1990年代にTRFで一世を風靡し、今は音楽からタレント活動までマルチに活躍するDJ KOO(58)。現在DJ活動40周年を迎え、3月4日には“オドレルJ-POP”を自身がプロデュースしたアルバム『オドレーJAPAN! 〜歴代オドレルJ-POP 日本代表〜』を発売した。日本のダンスミュージックシーンを黎明期から知り尽くす彼がピックアップした古今の名曲38トラック。それらは、ダンス音楽がJ-POPの血肉となる進化のプロセス(歴史)を物語っている。40年間、DJブースからフロアを見続けてきた彼に、J-POPとダンスミュージックの関係性や、DJという存在のあるべき姿について語ってもらった。
■何でもありの選曲と「“しゃべり”で盛り上げる」…原点は新宿のディスコシーン
――DJ KOOさんがDJを始めたのは1980年代が幕を開けようとしていた頃。きっかけは何だったのですか?
【DJ KOO】もともとはロック少年だったんですが、ロックミュージシャンにはなれないなと思い、とりあえず語学系の専門学校に行かせてもらって。在学中にディスコに通いはじめたのがきっかけですね。当時の人気ディスコは一晩に2000〜3000人くらい集客があって、DJだけは自分の居場所を持ち、自分で選んだ曲をかけてお客さんを盛り上げている。“俺もあれをやりたい!”と思って、DJを目指しました。
当時、新宿は曲と“しゃべり”で盛り上げるスタイル。対して六本木はブラック・コンテンポラリーをかっこよく繋ぐスタイルが主流。僕は新宿のスタイルが好きだったんですよ。最初は上野のディスコで仕事をしていたんですが、先輩DJに新宿のサーファー・ディスコ「B&B」を紹介してもらって。オーディションでは、先輩に言われた通り、ブラザーズ・ジョンソンの「Stomp!」 、S.O.S.バンドの 「Take Your Time(Do It Right)」、マイケル・ジャクソンの「Off The Wall」をつないで合格しました。その頃のディスコは縦社会で、最初は見習い。僕は高校時代にラグビーをやっていたので、不条理な体育会系が得意だったんですよ(笑)。
――当時のディスコは最先端の音楽が聴ける場所でした。
【DJ KOO】80年代後半、90年代前半まではヒット曲がディスコから生まれていましたからね。レコード会社のプロモーターがサンプル盤を持ってきてくれて、いち早くかけて。ディスコで聴く音楽がいちばん“ナウい”ということですね(笑)。そのなかで僕がやりはじめたのが、リミックス。“サビをもっと長くすれば盛り上がる”“イントロのリズムを強くすれば、つなぎやすい”という感じでエディットしていたら、レコード会社から“ディスコ用の12インチシングルを作りたい”と言われ、dj hondaくんとリミックスチームを作ったんですよ。
――TheJG’sですね。リミックスという発想自体、当時の日本にはなかったのでは?
【DJ KOO】海外にはありましたけど、日本はまだまだでした。機材もそろっていなくて、最初のミックス・アルバムを作ったときは、24チャンネルのマルチトラック・レコーダーとDJミキサーを使ったんですよ。つなぎの部分はシーケンサーで音を作って、実際にレコードを回して…。最初期のDTMですよね。
――店でかけていた音楽はオールジャンルですか?
【DJ KOO】そうですね。ディスコ・クラシック、モータウン、ロックなど、いろいんなジャンルをかけていました。日本の曲もかけましたが、洋楽と並べて盛り上げるためには相当“強い曲”じゃないとダメなんです。なので、サザンオールスターズ、山下達郎さんなどの曲は人気がありましたね。杏里さんの「キャッツ・アイ」、アン・ルイスさんの「六本木心中」なんかも盛り上がったし、西城秀樹さんの「Y.M.C.A.」も定番でした。日本の曲をかけるのはチャレンジでしたが、上手くいったときは手ごたえがありました。
――その後はトランス、ユーロビートなどが流行します。
【DJ KOO】オールジャンル・ミックスの時代から、店によってジャンルが決まってきて、どんどん細分化したんです。それはそれでいいんだけど、東京はメトロポリスなので、大人数で盛り上がれる音楽が必要だった。それがトランスやユーロビートだったんですよね。
海外ではピート・ウォーターマン(デッド・オア・アライブ、カイリー・ミノーグなどを手がけ、ユーロビートを流行らせたプロデューサー)を中心にユーロビートのシーンがあり、巨大なイベントも行われていて。日本ではジュリアナ東京、ヴェルファーレなどが盛り上がっていましたね。4つ打ちビートの威力はすごかったし、ユーロビートの哀愁のあるメロディーも日本人好みだったんですよ。荻野目洋子ちゃんの「ダンシング・ヒーロー」、winkの「愛が止まらない」など、ユーロビートをカバーした曲もヒットしました。
そして、その後に登場したレイヴの文化を日本に持ち込んだのが、小室哲哉さんですね。
■日本生まれのダンスミュージックがヒット 小室哲哉氏の「革命」
――小室さんとの出会い、TRFでの活動もKOOさんにとって大きな出来事ですよね。
【DJ KOO】僕は洋楽志向だったし、小室さんのことは当初、“歌謡界の人”という印象だったんです。でも、実際にお会いして、そのイメージが大きく変わったんですよね。横浜ベイサイドクラブで小室さんがレイヴイベントをやったときに、店のスタッフから「DJをやらないか」とオファーをもらったんです。
それで小室さんのスタジオにあいさつにいったら、ミニモーグ(シンセサイザー)を使いこなして、自分で波形を操作しながら音を作っていて。まわりには見たこともない機材がたくさんあり、“この人は俺たち以上にマニアックだ…。すごいな”と。「明日もスタジオに来ていいですか?」とお願いして、それから半年くらい毎日通いました。ずっと制作を見て、エンジニアと一緒にトラックを整理しているうちに、「KOOちゃん、ラップできるんならやってよ」と言われ、それがTRFにつながったんです。
――TRFは1993年にデビュー。一気にブレイクします。
【DJ KOO】1枚目のアルバム(『trf〜THIS IS THE TRUTH〜』)は特別だったと思います。TM NETWORKや渡辺美里さんの「My Revolution」などで作曲家、メロディーメイカーとして知られていた小室さんが、洋楽のダンスミュージックとリンクした作品をリリースするのはすごいことだと。2ndの『EZ DO DANCE』も転機でしたね。制作中に小室さんが「このアルバムでアンダーグラウンドじゃなくなる」と仰ったんですよ。そのときは意味がわからなかったけど、本当にそうなりました。洋楽のカバーではなく、オリジナルのダンスミュージックをJ-POPシーンでヒットさせたのは革命だなと。
――KOOさんのキャリアを踏まえて今作『オドレーJAPAN!』を聴くと、日本のシーンにダンスカルチャーが根付いてきたプロセスを実感できますね。
【DJ KOO】まさにそうだと思います。ディスコやクラブのフロアで盛り上がるだけではなくて、家庭でも楽しめるアルバムなんですよ。この前も自分の家でかけていたら、妻が二十歳の娘に「『渚のシンドバッド』の振り付けはみんな踊れたのよ」と話していて。いろんな世代の方の青春も含まれているし、ヒューマナイズされているんですよね。
――リスナー一人一人の思い出とひもづいている、と。
【DJ KOO】ええ。レコード会社、メーカーの壁を越えて、いい曲を伝えたいという気持ちもありました。曲を作ってきたアーティストの方々は、“いつまでも聴いてもらいたい”と思っているはずだし、僕も“みんなに聴いてもらいたい”と思っていて。沢田研二さんの「TOKIO」は自分の青春だし、「これもぜひ入れたい!」って(笑)。曲のつなぎ方も、BPM(テンポ)を合わせるだけではなくて、印象的なイントロや歌を聴いてもらいながら、波を作ってるんですよ。いちばん意識しているのは、“聴く人が主人公”ということですね。
――DJでも楽曲でもなく、リスナーが主人公。
【DJ KOO】そうです。自分がかける音楽で大勢の人が盛り上がるのは最高ですけど、みんなが主役じゃないとダメなので。それは盆踊りでDJをやったときも(“お祭り”“盆踊り”を世界に発信するお祭りエンターテインメントユニット「UKOON」での活動)実感しました。音頭を取るのは自分なんですが、みんなが輪になって、踊るということがいちばん大事なので。その感覚は今、若いDJにも受け継がれていると思います。EDMがメインストリームになってからは特に、お客さんを煽るDJが増えてますからね。
■アイマスも盆踊りも…音楽愛を分かち合うには「現場のDJをやっていないとダメ」
――「UKOON」もそうですが、活動の幅がどんどん広がっている印象があります。昨年11月は『アイドルマスターシンデレラガールズ』のナゴヤドーム公演に出演し話題になりましたが、今やアイマス楽曲のプレイでファンからも支持されています。新たなフィールドに飛び込んでいくのがKOOさんのすごさだなと。
【DJ KOO】ありがとうございます。アイマスのナゴヤドーム公演はシークレット出演だったんですが、あえて様子を伺うことはせず、まずは自分が持っているものをすべて届けるつもりでプレイしました。会場に集まったみなさんが好きな音楽もその後かなり研究しましたね。辿り着くのはお互い“音楽が好き”ということに尽きるし、その気持ちを分け合うぜ!っていう気持ちです。好きなコンテンツに対して真剣な方ばかりなので、その点ではこっちだって負けない、だから本気で応えるということですね。
――オーディエンスとKOOさんの音楽愛を分かち合うというか。
【DJ KOO】はい。そのためには現場のDJをやっていないとダメなんです。遊びに来ている人たちを非現実に誘って、“楽しかった!”と思ってもらえる選曲ができないと。僕はスタイルを決めず、そのときにいちばんカッコいいと思える曲をかけるようにしています。最近はバラエティー番組などで顔を覚えてもらってるので、かなりドープな曲でも盛り上がってもらえるんですよね。TRFの曲もかけますが、原曲は90年代の音なので、半年に1回くらいリマスタリングしてるんですよ。
――“今の音”にアップデートしているんですね! 海外での活動に関してもビジョンはありますか?
【DJ KOO】ぜひやりたいですね。『ULTRA』『EDC』といったフェスに何万人が集まるのはすごいことだし、自分もそこに踏み出していきたいなと。そのときはアイドルマスターもかけちゃいますよ! “これが日本でバズってるんだぜ!”という曲をぶつけたいんですよね、日本のDJとして。昭和の時代は海外にコンプレックスがありましたが、いまは日本の音楽を海外のリスナーが喜んで聴いてくれている時代ですからね。
――期待してます! 最後に『オドレーJAPAN!』のCDジャケットについて。原哲夫先生の描き下したイラスト、ものすごいインパクトですね。
【DJ KOO】一緒にプロデュースしたDJ BLUEと「ジャケ買いできるようなCDにしたいね」と話して、ダメもとで原哲夫先生にお願いしたら、快諾していただいて。ぜひ手に取って楽しんでほしいですね。こんなときだからこそ、元気になれる曲で盛り上がってほしいなと。ぜひリビングをディスコフロアにしてご家族で踊って楽しんでほしいですね!
(ライター:森朋之)
■何でもありの選曲と「“しゃべり”で盛り上げる」…原点は新宿のディスコシーン
――DJ KOOさんがDJを始めたのは1980年代が幕を開けようとしていた頃。きっかけは何だったのですか?
【DJ KOO】もともとはロック少年だったんですが、ロックミュージシャンにはなれないなと思い、とりあえず語学系の専門学校に行かせてもらって。在学中にディスコに通いはじめたのがきっかけですね。当時の人気ディスコは一晩に2000〜3000人くらい集客があって、DJだけは自分の居場所を持ち、自分で選んだ曲をかけてお客さんを盛り上げている。“俺もあれをやりたい!”と思って、DJを目指しました。
当時、新宿は曲と“しゃべり”で盛り上げるスタイル。対して六本木はブラック・コンテンポラリーをかっこよく繋ぐスタイルが主流。僕は新宿のスタイルが好きだったんですよ。最初は上野のディスコで仕事をしていたんですが、先輩DJに新宿のサーファー・ディスコ「B&B」を紹介してもらって。オーディションでは、先輩に言われた通り、ブラザーズ・ジョンソンの「Stomp!」 、S.O.S.バンドの 「Take Your Time(Do It Right)」、マイケル・ジャクソンの「Off The Wall」をつないで合格しました。その頃のディスコは縦社会で、最初は見習い。僕は高校時代にラグビーをやっていたので、不条理な体育会系が得意だったんですよ(笑)。
――当時のディスコは最先端の音楽が聴ける場所でした。
【DJ KOO】80年代後半、90年代前半まではヒット曲がディスコから生まれていましたからね。レコード会社のプロモーターがサンプル盤を持ってきてくれて、いち早くかけて。ディスコで聴く音楽がいちばん“ナウい”ということですね(笑)。そのなかで僕がやりはじめたのが、リミックス。“サビをもっと長くすれば盛り上がる”“イントロのリズムを強くすれば、つなぎやすい”という感じでエディットしていたら、レコード会社から“ディスコ用の12インチシングルを作りたい”と言われ、dj hondaくんとリミックスチームを作ったんですよ。
――TheJG’sですね。リミックスという発想自体、当時の日本にはなかったのでは?
【DJ KOO】海外にはありましたけど、日本はまだまだでした。機材もそろっていなくて、最初のミックス・アルバムを作ったときは、24チャンネルのマルチトラック・レコーダーとDJミキサーを使ったんですよ。つなぎの部分はシーケンサーで音を作って、実際にレコードを回して…。最初期のDTMですよね。
――店でかけていた音楽はオールジャンルですか?
【DJ KOO】そうですね。ディスコ・クラシック、モータウン、ロックなど、いろいんなジャンルをかけていました。日本の曲もかけましたが、洋楽と並べて盛り上げるためには相当“強い曲”じゃないとダメなんです。なので、サザンオールスターズ、山下達郎さんなどの曲は人気がありましたね。杏里さんの「キャッツ・アイ」、アン・ルイスさんの「六本木心中」なんかも盛り上がったし、西城秀樹さんの「Y.M.C.A.」も定番でした。日本の曲をかけるのはチャレンジでしたが、上手くいったときは手ごたえがありました。
――その後はトランス、ユーロビートなどが流行します。
【DJ KOO】オールジャンル・ミックスの時代から、店によってジャンルが決まってきて、どんどん細分化したんです。それはそれでいいんだけど、東京はメトロポリスなので、大人数で盛り上がれる音楽が必要だった。それがトランスやユーロビートだったんですよね。
海外ではピート・ウォーターマン(デッド・オア・アライブ、カイリー・ミノーグなどを手がけ、ユーロビートを流行らせたプロデューサー)を中心にユーロビートのシーンがあり、巨大なイベントも行われていて。日本ではジュリアナ東京、ヴェルファーレなどが盛り上がっていましたね。4つ打ちビートの威力はすごかったし、ユーロビートの哀愁のあるメロディーも日本人好みだったんですよ。荻野目洋子ちゃんの「ダンシング・ヒーロー」、winkの「愛が止まらない」など、ユーロビートをカバーした曲もヒットしました。
そして、その後に登場したレイヴの文化を日本に持ち込んだのが、小室哲哉さんですね。
■日本生まれのダンスミュージックがヒット 小室哲哉氏の「革命」
――小室さんとの出会い、TRFでの活動もKOOさんにとって大きな出来事ですよね。
【DJ KOO】僕は洋楽志向だったし、小室さんのことは当初、“歌謡界の人”という印象だったんです。でも、実際にお会いして、そのイメージが大きく変わったんですよね。横浜ベイサイドクラブで小室さんがレイヴイベントをやったときに、店のスタッフから「DJをやらないか」とオファーをもらったんです。
それで小室さんのスタジオにあいさつにいったら、ミニモーグ(シンセサイザー)を使いこなして、自分で波形を操作しながら音を作っていて。まわりには見たこともない機材がたくさんあり、“この人は俺たち以上にマニアックだ…。すごいな”と。「明日もスタジオに来ていいですか?」とお願いして、それから半年くらい毎日通いました。ずっと制作を見て、エンジニアと一緒にトラックを整理しているうちに、「KOOちゃん、ラップできるんならやってよ」と言われ、それがTRFにつながったんです。
――TRFは1993年にデビュー。一気にブレイクします。
【DJ KOO】1枚目のアルバム(『trf〜THIS IS THE TRUTH〜』)は特別だったと思います。TM NETWORKや渡辺美里さんの「My Revolution」などで作曲家、メロディーメイカーとして知られていた小室さんが、洋楽のダンスミュージックとリンクした作品をリリースするのはすごいことだと。2ndの『EZ DO DANCE』も転機でしたね。制作中に小室さんが「このアルバムでアンダーグラウンドじゃなくなる」と仰ったんですよ。そのときは意味がわからなかったけど、本当にそうなりました。洋楽のカバーではなく、オリジナルのダンスミュージックをJ-POPシーンでヒットさせたのは革命だなと。
――KOOさんのキャリアを踏まえて今作『オドレーJAPAN!』を聴くと、日本のシーンにダンスカルチャーが根付いてきたプロセスを実感できますね。
【DJ KOO】まさにそうだと思います。ディスコやクラブのフロアで盛り上がるだけではなくて、家庭でも楽しめるアルバムなんですよ。この前も自分の家でかけていたら、妻が二十歳の娘に「『渚のシンドバッド』の振り付けはみんな踊れたのよ」と話していて。いろんな世代の方の青春も含まれているし、ヒューマナイズされているんですよね。
――リスナー一人一人の思い出とひもづいている、と。
【DJ KOO】ええ。レコード会社、メーカーの壁を越えて、いい曲を伝えたいという気持ちもありました。曲を作ってきたアーティストの方々は、“いつまでも聴いてもらいたい”と思っているはずだし、僕も“みんなに聴いてもらいたい”と思っていて。沢田研二さんの「TOKIO」は自分の青春だし、「これもぜひ入れたい!」って(笑)。曲のつなぎ方も、BPM(テンポ)を合わせるだけではなくて、印象的なイントロや歌を聴いてもらいながら、波を作ってるんですよ。いちばん意識しているのは、“聴く人が主人公”ということですね。
――DJでも楽曲でもなく、リスナーが主人公。
【DJ KOO】そうです。自分がかける音楽で大勢の人が盛り上がるのは最高ですけど、みんなが主役じゃないとダメなので。それは盆踊りでDJをやったときも(“お祭り”“盆踊り”を世界に発信するお祭りエンターテインメントユニット「UKOON」での活動)実感しました。音頭を取るのは自分なんですが、みんなが輪になって、踊るということがいちばん大事なので。その感覚は今、若いDJにも受け継がれていると思います。EDMがメインストリームになってからは特に、お客さんを煽るDJが増えてますからね。
■アイマスも盆踊りも…音楽愛を分かち合うには「現場のDJをやっていないとダメ」
――「UKOON」もそうですが、活動の幅がどんどん広がっている印象があります。昨年11月は『アイドルマスターシンデレラガールズ』のナゴヤドーム公演に出演し話題になりましたが、今やアイマス楽曲のプレイでファンからも支持されています。新たなフィールドに飛び込んでいくのがKOOさんのすごさだなと。
【DJ KOO】ありがとうございます。アイマスのナゴヤドーム公演はシークレット出演だったんですが、あえて様子を伺うことはせず、まずは自分が持っているものをすべて届けるつもりでプレイしました。会場に集まったみなさんが好きな音楽もその後かなり研究しましたね。辿り着くのはお互い“音楽が好き”ということに尽きるし、その気持ちを分け合うぜ!っていう気持ちです。好きなコンテンツに対して真剣な方ばかりなので、その点ではこっちだって負けない、だから本気で応えるということですね。
――オーディエンスとKOOさんの音楽愛を分かち合うというか。
【DJ KOO】はい。そのためには現場のDJをやっていないとダメなんです。遊びに来ている人たちを非現実に誘って、“楽しかった!”と思ってもらえる選曲ができないと。僕はスタイルを決めず、そのときにいちばんカッコいいと思える曲をかけるようにしています。最近はバラエティー番組などで顔を覚えてもらってるので、かなりドープな曲でも盛り上がってもらえるんですよね。TRFの曲もかけますが、原曲は90年代の音なので、半年に1回くらいリマスタリングしてるんですよ。
――“今の音”にアップデートしているんですね! 海外での活動に関してもビジョンはありますか?
【DJ KOO】ぜひやりたいですね。『ULTRA』『EDC』といったフェスに何万人が集まるのはすごいことだし、自分もそこに踏み出していきたいなと。そのときはアイドルマスターもかけちゃいますよ! “これが日本でバズってるんだぜ!”という曲をぶつけたいんですよね、日本のDJとして。昭和の時代は海外にコンプレックスがありましたが、いまは日本の音楽を海外のリスナーが喜んで聴いてくれている時代ですからね。
――期待してます! 最後に『オドレーJAPAN!』のCDジャケットについて。原哲夫先生の描き下したイラスト、ものすごいインパクトですね。
【DJ KOO】一緒にプロデュースしたDJ BLUEと「ジャケ買いできるようなCDにしたいね」と話して、ダメもとで原哲夫先生にお願いしたら、快諾していただいて。ぜひ手に取って楽しんでほしいですね。こんなときだからこそ、元気になれる曲で盛り上がってほしいなと。ぜひリビングをディスコフロアにしてご家族で踊って楽しんでほしいですね!
(ライター:森朋之)
コメントする・見る
2020/03/14