誰からも好かれる稀有な存在の人気タレントであり名優である大泉洋が、かつての自身の姿と、それまでの人生から一歩を踏み出した瞬間までを赤裸々に語ってくれた。斜に構えていた子どものころから中高校時代、演劇を始めて多くのことがうまく転がった大学時代、東京で役者の仕事を始めた30代のひとつの転機――。
◆北海道での活動にこだわった理由
大泉の最新主演作は、芸人・劇団ひとりが自ら初監督を務め、自著を映画化した『青天の霹靂』(5月24日公開)。いつも陽気で明るい、自身に共通するような人柄を演じることが多い印象の大泉だが、同作の暗いシーンが多い前半では、憂鬱な雰囲気に覆われる主人公・晴夫を演じている。
「晴夫は、人生で何をしてもうまくいかなくて、それを両親のせいにしている人なんですけど、僕はそういうところがなくて。仕事に関しても自分の実力以上に周りから認めてもらえてきた人生なので、晴夫の境遇には共感するところはあまりないんですけど、だからと言って晴夫の気持ちがわからなくはないんです。僕の場合は、両親に愛情をかけてもらったぶん、それに背いたりダメな道を歩んでしまったときに、愛情を裏切ったようで申し訳なく思うことがあります。そういう感覚として、わかる気がしました」
これまでに大泉の憂鬱な部分というのはあまり見たことがない気がするが、所属事務所の会長であり、バラエティ番組『水曜どうでしょう』(HTB)で共演する鈴井貴之氏は、著書のなかで大泉を「不機嫌とまでは言わないが、どこか世の中を斜に構えながら見ている風であった」と書いている。
「どうだろうなあ。そんなつもりはなかったんですけどね。やる気がないわけじゃないんだけど、野望を語ったり、熱いところを見せたくないんですよ。それが、会長にはそういう風に見えたのかも。確かに中学や高校の頃は学校祭などの行事で人前で笑いを取るようなパフォーマンスを見て、実はうらやましいんだけど斜に見ているところはあったかもしれないですね。僕は子どものころからおもしろかったし、中学、高校でもおもしろかったんですが(笑)、でも人前に立つのは嫌いで、自分からアクションを起こす奴ではなかったんです。だから、部活の発表会みたいなときに人前に立っている人を見て、『そんなにおもしろい?』なんて思ってる嫌な奴でしたねー(笑)。人前に積極的に立ってみようと動いたのは、大学で演劇を始めたときくらいです。それまでは、晴夫に似た部分もあったかもしれません」
高校時代までのそんな陰の部分もあった大泉を変えたのは、大学で始めた演劇がきっかけだった。その一歩がひとつの大きな転機となり、今に続く道を歩みだした。そのときの思いを感慨深げに振り返る。
「初めて知らない人の前で自分の笑いが通用するか試そうと思ったんです。今思えば、大学で演劇研究会に入ったことが、僕の踏み出した唯一の一歩かもしれない。で、初めて舞台に立ったわけですが、やっぱりウケるんですよ(笑)。笑わせるつもりがないシーンでも笑いが起きちゃって、演出家に怒られたり。あの頃は“笑気”を制御できませんでした(笑)。その舞台がきっかけでもうテレビに出始めて、在学中に『水曜どうでしょう』も始まり、あっという間に北海道での知名度も上がりました。でも、もうひとつ僕が踏み出した一歩があるとするなら、30歳くらいのときに東京で役者の仕事を始めたことですかね」
大学時代から舞台が人気を呼び、テレビバラエティにも出演し一躍ブレイク。しかし、その後も北海道にこだわって活動を続けていた大泉。当時の想い、そして30代になって東京進出を決意したウラにあったものとは。
「僕の昔の座右の銘は“人生半身浴”だったんです。もちろん、そんな言葉はないんですけどね。背伸びしても仕方がない、自分にできることを楽しく緩くやっていけばいい、自分を追い込まないでいいと思っていたんです。だから、当時は北海道でみんなによくしてもらって、仲間もいて、いい番組もあって、それを捨ててまで東京に行く理由はないと思っていました。でも、あるとき、このまま北海道のバラエティに出続けていくだけで、果たして北海道の人は見続けてくれるのだろうか、応援し続けてくれるのだろうかって考えたんです。今のままで満足しているだけでは現状すら維持できない、そう考えたときに、お芝居をきちんとやってみようと思いました。それで事務所の人と話し合って、東京で役者の仕事をしようということになったんです。それが30代でした」
◆辞める美学よりもボロボロになっても続ける美学
劇団ひとりは『青天の霹靂』で一緒に仕事をするまで、大泉のことを“ノリで生きている人”だと思っていたという。しかし、大泉は自身を“慎重な男”と分析する。バラエティやトーク番組で観る大泉の姿からは慎重というイメージが全く沸かないが、こうしてじっくりと話を聞いているなかでは、その雰囲気はじわじわと感じられる。
「慎重な男で、破天荒なところはないです。バラエティとかでも、ほかの出演者に何か言われたことに対してツッコんでいるだけです(笑)。子どものころからバラエティ番組を見続けて、漫談や落語を聴いて、勝手に大リーグ養成ギブスを身に着けていた感じですから、ツッコミとか話の間とかが自然と身についてしまっているんですね。でもだからってお笑い芸人という生き方を選べるかというと、僕には笑いしか無かっただけに、それを仕事にする勇気は無かったんですよね」
俳優業だけではなく、すべての仕事に真摯に向き合い、メディアでの派手な活躍のウラの見えないところで努力を積み重ねるストイックな姿は容易に想像できる。すべてはファンに喜んでもらうため。そのために“続ける”ことが大泉の美学だった。
「何事も続けることがすごく好きなんですよ。だって、辞めるのは簡単じゃないですか。僕は時間に勝るものはないと思っていて。15年かけて作ったものは、やっぱりそれだけ時間をかけた価値があるんです。ほかの人がそこに15年かけられるかどうかもわからないわけで。TEAM NACSも2011年に15周年でした。ケンカもたくさんあったけれどまだ続けています。いいときに解散すれば伝説にもなるし、世間的にはカッコいいと思われるかもしれない。でも僕は、ケンカしながらでも続けていくほうがいい。辞める美学よりも、ボロボロになっても続ける美学のほうがカッコいいと思うんです。うちの劇団も、50歳になったときに、どんな関係性で何をやるのかなということに興味があります。役者も同じで、僕みたいなものでも続けていくことで、何かもっといい演技ができるんじゃないかっていう淡い期待を常に持っているんです」
◆大泉洋インタビュー『僕が踏み出した唯一の一歩』
◆北海道での活動にこだわった理由
大泉の最新主演作は、芸人・劇団ひとりが自ら初監督を務め、自著を映画化した『青天の霹靂』(5月24日公開)。いつも陽気で明るい、自身に共通するような人柄を演じることが多い印象の大泉だが、同作の暗いシーンが多い前半では、憂鬱な雰囲気に覆われる主人公・晴夫を演じている。
これまでに大泉の憂鬱な部分というのはあまり見たことがない気がするが、所属事務所の会長であり、バラエティ番組『水曜どうでしょう』(HTB)で共演する鈴井貴之氏は、著書のなかで大泉を「不機嫌とまでは言わないが、どこか世の中を斜に構えながら見ている風であった」と書いている。
「どうだろうなあ。そんなつもりはなかったんですけどね。やる気がないわけじゃないんだけど、野望を語ったり、熱いところを見せたくないんですよ。それが、会長にはそういう風に見えたのかも。確かに中学や高校の頃は学校祭などの行事で人前で笑いを取るようなパフォーマンスを見て、実はうらやましいんだけど斜に見ているところはあったかもしれないですね。僕は子どものころからおもしろかったし、中学、高校でもおもしろかったんですが(笑)、でも人前に立つのは嫌いで、自分からアクションを起こす奴ではなかったんです。だから、部活の発表会みたいなときに人前に立っている人を見て、『そんなにおもしろい?』なんて思ってる嫌な奴でしたねー(笑)。人前に積極的に立ってみようと動いたのは、大学で演劇を始めたときくらいです。それまでは、晴夫に似た部分もあったかもしれません」
高校時代までのそんな陰の部分もあった大泉を変えたのは、大学で始めた演劇がきっかけだった。その一歩がひとつの大きな転機となり、今に続く道を歩みだした。そのときの思いを感慨深げに振り返る。
「初めて知らない人の前で自分の笑いが通用するか試そうと思ったんです。今思えば、大学で演劇研究会に入ったことが、僕の踏み出した唯一の一歩かもしれない。で、初めて舞台に立ったわけですが、やっぱりウケるんですよ(笑)。笑わせるつもりがないシーンでも笑いが起きちゃって、演出家に怒られたり。あの頃は“笑気”を制御できませんでした(笑)。その舞台がきっかけでもうテレビに出始めて、在学中に『水曜どうでしょう』も始まり、あっという間に北海道での知名度も上がりました。でも、もうひとつ僕が踏み出した一歩があるとするなら、30歳くらいのときに東京で役者の仕事を始めたことですかね」
大学時代から舞台が人気を呼び、テレビバラエティにも出演し一躍ブレイク。しかし、その後も北海道にこだわって活動を続けていた大泉。当時の想い、そして30代になって東京進出を決意したウラにあったものとは。
「僕の昔の座右の銘は“人生半身浴”だったんです。もちろん、そんな言葉はないんですけどね。背伸びしても仕方がない、自分にできることを楽しく緩くやっていけばいい、自分を追い込まないでいいと思っていたんです。だから、当時は北海道でみんなによくしてもらって、仲間もいて、いい番組もあって、それを捨ててまで東京に行く理由はないと思っていました。でも、あるとき、このまま北海道のバラエティに出続けていくだけで、果たして北海道の人は見続けてくれるのだろうか、応援し続けてくれるのだろうかって考えたんです。今のままで満足しているだけでは現状すら維持できない、そう考えたときに、お芝居をきちんとやってみようと思いました。それで事務所の人と話し合って、東京で役者の仕事をしようということになったんです。それが30代でした」
◆辞める美学よりもボロボロになっても続ける美学
劇団ひとりは『青天の霹靂』で一緒に仕事をするまで、大泉のことを“ノリで生きている人”だと思っていたという。しかし、大泉は自身を“慎重な男”と分析する。バラエティやトーク番組で観る大泉の姿からは慎重というイメージが全く沸かないが、こうしてじっくりと話を聞いているなかでは、その雰囲気はじわじわと感じられる。
「慎重な男で、破天荒なところはないです。バラエティとかでも、ほかの出演者に何か言われたことに対してツッコんでいるだけです(笑)。子どものころからバラエティ番組を見続けて、漫談や落語を聴いて、勝手に大リーグ養成ギブスを身に着けていた感じですから、ツッコミとか話の間とかが自然と身についてしまっているんですね。でもだからってお笑い芸人という生き方を選べるかというと、僕には笑いしか無かっただけに、それを仕事にする勇気は無かったんですよね」
俳優業だけではなく、すべての仕事に真摯に向き合い、メディアでの派手な活躍のウラの見えないところで努力を積み重ねるストイックな姿は容易に想像できる。すべてはファンに喜んでもらうため。そのために“続ける”ことが大泉の美学だった。
「何事も続けることがすごく好きなんですよ。だって、辞めるのは簡単じゃないですか。僕は時間に勝るものはないと思っていて。15年かけて作ったものは、やっぱりそれだけ時間をかけた価値があるんです。ほかの人がそこに15年かけられるかどうかもわからないわけで。TEAM NACSも2011年に15周年でした。ケンカもたくさんあったけれどまだ続けています。いいときに解散すれば伝説にもなるし、世間的にはカッコいいと思われるかもしれない。でも僕は、ケンカしながらでも続けていくほうがいい。辞める美学よりも、ボロボロになっても続ける美学のほうがカッコいいと思うんです。うちの劇団も、50歳になったときに、どんな関係性で何をやるのかなということに興味があります。役者も同じで、僕みたいなものでも続けていくことで、何かもっといい演技ができるんじゃないかっていう淡い期待を常に持っているんです」
◆大泉洋インタビュー『僕が踏み出した唯一の一歩』
2014/05/17