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村上ショージ、スベリ芸の流儀 芸歴40周年でたどり着いた境地「小さなことの積み重ね」

 ビートたけし(69)、タモリ(71)、明石家さんま(61)の通称「ビッグ3」を筆頭に、ダウンタウンとんねるずウッチャンナンチャン…と群雄割拠のお笑い界。誰もが「ウケたい」一心でしのぎを削る中、逆に“スベる”ことで唯一無二の地位を確立していったのが村上ショージ(61)だ。このほど芸歴40周年を迎えた村上にインタビューを行い、スベリ芸の流儀に迫った。

芸歴40周年の深み!村上ショージがスベリ芸の流儀を明かす (C)ORICON NewS inc.

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■運命変えた大阪への“夜逃げ” コンビ時代にはダウンタウンと賞レース争いも

 幼少期から“笑い”に囲まれて育った。「愛媛県出身なのですが、吉本新喜劇はずっと観ていて、岡八郎さんとか、皆さんのお芝居を観ると、本当に笑えて、勇気をもらった。ただ、家が貧しくて、テレビが置いてなかったから、先輩の家まで走って行って『新喜劇見せて!』ってお願いしながら観ていて…。今は、スマホですぐに観られますけど、その当時はテレビってそれくらい貴重なものやったんです」。好奇心旺盛な村上少年は、見ているだけでは飽き足らず、今度は自ら笑いを作る側に回った。「お祭りでは、ひょっとこのお面を被って踊ったり、高校のお別れ会で僕が台本とか演出をやってコントを作ったりしていました。やっぱり、当時から芸人という職業に憧れていたんでしょうね」。20歳になった頃、兄から「好きなことをやっていいぞ」と背中を押され、東京にある新人養成所の門を叩いた。

 主な収入源は、早朝の新聞配達。眠たい目をこすりながら、養成所で必死に“笑いのイロハ”を学んでいったが「笑いを教科書通りにやっていくのは、自分のスタイルに合わない」と見切りをつけた。「ある日、新聞が入った自転車を駅前に放ったらかして、夜逃げするような形で、大阪に行きました。いけないことだとわかっていたんですけど、何かこのままではアカンと思って…」。大阪にいた兄の家で居候を始め、1977年に吉本興業に入った。「その頃から(明石家)さんまさんとか、(島田)紳助さんとかは、もうテレビに出ていたんですけど、声をかけてもらって、コーヒー飲みに連れて行ってもらったり、食事させてもらって、すごくうれしかった。その頃からの付き合いですね」。笑いの本場に足を踏み入れた途端、交友関係がぐっと広がった。

 間もなくして迎えた、京都花月劇場での初舞台。ひとりで登場した村上は“ドジョウ一匹丸飲み”という芸で勝負するも、結果は大失敗。「人間ポンプみたいに吐き出すというネタだったんですけど、全くウケずに『キャー』って言われて。さんまさんの師匠の笑福亭松之助師匠も、その様子をご覧になっていました。それで後日、さんまさんが『お前、知ってんのか。注意したれ。アイツ、ドジョウ飲んでるぞ』と師匠から言われたようです。あの頃は、何やっていいかわからなかったから、ほかの芸人の舞台を観ながら、違うものをやりたいと模索していました」。80年代前半には、お笑いコンビ・NG2を結成した。「アイドルだった岡田祐治くんと一緒に組んで、コントみたいなのをやっていました。82年に『今宮子供えびすマンザイ新人コンクール』に出たんですけど、僕らが奨励賞で大賞はダウンタウン(当時は松本・浜田)。やっぱり、その頃からコント的な感じで言葉の使い方とかも面白かったですよ」。もう一度“ピン”で勝負したいという気持ちが強くなった80年代後半、さんまから持ちかけられたのが『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)への出演だった。

■スベリ芸を際立たせるフォローの言葉 笑いに賭けた40年は「小さなことの積み重ね」

 同番組では、Mr.オクレ前田政二とともに結成した「何人トリオ」として活躍。その前後から“ギャガー”としての道を歩み始めた。「あの頃の『ひょうきん』は、笑いの先端を行っていたから、好きなことをやらせてもらいました。『何を言う、早見優!』とかはその頃からやっていて『スベリ芸』なんて言われるのも、それくらいからやったかな。自分が面白いと思ったものが、全然ウケなくてというのを繰り返していたんやけど、不思議と悔しさみたいなのはなかった(笑)何か、僕自身投げやりなところがあって『しゃーないわ』みたいな。でも、今思えば、さんまさんが笑ってくれるというのは原動力になっていました」。芸歴では先輩となる同い年の盟友・さんまの評価を支えに、スベリ芸の道を開拓していった。

 お笑い芸人としては致命傷ともいえる「スベリ」を芸にまで昇華させるために、どのようなことを心がけてきたのか。その真意を聞くと、優しい目が一転して鋭さを増した。「やっぱり、スベった後の最後の一言が大事だと思っていて、そのまま帰ったら、本当にスベったままになっちゃう。だから、その後の一言で笑いを取れる部分はすごく大事にしてきました。例えば、何かギャグを言ってシーンってなると『……しゃーないな、きょうひざ痛いし』みたいな。ネタの本編より、そういう風なところを大事にしている部分はありますね。その場の空気によって、言葉のチョイスとかはこだわっています」。

 そんなスベリ芸の流儀を貫くためには、今のバラエティー番組ではやりにくさを感じる部分もある。「今のテレビでは、ネタ時間が3分くらいしかなくて、その中でどれだけ詰め込められるかが勝負。でも、芸っていうのは、間もいるし、ゆっくり流れる部分も必要。やっぱり、10〜15分くらいあって、ゆったりした部分で取っていくのも笑いのひとつだと思います。今の主流じゃないんでしょうけど、そういう古い時代の笑いみたいなのを大事にしたいっていうのはあります」。今回の40周年公演では、そんな古き良き時代の芸人たちの生き様を描いたビートたけしの名曲「浅草キッド」をギター弾き語りで披露する予定だ。

 同曲の歌詞に話題がおよぶと、まぶたを閉じて自身の歩みと重ねた。「歌詞が本当にスゴくステキで、売れない芸人の感じが共感できます。やっぱり、ポンと売れるものでもないですし、みんなアルバイトしながら夢をつかもうという人間の集まりでした。今みたいに学校行ってという感じではなくて、昔は弟子入りして、売れるか売れないかわからない中で、夢だけ追いかけている人たちが、たくさんいましたね」。同曲を歌う許可をもらうため、たけしのもとを訪れたという。「(たけし軍団の)ガダルカナル・タカちゃんに『ちょっと、一回師匠に言ってみてくれる?』みたいな感じで頼んだら、大丈夫だということだったので、ごあいさつに行きました。ちょっと時間をいただいて『師匠の名曲の価値を下げるかもしれないですけど、歌わせてください』とお願いしたら、たけし師匠もすごくシャイな方なので『いいよ、バカヤロー。勝手に歌えよ』みたいな感じで言ってくださりました」。40周年を迎えた感想も、何とも村上らしいものだった。

 「うーん…考えてみたら何もなかったです(笑)ホンマにそんなもんですよ。ただ、皆さんのおかげでここまで来ることができた。自分の努力といっても、みんな努力していますからね。続けてくることができたありがたさの方が強いかな。そんなに、毎日スゴイ出来事ってないんです。本当に小さなことの積み重ねで、気づいたら40年になったっていう感じですね」。スベリの数だけ笑いを届けてきた男・村上ショージの挑戦はこれからも続く。

■村上ショージ芸能生活40周年記念ライブ『売れるまでの下準備スイッチオン 〜押してなかったんや…「うん。」〜』
・大阪公演
日時:2016年12月11日(日)
会場:大阪・なんばグランド花月
出演:村上ショージ
ゲスト:間寛平130R中川家千鳥銀シャリ/バターぬりえ ほか

・東京公演
日時:2016年12月16日(金)
会場:東京・ルミネtheよしもと
出演:村上ショージ
ゲスト:雨上がり決死隊/中川家/千鳥/次長課長/バターぬりえ ほか

関連写真

  • 芸歴40周年の深み!村上ショージがスベリ芸の流儀を明かす (C)ORICON NewS inc.
  • 代名詞の一発ギャグ「ドゥーン」を披露 (C)ORICON NewS inc.
  • 芸能生活40周年記念ライブ『売れるまでの下準備スイッチオン 〜押してなかったんや…「うん。」〜』を開催する村上ショージ (C)ORICON NewS inc.

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