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ORICON NEWS
YOSHIKI「弱い自分を倒せたらなんだって倒せる」
心に傷を負った人を救えるかもしれない、そう思えた
X JAPAN&YOSHIKI伝説(一部)
!自身が設立したレーベルから「LUNA SEA」「GLAY」らを輩出、日本でのビジュアル系ムーブメントを作った
!日本でヘヴィ・メタルジャンルを一般リスナーに広めた
!CDセールスは累計3000万枚以上
!東京ドーム公演18回すべてがソールドアウト、100万人を動員
!天皇陛下即位10周年記念『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』のための奉祝曲を作曲、演奏した
!アメリカ最大のHR/HMの祭典『第4回ゴールデン・ゴッズ・アワード』にアジアのバンドとして初めてノミネートされ、ベスト・インターナショナル・バンド賞を受賞
!ハリウッド映画『SAW IV』のテーマソングに「I.V.」が採用される
!アメコミ界の巨匠、スタン・リーがYOSHIKIを主人公にした「ブレッド・レッド・ドラゴン(邦題:ブラッド)」を発表
!米・映画とTVドラマの祭典「ゴールデングローブ賞」のテーマソングをYOSHIKIが作曲
!「Born to be free」が英音楽情報誌のWEBサイトで限定公開された日、サーバーが1日5回パンク
!2016年NHK紅白歌合戦で「シン・ゴジラ」を歌の力で撃退。世界で唯一、ゴジラを倒したバンドに
!世界音楽聖堂「カーネギー・ホール」「マディソン・スクエア・ガーデン」英「ウェンブリー・アリーナ」を制覇。アジア発ミュージシャンとして初の快挙となる
!ハリウッドが制作したドキュメンタリー映画『WE ARE X』が20カ国以上の映画祭に出典。米・サンダンス映画祭で最優秀編集賞、SXSW映画祭でデザイン部門観客賞を受賞
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!日本でヘヴィ・メタルジャンルを一般リスナーに広めた
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!2016年NHK紅白歌合戦で「シン・ゴジラ」を歌の力で撃退。世界で唯一、ゴジラを倒したバンドに
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!ハリウッドが制作したドキュメンタリー映画『WE ARE X』が20カ国以上の映画祭に出典。米・サンダンス映画祭で最優秀編集賞、SXSW映画祭でデザイン部門観客賞を受賞
「実は、20年以上前から、X JAPANのドキュメンタリーを作るべきだと多くの方から言われていたんです。今回の映画は、7〜8年くらい前かな…アメリカの僕のエージェントであり友人でもある人から、映画を作るべきだと言われました。ドキュメンタリーなのか、誰かが演じるドラマなのかは置いておいて、とにかく作るべきだと。興味はあったんですが、あまりにも悲しく苦しい過去があったので、やはり無理だと断ったんです。
1997年、東京ドームの解散ラストライブは30台を超える数のカメラで記録していました。当時のレーベルの人たちがライブ1年後くらいに「なんでラストライブの作品をリリースしないのか?」と、言いに来たこともありました。でも、見られないんです。悲しくて。最初の数分で涙が出てしまう。一部を切り取るだけでも過去を振り返ることができないのに、バンド全体のストーリーなんて無理に決まっている。そんな風に、何年もいろいろな人と「映画化はできない」という会話をしてきたんです。
ですが、最近になって、「X JAPAN」のストーリーは人の命を助けることもできるんじゃないか、心に傷を負った人を救うことができるんじゃないか、という意見を聞くようになりました。僕たちは進行形で活動をしていますし、そういう趣旨の作品なら作ってみようという方向に変わってきたんです」
苦しみ、悲しみは乗り越えずに「共存」していく
「まず、“人に希望を与えられるものにしたい”ということがこの映画の“芯”だったので、単純なミュージックドキュメンタリーにして欲しくはなかった。ここまでの事件、壮絶なドラマを体験してしまった以上、それらをしっかりと描くということが僕らに与えられた使命ということで始まりました。ですが、インタビューにしても、最初はなかなか過去のことをしゃべれない。聞かれても黙ってしまって中断を繰り返して…なかなか核心を話せませんでした。制作期間はとても長かったので、1カ月くらいをおいて再度映画のインタビューを受けた時に、自分の中のある変化に気づいたんです。
HIDEが亡くなった時に、僕はリーダーとして日本に帰ってきてファンの人を励ます役をしたんです。その後ロスに帰ったら心が完全にぶっ壊れてしまって、精神科の医師のセラピーを受けていました。「生きていたくない」と。当時は医師に「分かるよ」なんて言われると頭にきて帰ったりしていました。「俺の気持ちなんて誰にも分かるわけがない!」って。
「誰かを救えるような映画にしてほしい」。その映画が救ったのは、YOSHIKI自身でもあった。