先月17日に肺炎のため亡くなった、ロックミュージシャンで俳優の内田裕也さん(本名・内田雄也 享年79)のお別れの会『内田裕也Rock’n Roll葬』が3日、東京・青山葬儀所で営まれた。裕也さんの長女・也哉子が喪主謝辞を務め、“ロック魂”で父への思いを語った。
也哉子は「私は正直、父をあまり良く知りません。わかりえないという言葉の方が正確かもしれません。けれど、それはここまでともに過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけでなく、母(樹木希林さん)が口にしていたように『こんなにわかりにくくてわかりやすい人はいない。世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也』というのが根本にあるような気がします」と切り出した。
続けて「私の知りうる裕也は、いつ噴火するかわからない火山であり、それと同時に溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、清々しく無垢(むく)な存在でもありました」と表現。「率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、干からびた骨と化してもなお、私の心は涙でにじむことさえ、戸惑っていました。きっと実感のない、父と娘の物語がはじまりにも気づかないうちに幕を閉じたからでしょう」と振り返った。
さらに「けれども、きょう、この瞬間。目の前に広がる光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。父親という概念には到底収まりきらなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた振動をみなさんは確かに感じ取っていた。『これ以上、お前は何を知りたいんだ』。きっと父もそう言うでしょう。そして、私は自問します。私が唯一父から教わったことは何だったのか。それはたぶん、大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません」と偲んだ。
最後は「79年という長い間、本当にお世話になりました。最後は彼らしく送りたいと思います。ファッキン裕也内田。ドント、レスト・イン・ピース。ジャストロッケンロール」と締めくくった。
裕也さんは1939年11月17日生まれで、兵庫県西宮市出身。1959年、日劇『ウェスタン・カーニバル』でデビュー以来、日本を代表するロックンローラーとして、また、映画の脚本やプロデュース、46回にもわたる年越しオールナイトイベント『NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL』をプロデュースするなど、生涯を通じ多くの活動を行ってきた。
也哉子は「私は正直、父をあまり良く知りません。わかりえないという言葉の方が正確かもしれません。けれど、それはここまでともに過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけでなく、母(樹木希林さん)が口にしていたように『こんなにわかりにくくてわかりやすい人はいない。世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也』というのが根本にあるような気がします」と切り出した。
続けて「私の知りうる裕也は、いつ噴火するかわからない火山であり、それと同時に溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、清々しく無垢(むく)な存在でもありました」と表現。「率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、干からびた骨と化してもなお、私の心は涙でにじむことさえ、戸惑っていました。きっと実感のない、父と娘の物語がはじまりにも気づかないうちに幕を閉じたからでしょう」と振り返った。
さらに「けれども、きょう、この瞬間。目の前に広がる光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。父親という概念には到底収まりきらなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた振動をみなさんは確かに感じ取っていた。『これ以上、お前は何を知りたいんだ』。きっと父もそう言うでしょう。そして、私は自問します。私が唯一父から教わったことは何だったのか。それはたぶん、大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません」と偲んだ。
最後は「79年という長い間、本当にお世話になりました。最後は彼らしく送りたいと思います。ファッキン裕也内田。ドント、レスト・イン・ピース。ジャストロッケンロール」と締めくくった。
裕也さんは1939年11月17日生まれで、兵庫県西宮市出身。1959年、日劇『ウェスタン・カーニバル』でデビュー以来、日本を代表するロックンローラーとして、また、映画の脚本やプロデュース、46回にもわたる年越しオールナイトイベント『NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL』をプロデュースするなど、生涯を通じ多くの活動を行ってきた。