ポーラ美術館(神奈川・箱根町)は5日、都内で記者発表会を実施。パブロ・ピカソの「青の時代」の代表作である『海辺の母子像』下層部に、新聞紙が貼り付けられていたことを新たに発見したと発表した。製作過程や時期を見直す重要な手がかりとして、今後さらなる調査が進められる。
今回、展覧会の開催準備のため、ポーラ美術館はワシントン・ナショナル・ギャラリー、アートギャラリー・オブ・オンタリオと共同科学調査を実施。ピカソが1901年秋から04年、20歳から23歳までのころの作品群を指す「青の時代」の作品である『海辺の母子像』(1902年)を4月18日から20日にわたってハイパースペクトル・イメージング調査を行った。
この調査法は対象物に光を当て、その反射光を計測。含有する各物質の分布図に擬似的に色をつけ、どの顔料がどこに塗られているかを画像化した。今回の調査の結果、同作の下層部にフランスの新聞『ル・ジュルナル』紙(1902年1月18日号3ページ裏面)が貼り付けてあることが発見された。貼り付けられていた部分はカンバスの大部分にわたっていた。
ポーラ美術館の今井敬子学芸課長はピカソが新聞紙を貼り付けた目的について「おそらく絵画の上に別の絵を描くためではないかと推測しております」と説明。ただ、新聞紙の表面のインクが消えており、原因は不明。さらに詳細な調査を行うという。ピカソは新聞紙などのコラージュ作品も有名だが、今井氏は「推測の域を出ない」としつつも「ある種の実践としてカンバスの上に新聞紙を貼り付けていたと言える」とした。
また、新聞の発行日がわかることで、製作時期の見直しができるとした。今後、さらに本格的な分析が行われるという。1902年1月初旬にフランス・パリからスペイン・バルセロナに移ったことが定説とされている。古新聞をバルセロナに持っていったことも考えれるが、定説にも影響を与える可能性もありそうだ。
ピカソの作品では『マテウ・フェルナンデス・デ・ソトの肖像』にも新聞紙があるとされており、こちらは額の部分に文字が浮かんでいる。同作は1901年にパリで描かれたとされるが『ル・ジュルナル』紙の1902年1月9日号が貼り付けられており、今井氏は「製作時期の見直しが必要」とした。そのほか、今回の調査結果として、これまでの透過X線写真では発見できなかった下層に発見されていた別の絵の詳細や、下層部に書かれた明確なサインの画像も公開された。
木島俊介館長は「新聞紙という、それほど堅牢でない紙の上で描くことは、ほとんど考えにくいことなんです。けれど、この時代、ピカソは大変貧乏しておりまして、バルセロナに帰らざるを得ない状況になる。もしかすると、トレーシングペーパーじゃないですけど、新しい図像を古いキャンバスに移すために新聞紙の上にデッサンを書いておいて、それを貼り付けたというのも考えられる。いずれにせよ、ほとんどやらないこと。それで大変、興味がある話と思って、この会を催させていただいた」と振り返った。
また、発見の意義については今井氏は「2つ新聞紙が使われた例が見つかった。これは『青の時代』のスタイルの変遷、制作の変遷、足跡の変遷に関わること。美術史、ピカソ研究においても重要なことであるのではと考えている」と説明。「日本だけでなく、世界のピカソ研究者の方に、いろいろなご意見などを楽しみに期待しています」と話していた。
『海辺の母子像』は8月中旬ごろまでポーラ美術館で、9月18日から2019年1月6日までパリ・オルセー美術館で展示される予定となっている。
今回、展覧会の開催準備のため、ポーラ美術館はワシントン・ナショナル・ギャラリー、アートギャラリー・オブ・オンタリオと共同科学調査を実施。ピカソが1901年秋から04年、20歳から23歳までのころの作品群を指す「青の時代」の作品である『海辺の母子像』(1902年)を4月18日から20日にわたってハイパースペクトル・イメージング調査を行った。
この調査法は対象物に光を当て、その反射光を計測。含有する各物質の分布図に擬似的に色をつけ、どの顔料がどこに塗られているかを画像化した。今回の調査の結果、同作の下層部にフランスの新聞『ル・ジュルナル』紙(1902年1月18日号3ページ裏面)が貼り付けてあることが発見された。貼り付けられていた部分はカンバスの大部分にわたっていた。
ポーラ美術館の今井敬子学芸課長はピカソが新聞紙を貼り付けた目的について「おそらく絵画の上に別の絵を描くためではないかと推測しております」と説明。ただ、新聞紙の表面のインクが消えており、原因は不明。さらに詳細な調査を行うという。ピカソは新聞紙などのコラージュ作品も有名だが、今井氏は「推測の域を出ない」としつつも「ある種の実践としてカンバスの上に新聞紙を貼り付けていたと言える」とした。
また、新聞の発行日がわかることで、製作時期の見直しができるとした。今後、さらに本格的な分析が行われるという。1902年1月初旬にフランス・パリからスペイン・バルセロナに移ったことが定説とされている。古新聞をバルセロナに持っていったことも考えれるが、定説にも影響を与える可能性もありそうだ。
ピカソの作品では『マテウ・フェルナンデス・デ・ソトの肖像』にも新聞紙があるとされており、こちらは額の部分に文字が浮かんでいる。同作は1901年にパリで描かれたとされるが『ル・ジュルナル』紙の1902年1月9日号が貼り付けられており、今井氏は「製作時期の見直しが必要」とした。そのほか、今回の調査結果として、これまでの透過X線写真では発見できなかった下層に発見されていた別の絵の詳細や、下層部に書かれた明確なサインの画像も公開された。
木島俊介館長は「新聞紙という、それほど堅牢でない紙の上で描くことは、ほとんど考えにくいことなんです。けれど、この時代、ピカソは大変貧乏しておりまして、バルセロナに帰らざるを得ない状況になる。もしかすると、トレーシングペーパーじゃないですけど、新しい図像を古いキャンバスに移すために新聞紙の上にデッサンを書いておいて、それを貼り付けたというのも考えられる。いずれにせよ、ほとんどやらないこと。それで大変、興味がある話と思って、この会を催させていただいた」と振り返った。
また、発見の意義については今井氏は「2つ新聞紙が使われた例が見つかった。これは『青の時代』のスタイルの変遷、制作の変遷、足跡の変遷に関わること。美術史、ピカソ研究においても重要なことであるのではと考えている」と説明。「日本だけでなく、世界のピカソ研究者の方に、いろいろなご意見などを楽しみに期待しています」と話していた。
『海辺の母子像』は8月中旬ごろまでポーラ美術館で、9月18日から2019年1月6日までパリ・オルセー美術館で展示される予定となっている。
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2018/06/05