出演ののりお・よしおさん(西川のりお・上方よしお)にも助けていただき、ミルクボーイさんにも助けていただいて、ザ・ぼんちらしいステージにしたいですね。歌? それは今回はクエスチョンがついたままですが(笑)、ネタ間も楽しませながら、70歳の“日本一元気な漫才師”ザ・ぼんちを見せつけます。
【おさむ】 お客さんから、「お前ら若手か!」とツッコまれるぐらいにね(笑)。(ライブのサブタイトルの通り)ザ・ぼんちの“ダイヤモンド”は砕けません。
■『ザ・ぼんち古希記念単独ライブ〜ダイヤモンドは砕けない〜』
日時:3月11日(金)午後5時45分開場、6時30分開演
場所:なんばグランド花月
出演:ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、ミルクボーイ
2022/03/03