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“さんま研究家”エムカクが見つけた明石家さんまの強み 膨大な資料から浮かび上がったフジとの縁

 “お笑い怪獣”明石家さんま(65)。お笑い界の“BIG3”の一員として、圧倒的なトーク力を武器に第一線を引き笑いで走り続けているが、一体どういった人生を歩んできたのか、これまでの歴史が長く、本人が書籍などを残すことに積極的ではないため、その全体像はつかめそうでつかめない。そんな重い扉を、本人のコメントと地道な調査をもとに見事にひもといたのが、このほど発売された『明石家さんまヒストリー1 1955〜1981 明石家さんまの誕生』(新潮社)だ。さんまに魅せられ、ひたすら追いかけ続けてきた、屈指の“さんま研究家”エムカク氏による渾身の“明石家さんま”本の第1章が幕を開けた。

膨大な資料をもとに“明石家さんま”の歴史をひもとくエムカク氏 (C)ORICON NewS inc.

膨大な資料をもとに“明石家さんま”の歴史をひもとくエムカク氏 (C)ORICON NewS inc.

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水道橋博士との出会いで動き始めた運命 さんま本人からの許可取りの瞬間

 書籍では、少年時代から落語界入門、大阪での活躍、『ひょうきん族』スタートまで、若き日のさんまの“歴史”を、本人の発言や膨大な資料をもとに克明に記録。師匠のもとで芸を磨き、芸人仲間と切磋琢磨しながら順調にスターの階段をのぼる一方で、芸を捨てる覚悟をした大恋愛、ブレイク前夜の挫折など、苦くも充実した“青春時代”の姿を浮かび上がらせる。

 エムカク氏は、自身のツイッターで「1993年〜2002年までの“さんまノート”。130冊ほどあります。僕の場合、これがなければ絶対に本は書けなかったと思います。すでにデータ化していて開くことはめったにないです。2002年以降はPCで記録しています」「雑誌ファイルは100冊近くあると思います。PCのファイル数はちょっとわかりません。ノートと雑誌、約27年分の音源・映像データ、あらゆる書籍などを使ってまとめた本です」と紹介している。

 ここからさらに、劇場に出演していた頃の情報や若手時代の番組出演なども網羅するため、新聞の縮刷版や劇場の資料なども、くまなくチェック。ネットオークションに出品されていた雑誌の切り抜きなど、図書館や芸能関係の資料が充実している大宅壮一文庫での検索でも見つけられないような資料も発掘。地道な確認作業によって、同書を通して新たなさんまの顔が浮かび上がってくる。

 テレビなどでの発言を踏まえると、自分のことが大好きなはずのさんまは、なぜ自身の歴史を書籍という形で残さないのだろうか。同書の冒頭でも書かれているが、その答えは1996年3月23日放送のMBSラジオ『MBSヤングタウン』内の発言にある。「言っときましょう。私は、しゃべる商売なんですよ。本を売る商売じゃないんですよ。しゃべって伝えられる間は、できる限りしゃべりたい。本で自分の気持ちを訴えるほど、俺はヤワじゃない」。

 その言葉をリスナーとして受け取ったエムカク氏は“使命感”のようなものが芽生え、さんまが紡ぐ言葉を書き起こしていく。こうして書き溜めてきた言葉をツイッターで紹介していたエムカク氏のもとに、水道橋博士から『水道橋博士のメルマ旬報』で執筆しないかとの依頼が届いたのが2013年。さんまノートがスタートして、ちょうど20年が経っていた。「もうちょっと調べる時間が必要だと感じていましたが、博士さんに背中を押していただく形で、連載を始めることにしました。そうそうたる連載陣がいらっしゃるので、ド素人の僕が参加するなら、量で勝負するしかないと思いました。毎月2回の締め切りはありましたが、毎回必ず1万字以上を送ることを目標にしていました。推敲する時間も取れず、書いてまとめて送るっていう生活を続けました」。さんまへの許可も取れ、連載が始まると、たちまち好評となり、エムカク氏は次第にさんまが出演する番組のリサーチャーとして参加することになる。

 書籍化の話も持ち上がってきたが、ここで冒頭の『ヤングタウン』でのさんまの言葉が重くのしかかる。「連載の許可はいただいたものの、果たして書籍にすることを許してもらえるか、正直わかりませんでした。僕はさんまさんの特番に(リサーチャーとして)参加させていただく時、いつも大阪への帰りの新幹線で、さんまさんに『今回もありがとうございました。楽しかったです』とごあいさつをさせていただくのですが、去年の11月も同じようにあいさつに行きました。さんまさんは、いつもとてもやさしく接してくださるんですね。実は今回の書籍化に向けて、正式にお話をする場を設ける話も進めていたのですが、その時、新幹線でお話しているさんまさんの笑顔を見て『ここで断られたら、機会を改めてお願いしても難しいだろうな』と思って、意を決して書籍化のことを伝えました」。さんまから「それはお前のやから、勝手にしたらええよ」と了承を得られ、晴れて書籍化となった。

■さんまを作った“師匠”“劇場”“フジテレビ” 42年間レギュラー途切れない訳

 こうした経緯を経て出版された“明石家さんま一代記”が、面白くないわけがない。さんまの言動をつぶさにチェックしてきたエムカク氏だからこそ、気づいたことがたくさんある。「その場にいる人たちを笑わせたいという思いからだと思いますが、さんまさんのお話には、事実とウソと脚色が複雑に混ざっていまして(笑)。同じエピソードでも登場人物が変わることもありますが、それをいろんな資料をもとに整理してまとめる…言葉にすると簡単に思えますが、同じエピソードで自分がまとめたものを突き合わせて、共通するところは間違いないかなと判断して、時期があいまいな部分については、その話の中に出てくる番組名などを手がかりにして、だいたいの年代をつかんでいきました。つぶさに、さんまさんの言葉を読みこみ、おそらくこうだろうと、まとめたものがこの本です。できるところまで突き合わせていって、精いっぱいの結論は出せたと思っています」。

 今回の書籍では、さんまの駆け出し時代の秘話がふんだんに盛り込まれているが、生涯にわたって“師匠”であり続けた笑福亭松之助さんとの出会いが、さんまの芸風と芸人人生の決め手となった。「さんまさんが『この人の言うことはなんでも聞こう』と思って、松之助さんから全部吸収していくことで、考え方も確立されていったのではないでしょうか。また、同時期に桂三枝(現:桂文枝)さんとも出会われて、三枝さんの番組でめちゃくちゃ鍛えられた経験も、大きくて…。これは僕の考えですが、三枝さんが『常に面白いことを考えておけ』とスパルタ指導したおかげで、80年代に訪れた漫才ブームで、コンビ芸人だけが売れていく中、さんまさんはピン芸人として乗り越えられたのではないかと思います」。

 “師匠”と並んで、さんまにとって大きな存在となったのは“劇場”と“フジテレビ”だ。「オール巨人さん、島田紳助さんが同期で、ちょっと上になりますが、ザ・ぼんちさん、のりお・よしお(西川のりお・上方よしお)さんといった方たちと若い頃から吉本興業の花月劇場(以下、花月)で切磋琢磨できていたことは、大きかったと思います。さんまさんは、本当に最高の環境で実戦の場でどんどん成長されてきたことがわかります。さんまさんは1978年からレギュラー番組が途絶えることなく、ずっときているのは、この時の実戦での経験が生きていると言っても過言ではないと思います。花月も1984年までは、月に20日間出演されていたのですが、その年の4月から出番が激減して、特別公演くらいしか出なくなったんです。さんまさんが自分自身で仕事を選択していくのがその辺りからなんです。師匠の影響もあるんですけど、自分は漫談よりもフリートークのほうが面白い、これからは雑談芸やということで、84年から『笑っていいとも!』のレギュラーになって、有名なタモリさんとのトークコーナーが始まったんです」。

 「フジテレビとの関係も、さんまさんに非常に大きな影響を与えています。東京に進出するタイミングで、ちょうどフジが『楽しくなければテレビじゃない』というスローガンを打ち出して(『オレたちひょうきん族』のディレクターだった)三宅恵介さんと出会われるんです。ピン芸人として『ひょうきん族』に入って、期せずしてブラックデビルをやって人気になって、1986年にビートたけしさんがフライデー事件を起こして謹慎された時は、さんまさんがいつも以上に奮闘されました。その翌年に『27時間テレビ』が始まって、さんまさんがタモリさんと司会をされたのですが、そこへ謹慎明けのたけしさんがやってきて、3ショットが実現して、これが“BIG3”のゴルフへとつながっていきました」

 「88年に大竹しのぶさんと結婚されてから、ちょっと人気が低迷していたと言われることが多いのですが、そんな評判を覆すきっかけのひとつとなったのが、91年の『27時間テレビ』で、たけしさんがさんまさんの愛車を車庫入れに失敗したフリをしてボコボコにした、いわゆる『車庫入れ事件』です。99年に、一旦BIG3での共演がなくなったのですが、その頃にしのぶさんと離婚後初めてトークで絡んで『さんま・しのぶ』という新しい形が生まれるのですが、それもフジテレビの番組でした。『明石家マンション物語』『スポーツするぞ!大放送』といった番組では、これまで壁を作っている感じがあった若手芸人のみなさんとも積極的に絡むようになって、『お台場明石城』という番組をきっかけとして『ホンマでっか!?TV』が生まれて、今さんまさんが一番元気で、集中力・反射神経も全部使ってやっている『さんまのお笑い向上委員会』で2010年代を迎える…といったように、節目にフジテレビの番組が関わっているように思えます」

■コロナ禍でも精力的に新たな開拓 いつでも笑いに向き合う「無難にこなすが一番嫌い」

 こうした縁をたぐり寄せるのも、さんまの芸人としての力量そのものだ。「リサーチャーとして参加させていただいた『誰も知らない明石家さんま』の昨年の収録現場でのことですが、3時間特番だったら、6時間回して、その間に10分休けいが2回あるんです。さんまさんって、基本ほとんどの番組で立ってやられますよね。その時僕も袖で立って見ていましたが、まぁー6時間立つのしんどいですよ。でも、さんまさん、収録合間の休けいらしい休けいは、お水を1回口に含んだくらいだったんです。それでいて、1時間前のこととかもしっかり覚えていて、この人に振ったらいいとか、とにかく全員に話をちゃんと振っていらっしゃいました。化学反応を起こしながら番組を楽しくしていくっていうのをひたすら続けている。体力も本当にすごくて、お笑いの能力を数値化すると、どれも抜群に高いのはもちろんなんですけど、その数値が年齢とともに減っていくことがない。バロメーターの数値が落ちないっていうのが、これまでの例にないことだと思います」。

 コロナ禍の影響を受けたものの、転んでもただでは起きないのが“さんま”だ。「さんまさんは本来であれば、3密が一番生きる場ですよね。春頃は『お笑い向上委員会』も一旦収録がなくて、総集編を放送することになったのですが、さんまさんはひとりだけ出演して、今まで活躍した芸人さんのVTRを見て賞を与えるという企画を行っていて、改めて番組にかける思いが伝わりました。あの番組は、本当に芸人さんだけでやられているので、たぶんですけど、さんまさんがやっていて一番楽しいんじゃないかと思います。僕も見ていて一番楽しいです。イベントなども中止になってしまいましたが、そういう中でアニメの制作の仕事もされていて、年末の旅行も行けなくなって、YouTubeをやってみようかともおっしゃっていて、まだまだ新しいことをやってみようということで、本当に元気ですよね(笑)」。

 エムカク氏がさんまを追い続ける原動力は、そこにある。「僕がこの作業ができているのも、さんまさんが毎年新しいことをやってくれるからです。いろいろな資料にあたる中で、さんまさんは“無難にこなす”っていうのが一番嫌いだと感じています。結果はどうあれ、常に面白いことにアタックしているんだなということをいつも見せてくれます。そういう姿がずっと見られるから、僕もずっと追いかけているのかなと。さんまさんは『全力でやらないと現状維持できない』とおっしゃっているんですけど、65歳になった今でも、それを体現されているので、すごくかっこいいですよね」。動きを止めない“明石家さんま”を追いかける、エムカク氏の壮大な研究はまだまだ続く。

【エムカク】1973年福岡県生まれ、大阪府在住。明石家さんま研究家。ライター。1996年より「明石家さんま研究」を開始。以降、ラジオやテレビ、雑誌などでの明石家さんまの発言をすべて記録し始める。その活動が、水道橋博士の目に留まり、2013年9月10日より「水道橋博士の『メルマ旬報』」で連載「明石家さんまヒストリー」をスタート。莫大な愛情と執念によって記録されたその内容は、業界内外で話題を呼んでいる。日本テレビ「誰も知らない明石家さんま」など、テレビ特番のリサーチャーも務める。『明石家さんまヒストリー1 1955〜1981「明石家さんま」の誕生』がデビュー作。

関連写真

  • 膨大な資料をもとに“明石家さんま”の歴史をひもとくエムカク氏 (C)ORICON NewS inc.
  • エムカク氏の資料(一部) (C)ORICON NewS inc.
  • 『明石家さんまヒストリー1 1955〜1981 明石家さんまの誕生』(新潮社)書影
  • エムカク氏

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