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「新宿ロフト」30周年!日本のロックシーンに与えてきた影響

 76年10月、ライブハウス「新宿ロフト」は東京・新宿西口に開店。今年で30年。新宿ロフト30周年を記念してレコードメーカー5社から全5タイトル(各2枚組)、総収録曲150曲の企画コンピレーションが発売される。これは日本ロック史であり、ルーツ・オブ・J-POP大全。情熱の轍であり、一大叙事詩。ロフトの歴史は日本のロックの歴史でもある。「新宿ロフト」が日本のロックシーンに与えてきた影響とは何か。
LOFT PROJECT代表小林茂明氏と元ルースターズで現在スピードスターミュージック代表の安藤広一氏が「新宿ロフト」30年を語る。

ロックが産業として成立する前夜、文化の発信地・新宿に生まれる

――76年のオープニングセレモニーの出演者リストを見ると、新宿ロフトがまさに音楽の坩堝だったことがわかります。
安藤
 地下にあったロフトそのものが坩堝でしたから。
小林 僕は81年入社ですが、諸先輩方から70年代の逸話をうかがうと、新宿ロフト開店は必然と思えます。ジャズ喫茶のような烏山ロフト(千歳烏山)から始まったわけですが、そもそもはたまり場だったそうです。ときに侃々諤々と議論を戦わせるような。ところが、酔った誰かが置いてあったピアノを弾き、いつしかたまり場の楽しさと生音楽の楽しさが一緒になった。その居心地のよさに惹かれ、余計に人が集まるから、手狭になり、西荻窪ロフトが生まれた。同じ頃、日本語ロックが台頭し、その音楽的潮流から荻窪や下北沢のロフトが生まれ、とうとう文化の発信地だった新宿へ行き着いたと。だから、坩堝のような出演者も必然だったのではないでしょうか。ロフトの必然、時代の必然。

――老舗の新宿ルイードを意識されていましたか。
小林
 あちらのほうが小奇麗でした。常識的というか。ロフト入社前、田舎から上京したての頃、ルイードにも行きました。でも、一歩踏み入れた瞬間、違和感を覚えましたから。あくまでも個人的な皮膚感覚ですが。逆に、ロフトは地下への階段をおりた瞬間、ここだ!と思いました。ここで働きたいと。だから、両店はきっと生まれながらにして異質だったのではないでしょうか。80年代に入ると、その傾向がさらに強まりましたが。
安藤 パンクバンド出演の有無も、両店の質感の差を決定づける要素だったと思います。70年代

スピードスター・ミュージック 代表取締役 安藤広一氏

LOFT PROJECT 代表取締役 小林茂明氏
末は、パンクが市民権を得ていない時代でしたから。ロフトは、そうした音楽にも積極的だから、インディペンデントな匂いが強かった。

――その匂いは現在も失われていませんね。
小林
 経営者感覚では、集客力のあるバンドやミュージシャンを出演させたいのは当然です。ただ、ロフトのDNAというか、たまり場感覚からすると提案したい。こんな音楽もあるよと。そこのバランスは常に心がけてきたつもりです。たとえば80年代末のバンドブームの頃、マスメディアがイカ天だの、ホコ天だのと飛びついていた頃、もっと刺激的なバンドがいると、自分達の手で提案したい思いが強かったし。そういうところも、インディペンデントな匂いにつながっているかもしれません。日本のロックが産業として成立する前夜の80年代は、終演後にバンドメンバーとも語り合っていました。音楽論や人生論も。お互いそこで気づくことや知ることもありました。全員が暗中模索。店側やバンドも、新人発掘にきているレコード会社担当者や事務所スタッフも。

ミュージシャンが“ロフトは学校のようだった”と言ってくれた

――90年代の傾向はどういうものでしたか。
小林
 レーベル主催のイベントが活性化しました。現在のインディーズの前身のような、まだオーガナイズされていないレーベルでしたが。そこでもまた暗中模索があり、混沌とした面白さがありました。インディーズシーンの成熟と共に、徐々に理路整然としていくわけですが。
安藤 90年代のはじめあたりでしたかね、“チケットのノルマ”という言葉が当然のように言われるようになったのは。バンドブームのひとつの弊害だったのかもしれませんが。

――“チケットのノルマ”は、ライブハウス側にしたら、極端な話、観客ゼロでも損をしない。
小林
 そうなると、単なる箱貸し業。そうしたビジネスもあるでしょうが、ライブハウスは新しい音楽の発信源だという根本が欠落してしまっている気もしますが。
安藤 精神もしくは理念は必要。経営も大事だけど、ライブハウスならそこも大事にしてもらいたい。バンドやミュージシャンが、自分達の原点だと思える場所にならないと。たとえばロフトなら、終演後の打ち上げと称した、出演ミュージシャンとお客さんが一緒の飲み会をやっていました。そうすると、直接言われるわけですよ、“今日のあの曲はどうだった”とか。耳の痛いことも。だけど、ある意味、財産ですから。このスタイルは、今や各地のライヴハウスでも一般的になっていると思います。
小林 うちの場合、そのバンドのファンじゃない、ロフトに遊びに来たお客さんまで一緒になり、収拾がつかないこともありましたが。そういう記憶も含め、ミュージシャン達が“ロフトは学校のようだった”と言ってくれるのだと思います。
安藤 きれい事に聞こえるかもしれませんが、そのバンドやそのアーティストへの愛情を持つか否か。音楽への愛情と言ってもいいし。そうしたライブハウスと無関心なライブハウスが両極端になっているのかもしれません。愛情があれば、このバンドとこのバンドを組み合わせようとか、ブッキングにも工夫を凝らすだろうし。それこそがプロデュースワーク。もちろんバンド側にも、ノルマがあろうがなかろうが、満員にしてやるくらいの気概は持って欲しい。
小林 ロフトの場合、その時代毎にブッキングを担当していたスタッフは信念を持っていました。このバンド、このシーンを発信したいという情熱を。


――では、2000年代になってからの傾向はどういうものでしょうか。
小林
 ジャンルにもよりますが、お客さんがいろいろな音楽、たとえばお目当てのバンド以外にも興味を持つ傾向が強まっています。見たい聴きたいバンドが終わったら帰るのは悪いことではないですが、90年代前半のヴィジュアル系バンドの場合は、帰るのがマナーのようになっていましたから。自分達が応援するバンド以外を観ないことが、そのバンドへの愛情の証というか。それでも、僕ら側は、もっと他のバンドにも興味を広げてもらいたいから、一生懸命頭を捻っていました。その時代に比べると、最近のお客さんはジャンルレス。知らないジャンルやバンドでも、偏見なく受け止めてくれているみたいです。その背景には、インディーズシーンの充実もあり、出演バンド側もジャンルレスの傾向が強まっています。
安藤 その若い才能には嫉妬すら覚えます。
小林 ジャンルレスという意味では、クラブシーンとライヴハウスの融合も可能性を感じます。

圧倒される新宿ロフト出演者リスト

――新宿ロフトの30年を凝縮したコンピレーションアルバムが発売されます。
小林
 まとまった音源を聴き直し、改めて思ったのは、ライブで強いバンドやアーティストは寿命が長いということ。最近は、まったくライブを意識していないバンドのデモテープも届きますけど。30人編成じゃないと、再現できないような音の。でも、基本はライヴ。もうひとつ再認識した点は、“なにかしらあふれ出ている音楽達”ということ。そのバンドやそのミュージシャンの根底にあるものがあふれ出している音楽ばかりです。
安藤 何かがあふれ出している音楽に惹かれるし。この魅力は何だ!? なぜ僕らはドキドキするんだ!? それが最高の賛辞だと、僕は思っています。新宿ロフトが提案してきた音楽も、そういうものだったし。
小林 音楽からあふれ出してくるものに触れたとき、僕らも発信せずにはいられなかったというか。安藤 正直な話、宣伝展開を考えたとき、当初は“80年代のロックキッズへ”という方向性が見えましたが、それだけでは収まらないラインナップでした。新宿ロフト出演者リストを見ただけでも圧倒されました。年代別やジャンル別のコンパイルを、一応は試みましたが、案の定無理でした。だから、30年前に始めた方の意見にも耳を傾けるけど、今の現役スタッフの声を尊重しようと。30周年とは、歴史でもあるけど、今現在の出来事だから。ただ、最大限150曲という枠が決まっていたので、10000曲以上からのセレクトは過酷な作業でした。151番目の曲も収録したいと思うし。まさに日本代表23名を選ぶジーコ監督の心境。
小林 何回もリストを作り直しながら、最終的には“自分達が聴きたい”を基軸にしないと、薄っぺらなものになると思いました。自分達が好きなバンドを発信してきたのと同じです。
安藤 マスタリングの段階になってから、契約上収録不可能という決定が出た楽曲もありました。まさにギリギリの作業。でも、プラスに捉えるなら、その空いた場所に151番目の楽曲や、自分達の思い入れが強い楽曲を挿し込めるわけです。インディペンデントやサブカルな匂いを強めるチャンスでもあると。

――収録曲リストを見ると、50代のユーザーにもアピールできそうですが。
安藤
 だから、まずは新聞に載せたいと、各メーカーの宣伝担当者の方々にお願いしました。新聞の次が、中高年の読む週刊誌。ロックに限らず、音楽と離れてしまっている層を呼び戻したいから。仕事が忙しく、ゴルフや株に興味が行っているような潜在的音楽ファン層に振り向いてもらいたい。いわばiPodがなぜか気になるおやじ達です。実際に使っているか否かは別としても、かつて新宿ロフトに興味あったり、足を運んだり、その名前を覚えていたり、この収録曲に興味を持っていた方々なら、そのセンスは絶対にあると思いますから。格好良いでしょ、40代や50代のおやじ達がこういう曲をiPodで聴いているなんて。
小林 理想を言うと、新宿ロフトという言葉だったり、今回の30周年記念コンピレーションアルバムが、親子のコミュニケーションツールになってくれると嬉しいです。そこに30年続いた新しい意味も出てくるし。“え!?おやじもロフトに行ってたの”“この曲知ってるか”とか。
安藤 大人だけのアルバムでもないし、子供向けでもない。親子が聴き合える、語り合えるアルバムです。
(インタビュー・文/藤井徹貫)

新宿ロフトの歴史
■76年10月 新宿西口に、65坪・キャパ300人のライヴハウス「新宿ロフト」オープン。
■92年4月 「新宿ロフト」ビルオーナーより立ち退きを命じられる。
■94年3月 新宿ロフト立ち退き問題、東京地裁でロフト敗訴の判決、即日控訴。
■94年4月 「新宿ロフトと音楽文化を守る会」結成され、署名運動が行われる。
■94年11月 プロダクション業務を行う「ピンクムーン」設立。
■95年4月 新宿ロフト立ち退き問題、和解成立。新ビル建設の際には再入居を前提にすることで決着。
■95年7月 トークライヴハウス「ロフトプラスワン」オープン。
■97年1月 ロフト/シェルター・プロデュースのライヴ音源をメインにしたインディーズ・レーベル「ロフトレコード」設立。
■97年7月 オープン20周年記念イベント「ROCK OF AGES 1997」開催。同月24日には日本武道館で「LOFT 20th ANNIVERSARY ROCK OF AGES1997」開催。
■99年4月 歌舞伎町に移転、「Rockin Communication新宿ロフト」としてリニューアルオープン。
■04年12月 新宿・職安通りに「ネイキッドロフト」オープン。
■06年 30周年記念イベント「SHINJUKU LOFT 30th ANNIVERSARY ROCK OF AGES2006」を1年間にわたり開催。

※『ROCK is LOFT SHINJUKU LOFT 30th ANNIVERSARY』資料より抜粋
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