2日に慢性閉塞性肺疾患のため81歳で亡くなった落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名:椎名巌=しいな・いわお)さんの告別式が11日、神奈川・横浜の妙蓮寺で椎名家・落語芸術協会の合同にてしめやかに営まれた。歌丸さんの師匠で、落語芸術協会の最高顧問・桂米丸(93)、落語協会の会長・柳亭市馬(56)、『笑点』を代表して林家木久扇(80)が弔辞を読み上げた。
米丸は「思い出は数限りなくあります。意思の強い、真面目な人でした。『笑点』で看板になって、そこでどっこいしょと休みたくなりますけど、そこで溺れず落語をやろうと取り組んでいました」と回顧。晩年は闘病しながらも高座に立ってきたが「『この人は、死ぬまでやるぞ』と、私はその真剣さにホロリとしました。『笑点』をやりながら、自分の好きな古典もじっくりやる。お見事でした。今度はどうぞゆっくりお休みください」と天を仰いだ。
一方、市馬は「師匠の落語は聞く人みんなを穏やかにするものでした。長い間、よい噺(はなし)、すばらしい噺をありがとうございました」と感謝。木久扇も「6月20日に師匠のお見舞いに行った時は、まだ意識がはっきりしていらっしゃって、発声練習の紙を見せてくれて『パンダの食事はパンだ』というのをやっていると、手振りを交えて教えてくれました。また元気になってやってくれるんだと思っていました。私の頭の中では楽しかったことしかありません。とにかく忙しい師匠だったので、ごゆっくりお休みになってください」と思いを伝えた。
友人代表のあいさつを担当した中村吉右衛門(74)は、目に涙を浮かべながら「師匠のご訃報をテレビで知った時は本当にショックですみません、歳をとると涙腺がゆるくなってしまいまして。師匠は落語を残し、落語のお客様を残し、やるべきことをすべてやりつくしました。ひとり勝ちです。師匠、勝ち逃げはズルいよ。本当にお疲れ様でした」と追悼。三遊亭小遊三(71)が謝辞として「これから一人ひとりが力をつけて、確固たる落語芸術協会を作っていくつもりです」と呼びかけていた。
法名は「眞藝院釋歌丸(しんげいいんしゃくかがん)」。横浜の海をイメージした祭壇には、菊、胡蝶蘭、デルフィニウムなど2500〜3000本の花で彩られた。遺影には、3年前の8月に国立演芸場で高座に上がった時の写真が使われた。
米丸は「思い出は数限りなくあります。意思の強い、真面目な人でした。『笑点』で看板になって、そこでどっこいしょと休みたくなりますけど、そこで溺れず落語をやろうと取り組んでいました」と回顧。晩年は闘病しながらも高座に立ってきたが「『この人は、死ぬまでやるぞ』と、私はその真剣さにホロリとしました。『笑点』をやりながら、自分の好きな古典もじっくりやる。お見事でした。今度はどうぞゆっくりお休みください」と天を仰いだ。
一方、市馬は「師匠の落語は聞く人みんなを穏やかにするものでした。長い間、よい噺(はなし)、すばらしい噺をありがとうございました」と感謝。木久扇も「6月20日に師匠のお見舞いに行った時は、まだ意識がはっきりしていらっしゃって、発声練習の紙を見せてくれて『パンダの食事はパンだ』というのをやっていると、手振りを交えて教えてくれました。また元気になってやってくれるんだと思っていました。私の頭の中では楽しかったことしかありません。とにかく忙しい師匠だったので、ごゆっくりお休みになってください」と思いを伝えた。
友人代表のあいさつを担当した中村吉右衛門(74)は、目に涙を浮かべながら「師匠のご訃報をテレビで知った時は本当にショックですみません、歳をとると涙腺がゆるくなってしまいまして。師匠は落語を残し、落語のお客様を残し、やるべきことをすべてやりつくしました。ひとり勝ちです。師匠、勝ち逃げはズルいよ。本当にお疲れ様でした」と追悼。三遊亭小遊三(71)が謝辞として「これから一人ひとりが力をつけて、確固たる落語芸術協会を作っていくつもりです」と呼びかけていた。
法名は「眞藝院釋歌丸(しんげいいんしゃくかがん)」。横浜の海をイメージした祭壇には、菊、胡蝶蘭、デルフィニウムなど2500〜3000本の花で彩られた。遺影には、3年前の8月に国立演芸場で高座に上がった時の写真が使われた。
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2018/07/11